最終話・生涯を共に【完結】
王宮からゼトワール侯爵家の離れに帰った後も、ルーナは考え続けた。刺繍枠を何度も取り落としたり、誤って針を指に刺したりして、心配したティカから道具一式を没収されたほどだ。
「お嬢様、リヒャルト様がいらっしゃいましたよ」
「お通しして」
既に日が落ち、辺りは暗くなっている。ルーナは明かりを灯したテラスへと招いた。磨りガラス製のランプが淡い光を放ち、向かい合わせに座る二人を優しく照らしている。
「お仕事お疲れ様でした」
「ルーナ嬢も王宮に出仕して疲れただろう」
「いいえ、楽しく過ごさせていただいております」
互いを労いあったところで会話が途切れる。無言の時間が流れるが、不思議と気まずさは感じない。もし他の男性と二人きりになって会話が途切れたら、ルーナはきっと焦るだろう。差し障りのない話題を振ってやり過ごしたに違いない。そう考えると、自然と心の整理がついた。
「私、アルケイミアにいる時には居場所がないように感じておりました。シュベルトに来てから、ようやく本来の自分を取り戻せたような気がします」
話し始めたルーナを、リヒャルトは黙って見守る。
「今の私があるのは皆さまの、特にリヒャルト様のおかげだと思っております。私を見つけてくださって、何度も身を呈して守ってくださって、本当に感謝しております」
不正を疑われて聖女候補から外された。異母兄フィリッドに襲われかけ、宰相インテレンス卿に弄ばれそうになった。
すべてを捨てて逃げた先でリヒャルトと出会った。偶然通った路地裏で傷付いた彼を見つけ、持っていた縫いかけのハンカチを血止めにと渡した。
当時ルーナは自分に特殊な能力があるとは知らなかった。ハンカチが魔導具ではないかと気付いたリヒャルトはラウリィに頼んで製作者を探し、居場所を突き止めた。その後ほとんどそばを離れることなく、住む場所を提供したり護衛したりと、リヒャルトは何かと世話を焼いた。ラスタやグレイラッドとの縁もリヒャルトがいたからこそ。再びアルケイミアの地を踏み、過去を清算できたのもリヒャルトがそばにいて支えてくれたから。
「リヒャルト様にはお世話になってばかりですのに、なにもお返しできていません」
「必要ない。そもそも、先に俺を助けてくれたのはルーナ嬢だろう」
リヒャルトは上衣の袖をめくり、左の手首を出した。傷は跡形もなく消えている。
「あの日、俺はラウリィの忠告も聞かずに一人で魔獣退治に赴いていた。前の任務でディルクに怪我をさせてしまって、隊長として責任を感じていたのだと思う。なんとか魔獣は倒したが、代わりに深手を負った。無茶をした報いだと、その程度の男なのかと、不甲斐ない自分に失望していた」
街医者に向かう道すがら、力尽きて座り込んでいたところにルーナが通り掛かった。心配して声を掛け、綺麗なハンカチを渡してくれた。傷口に当てた瞬間痛みが引き、出血が止まった。再び立ち上がる気力を与えられたように感じた。
「だから、礼を言うのは俺のほうだ。シュベルトに来てくれて、俺と出会ってくれて、本当に感謝している」
リヒャルトは椅子から立ち、ルーナのそばの床に片膝をついた。戸惑うルーナの手を取り、指先を軽く持ち上げる。
「ルーナレッタ・エスカティエーレ嬢」
初めて本当の名で呼ばれ、ルーナはどきりとした。目を瞬かせ、息を飲む。
「もし嫌ではないのなら、俺を人生の伴侶にしてくれないだろうか」
「えっ……」
「俺のそばにいてくれ。頼む」
以前も同じ言葉を告げたことがある。その時は肝心のルーナが疲労で寝落ちてしまい、返事は聞けずじまいだった。リヒャルトは最初からずっとルーナを特別な相手だと思っている。任務を曲げ、国外まで無理やり同行してしまうくらいには。
跪いたリヒャルトから熱のこもった視線を向けられ、ルーナの頬が熱くなる。握られた手から体温が伝わり、急に恥ずかしさを覚えた。小刻みに震えた手を怯えだと思ったか、リヒャルトがそっと手の力を抜く。離れていこうとする手を、ルーナが慌てて掴み直した。片手ではなく、両の手でリヒャルトの拳を包むように握り込む。
「わっ私で良いのなら、喜んで」
真っ赤な顔で了承を伝えるルーナを、リヒャルトはたまらず抱きしめた。急に椅子から持ち上げられ、リヒャルトの腕の中に収められ、ルーナは小さく悲鳴を上げた。テラスの床から足先が浮いている。完全に抱き上げられた状態だ。
