第2話 掌の上
(簡易人物メモ)
糸瀬貴矢(初): 元TAパートナーズ 代表
松木茂人(初): パインキャピタル 会長
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2018年11月。東京都港区、六本木から程近い赤坂ガーデンタワーの31階、パインキャピタル株式会社の会長室に、糸瀬貴矢は呼び出されていた。
会長室と言っても、フロアをパーテーションで区切って、それっぽい分厚い机とソファと椅子を置いただけの簡素なつくりである。
目の前に座るパインキャピタルの会長である松木茂人は、糸瀬の関わってきた人間の中で間違いなくナンバーワンの資産家であるが、ビジネス中毒な性格もあり、服や時計や部屋の内装など、煌びやかのものにまったく興味がないらしい。
「松木さん、私もう部外者なんで、会長室で話すのはやめた方がいいんじゃないですか?」
「まあまあまあ、いいじゃないの。家族みたいなものなんだから」
60代も半ばに差し掛かっている松木は、非常に気さくな人間だが、どんなに親しい相手に対してもビジネスマンとして接する。家族という彼の言葉は、ほぼ冗談みたいなものだ。
「あ、じゃあタバコ吸っていいですか?」
「馬鹿言うんじゃないよ、禁煙だよ」
「そうですよね。いやそこも、まあまあまあでいけるかと思っただけです」
糸瀬は外資系金融機関でのキャリアを経た後、前職の部下ふたりとともに「TAパートナーズ」というファンド運営会社を立ち上げた。
ファンド運営会社とは、資産運用したい投資家の資金を預かって、ファンドを通じ様々なアセットへ投資を行い、そのリターンを彼らに還元するビジネスである。
TAパートナーズは企業再生に特化したファンド運営を行っており、したがって投資対象は企業であった。それも破綻した、または破綻しそうな企業である。
糸瀬は投資後のバリューアップにはそれなりに自信があったものの、入口で資金を集めることに関しては経験に乏しかったため、松木の力を借りて、パインキャピタルの子会社として事業を開始した。2013年のことであった。
結果として糸瀬の選択は正解だった。銀行、証券、保険、年金基金、果ては経済産業省にまで人脈を広げる松木の助力もあって、ファンドレイズ(資金集め)は順調に進み、ピーク時は実に総額600億円の資金を運用するまでに拡大した。
「9月のクロージング以来かな。改めて挨拶に来てくれると思ってたよ」
「すみません、今になってしまいました。その節はありがとうございました」
「はは、相変わらずだなぁ」
松木の言うクロージングとは、そのTAパートナーズの売却の件である。
事業があまりに拡大し、取り扱う案件の数が増えてしまったため、案件のクオリティが維持できないと考えた糸瀬は、ファンド規模の縮小を提案したが、親会社のトップである松木は反対した。
所詮は子会社の代表であった糸瀬は、松木を説得するという方法を取らず、であればここで売却して終わらせるのはどうかと松木に持ちかけたのが2017年だ。
そこからはトントン拍子に話が進み、2018年9月、国内新興の金融コングロマリットであるFIDホールディングスに、200億円という高値で売り抜けることに成功したのである。
松木は自分のネットワークを貸しただけで100億円近い利益を得たのだから、笑いが止まらないだろう。彼なしでの事業拡大はあり得なかったわけで、もちろん感謝はしているが。
「今は何やってるの?」
「またふたりと会社作りました」
「え、知らないよ。もう設立しちゃったの?」
「しました」
「なんだ、言って欲しかったなぁ。僕も資本入れたかったのに」
「あーすみません、残念です」
たぬき親父め。やっと自由になったのにまだ付きまとうつもりかと糸瀬は内心うんざりしたが、最低限の礼儀はを弁えるべく、機械的に言葉を返す。
「また再生やるの?」
「いや、なんも決めてないです。お金は手に入ったんですが、私たち3人とも独身ですし、使うところないんですよね」
「ほお…それは良いかもね」
松木は髭をたくわえているわけでもないのに、顎のあたりを指でさすりながら、わざとらしく考え込むような仕草を見せた。
「それで、今日は何のお話ですか?」
「鈍いな糸瀬くん。僕が話すのはいつだって案件の話だよ。このタイミングで話す案件なんてひとつしかないじゃないか」
「あー…Yですか」
金融業界では機密情報やインサイダー情報取扱の観点から具体的な企業名を明かさぬまま口頭やメールでやりとりすることが多い。大抵は会社名の頭文字をアルファベットで取って、A社とかB社とか言うものだ。
糸瀬の言う「Y」というのは、言うまでもなく先日会社更生を申し立てたヤマト製鉄のことを指している。
「そうそう、Y社」
「あ、松木さんやるんですか」
「僕じゃないよ。Fがね」
正確にはFIDホールディングス傘下となった新生TAパートナーズが手掛けるのだろう。企業再生ビジネスに参入したと世間へ向けてアピールするに相応しいビッグディールだ。強欲なFID社がこの機を逃すわけがなかった。
「確かにタイミング含めて、手を出すのは良いと思いますけど」
「…いや、それが困ったことにさ、ごっそりリストラするらしいんだよ」
「はぁ…。再生ですから、リストラが必要であればやるしかないですよね」
「いやいや、もちろんそうなんだけどさ。実はこの前Y社の会長から連絡をもらってね」
