9話・炎の壁を越えて
「おお、おお。わかっておるとも。ルーナ嬢がそのような真似をしないと信じておるからこそ儂は婚姻を以て其方の名誉を守ってやるのだ」
「閣下、ありがとうございます」
使用人からも蔑まれるルーナにとって、インテレンス卿の言葉は強く響いた。故に、素直に安堵と感謝の気持ちが表に出る。それを与し易しと捉えたか、インテレンス卿は更に笑みを強くした。
「だが、儂の庇護下に入りたいのならば相応の誠意を見せてもらわなくてはなァ」
インテレンス卿が顎を上げて目配せすると、部屋の隅に控えていた四人の護衛が動いた。まず二人がルーナの左右に回り、両腕を掴んで動きを封じる。残りの二人は部屋の扉に内鍵を掛けてから向き直った。
突然拘束されたルーナが驚きのあまり声も出せずにいると、インテレンス卿がくつくつと愉快そうに喉を鳴らしながら歩み寄る。その表情は先ほどまでの温厚な笑みではなく愉悦に歪んでいた。
「おまえたち、ルーナ嬢を可愛がってやれ。男を知らぬ娘が悦楽に溺れてゆく様を儂によぉく見せておくれ」
「はっ」
慣れたやり取りなのだろう。護衛たちは短く返事をすると、それぞれがルーナに手を伸ばした。
「不名誉な噂を消す代わりに娘を好きにして良いとクレモント侯爵から許可を得ておる。せいぜい良い声で啼いて愉しませておくれ」
「か、閣下? なんの真似ですか」
腕を掴まれたまま、ルーナは震える声で疑問をぶつけた。か弱い少女の問いに、インテレンス卿は機嫌良く答える。
「儂はもう若くはないのでな。まずは嬲られる女を見て己を奮い立たせねばならんのだ」
「そんな」
自分の腕を掴む護衛の男が空いたほうの手でドレスの留め具を外そうとしていることに気が付いたルーナは身をよじるが逃げられない。首元までしっかりと覆われた襟の小さな留め具は武骨な男の指では外しにくい。流石に引きちぎってまで脱がせるつもりはないようで、護衛は悪戦苦闘しながらひとつずつ外していった。
「前の第二夫人は責め苦に耐えきれずに心を病んでしまってな、一ヶ月ともたずに離縁した。さあて、ルーナ嬢はどれだけ楽しませてくれるかな?」
「こんなことはやめさせてください、閣下!」
懇願するルーナの顎を掴み、インテレンス卿は自分へと向けさせた。震えるあまり、長く垂れた耳飾りがチリリと音を立てる。蒼白となった少女の顔に、にんまりと歯を見せて笑った。
「あぁ、良い顔だ。今宵はどれだけ悲鳴をあげても誰も離れには来ぬ。存分に声を上げよ。可愛い声を聞かせておくれ」
「ひっ……!」
ルーナの表情が絶望と恐怖に染まる。
その時、何かが割れる音が立て続けに響いた。
「火事だ! 早く逃げろ!!」
どこからか騒ぐ声が聞こえてくる。慌てふためく使用人たちが走り回る音も。
驚いた護衛のひとりがルーナから手を離し、窓辺に駆け寄る。厚手のカーテンをめくると、窓の外に赤々とした炎が見えた。反対側の扉を守っていた護衛も鍵を開けて廊下に出る。すると、廊下の奥から黒煙が迫りつつあった。
「閣下、火元はこの建物のようです!」
「なんだと?」
「避難せねば危険です。早く!」
護衛たちに促され、インテレンス卿も部屋から飛び出した。ルーナは腕を引かれていたが、足がもつれて早く走れない。連れていては逃げ遅れるとでも思ったか、離れの玄関に辿り着く前にインテレンス卿の手は離された。
煙る廊下にひとり取り残されたルーナは首元のボタンを自ら外し、背後を振り返る。延焼する廊下の向こうにいた人物が柱の陰から姿を現した。
「ありがとうティカ。助かったわ」
「いえ。当然のことをしたまでです」
先ほどまでの怯えた表情など微塵もないルーナと、いつものお仕着せではない軽装姿の専属侍女ティカは笑顔で手を取り合った。
離れに火をつけたのはティカだ。騒ぎに乗じてルーナを連れ出すためにわざと手燭の炎で廃材などを燃やしたのだ。消火が困難になった頃を見計らって本邸から使用人を呼び、騒ぎを大きくした。
今夜がただの顔合わせで済めば、ルーナは政略結婚に応じるつもりだった。だが、フィリッドの言葉がもし真実ならばティカの提案に乗ろうと決めていた。
「さあ、今のうちに」
「ええ」
ドレスを脱ぎ去り、下に着ていた簡素な服の上からティカがあらかじめ用意していた上着を羽織った。外した耳飾りや指輪、腕輪などはまとめて肩掛け鞄に突っ込み、歩きにくいヒールも脱ぎ捨てて革靴に履き替える。
「……さようなら」
離れを燃やす炎が夜の闇を照らす。木陰に身を隠し、消火に奔走する使用人たちをちらりと見てから、ルーナはティカの手を取って真っ暗な庭園を駆け抜けた。