「すまない、怖かったか」
「いえ、びっくりしただけで」
謝りながらも、リヒャルトはルーナを離さない。ぎゅう、と腕に力を入れて逃がさぬように抱えている。
「……ずっと、こうしたかった」
抱き締められたまま耳元でこんなセリフを囁かれてはたまらない。恥ずかしさのあまり、なんとか逃げ出そうと腕を突っ張るが、現役騎士に力で敵うはずもなく、状況はひとつも変わらなかった。
「リヒャルト様、あのっ」
離してもらうために直接頼もうと顔を上げると、超至近距離で目が合った。吐息が掛かるほどの近さに、一瞬動きが止まる。
どれくらい見つめ合っていただろうか。次第に近付いてくるリヒャルトを拒むことも忘れ、ルーナはぎゅっとまぶたを閉じた。
あと少しで唇が触れる、といった時に客室とテラスを繋ぐ扉が勢い良く開かれた。
「お嬢様、リヒャルト様、ラウリィ様がお越しです」
「リヒト、大事な話があるんだが──」
テラスに踏み込んだティカとラウリィは、抱き合うルーナとリヒャルトの姿を見て硬直する。そして、すぐさま「お邪魔しました!」と踵を返して扉を閉めた。
「ま、待って。ティカ、ラウリィ様!」
慌てるルーナとは対照的に、リヒャルトは平然としている。邪魔者は去ったと言わんばかりに、気を取り直して再び顔を寄せた。
「嫌なら殴ってでも止めてくれ」
同意なく口付けする勇気はリヒャルトにはない。自分だけはルーナに触れても嫌がられなかったが、それは下心に気付かれていなかったからに他ならない。本当は触れたくて仕方がないのだと知られれば、男性恐怖症気味のルーナから避けられるかもしれない。今のリヒャルトは嫌われることを何より恐れていた。
「手をあげるなんて出来ません」
こんな時でも気持ちを尊重してくれるリヒャルトに胸がぎゅうと締め付けられる思いがした。自分から顔を寄せ、リヒャルトの頬に唇を押し当てる。
「……これが、愛しいと思う気持ちなのですね」
顔を離してから、ルーナは照れ笑いを浮かべた。淡いランプに照らされた白い肌は先ほどから真っ赤に染まり、リヒャルトの目に輝いて見えた。
「俺を愛しいと思ってくれるのか」
「はい」
ルーナの言動のひとつひとつが愛しくて、リヒャルトの心があたたかいもので満たされていく。想いが通じただけで今は十分幸せなのだと感じた。
「そういえば、ラウリィ様がいらしてましたよね」
「放っておけばいいんじゃないか?」
「ダメです、大事なお話があると仰っていたもの」
リヒャルトは渋々ルーナを腕の中から解放し、テラスから客室へと向かう。扉を開けて室内を見ると、ソファーの上でラウリィとティカが互いの背に腕を回し、深い口付けを交わしているところだった。よほど夢中になっているのか、二人は見られていることにすぐには気付かなかった。
「大事な話っていうのは、僕とティカの交際の件なんだ。僕の家族には報告したんだけどね」
エクレール伯爵夫妻と義理の兄には既に紹介したという。ルーナもリヒャルトも、二人が惹かれあっていると以前から気付いていた。しかし、家族公認で交際中だとは思ってもおらず、心底驚いている。
「アタシは愛人とかで良いって言ったんですよ。そもそも身分が違いますし、肌の色だって」
「そんな曖昧な関係、僕が嫌だ」
「もぉ、ラウリィ様ったら」
口付けしているところを目撃されたからか、ラウリィは取り繕うことをせず、ティカの後ろから抱き付いてベタベタしている。リヒャルトはそんな二人を羨ましく思った。そして、二人の幸せを我が事のように喜ぶルーナを見て目を細める。
「ルーナ嬢。俺も君を生涯を共にする伴侶なのだと皆に知らせたい。構わないだろうか」
「えっ? あ、は、はいっ……」
了承と同時にまた腕の中にとらわれる。同じように抱き締められているティカと目が合い、ルーナは眉を下げて笑った。
『聖女になり損なった刺繍令嬢は逃亡先で幸福を知る。』 完
最後までお読みいただき誠にありがとうございました〜!
この後ティラヘイアに行ったり、グレイラッドとラスタの結婚式に出席したり、新居に引っ越してイチャイチャしたりと色々ありますが、みんな幸せに暮らしていくことでしょう。いつか番外編みたいな感じでその様子が書けたらいいなと思います。