ヤマトはかなりアグレッシブなリストラや資産の売却を実施しなければ再生計画が立案できないほど財務が傷んでいるらしいが、経営陣としては、それでもなんとか世間からのバッシングを和らげたいそうだ。なんとも虫の良い話である。
「それで、松木さんはどうしたいんですか? 申立代理人弁護士変えて計画を作り直すとか?」
「今更そんなことしたって、世間の見え方は変わらんだろう」
話が見えない。そして松木は先程から、あえて要領悪く話しているような節が見え隠れしている。
「Y社の中核拠点のひとつ、和歌山の製鉄所を閉鎖するらしいんだけどね、土地も建物も全部Y社が持ってる。一応JPスチールが買い手候補として手を挙げたんだけど」
「あら、よかったじゃないですか」
「そんなの、国が圧力かけただけだろう。JPからしてもどうせ新しく製鉄所作るなら、コストの安い海外のどこかでやりたいはずだよ。ーーーで、JPとしても国には逆らえないから、せめてもの抵抗として、一部だけ引き受けるって話になりそうなんだ」
「…なるほど。ありそうな話ですね」
「それでさ、残りの土地、糸瀬くん買ってみない?」
「……」
こいつは何を言ってるんだ。
あまりにも驚きすぎて、は?とかえ?みたいなリアクションすらできなかった。
「和歌山のどこか知りませんけど、製鉄所跡地なんて、買うわけないでしょう。土地の上には何があるんですか? 工場?」
「そこには工場は建ってないんだ。だからJPもいらないって話らしい」
「じゃあ更地なんですか? まぁ更地だとしてもいらないですけど」
「サッカー場」
松木の言葉に、糸瀬の眉間がぴくりと動いた。
松木はそれを見逃さないだろうし、それを見逃さないであろうことは糸瀬も分かっていた。
「ほとんど更地らしくて、そこにサッカー場が2面ある。ひとつは観客席もついてるちゃんとしたやつで、もうひとつは練習用なのかな? 今年できたばかりのピカピカらしいよ」
「…なんだってそんなもの作ったんですか?」
「Y社の会長がスポーツ好きで、結構やってるらしいよ。僕はあんまり詳しくないんだけど、和歌山県ってJリーグのチームがないから、それ作るのが県の悲願なんだって」
ようやく話が読めてきた。
糸瀬が昔、酒の席で柄にもなく松木に夢を語ってしまったことがあり、それをこいつは覚えていたのである。
「糸瀬くん、Jリーグチームの再生やりたいって言ってたじゃない? ちょうどいいかなと思って」
「…いや、再生どころかチームすらないって話なんでしょ?」
「いや、サッカー場作ったんだから、会社のサッカー部くらいはあるんじゃないの?」
「そこからJリーグ目指せってことですか?」
サッカーリーグのカテゴリの構造は詳しくなかったが、おそらく気の遠くなるような話に違いない。
それでも糸瀬はばっさり断らなかった。サッカービジネスへの参入機会。今後生きていく上で早々あるものだとは思えない。
「ほら、興味あるでしょ?」
「どれくらいの土地なんですか?」
「35万坪」
「もうよくわかんないです。広いことだけは分かりました。ちなみに、いくらですか?」
「これは内緒だけど…えーと30億円かな。35万坪で30億円なんてさ、破格だよね」
「い、いや、無理です。そんなに持ってません。松木さん知ってるでしょ」
TAパートナーズの株式譲渡対価200億円の内、糸瀬の持分は20%。単純計算で40億円となり、そこから税金と松木へのアドバイザリー手数料を控除すると、30億円には届かない。
「足りるじゃない。60億円くらい持ってるでしょ…君たち3人で」
「…あなた悪魔ですか。ふたりを巻き込めって?」
「そうそう、『三本の矢』の復活じゃないか!」
「復活というか、まだ会社売ってから2ヶ月しか経ってないですよ…」
「三本の矢」とは、糸瀬を含めたTAパートナーズ創業メンバー3人のニックネームみたいなものだ。
糸瀬貴矢、矢原智一、細矢悠。3人とも名前に「矢」がついていることから、業界からというほどでもないが、一部の関係者からはそう呼ばれることもあったくらいの、ただの偶然のネタである。
「30億円使って、バカ広い土地とサッカー場を買って、どうしろと」
「それは君たち次第だよ。でも散々企業の再生やってきてもう飽きたでしょ? 今度は街の再生やってみればいいじゃない。みんな困ってると思うよー。助けてほしいんじゃないかな」
地域住民のことなど1ミリも慮る気がなさそうな松木が、わざとらしく企業再生家としての糸瀬を煽るように言葉を投げかける。
「……いつまでに回答を?」
「再生手続は進んでるからね。早い方がいいよ」
糸瀬は立ち上がった。やるにせよやらないにせよ、まずは情報を集める必要があった。サッカービジネスのこと、和歌山県木国市の状況、共同創業者との協議。
分からないこと未確定なことが多くて気持ちが悪い。とりあえずひとつずつ潰してはっきりさせたいところである。
「また連絡します」
「待ってるよ。僕も手伝うから。紀伊銀行の頭取に連絡入れておくよ」
「それは連絡した後の話ですよ」
「やるでしょ。それに君がやると決めたら他のふたりは乗ると思うな、僕は」
やっぱりこの人は苦手だ。
乗せられているわけでもなく、自分の意思で動いているつもりなのだが、それが彼の思惑となっている。掌で転がされるとはこういうことを言うのだろう。
つづく。