49話・絶縁宣言
アルケイミアの宰相インテレンス卿は、頬肉に押し上げられて細くなった目を必死にこじ開け、一点を凝視していた。離れていても、彼にはひと目で分かる。ルーナが抱えている分厚い帳簿は間違いなく自分のものであり、決して世に出してはならない『アルケイミアの歴史の闇そのもの』である、と。
なんとしても取り返さねばという一心で、インテレンス卿が駆け出した。でっぷりした体躯が動きを妨げるが、気にしている余裕などない。ところが、リヒャルトによって簡単に弾き返されてしまう。
「くそ、無礼者めが!」
インテレンス卿は小さく悪態を吐いた。ルーナだけならばどうにでも出来るが、付かず離れずの位置に陣取っているシュベルトの騎士の存在が厄介だ。
「これは罠だ! 儂を嵌めるための策略だ!」
腕っぷしで勝てぬのならば舌戦で挑めば良いとでも考えたのだろう。宰相という地位に長年君臨しているだけあり、インテレンス卿は弁舌には自信があった。
「先ほどからルーナ嬢を庇い立てしているのはどうやらシュベルトからの客人のようですな。友好国だと言いながら、もしやアルケイミアを混乱させた隙に侵略するつもりではないか?」
ルーナが最も危惧していた『シュベルトとアルケイミアの関係悪化』。インテレンス卿は目敏くルーナがシュベルト側に庇護されている事実に気付き、真っ先に突いた。友好国との関係が拗れれば最悪の事態も有り得る。戦争のリスクを避けたければ、ルーナへの庇護を打ち切り、見捨てるのが最善。
「宰相である儂を排除すれば容易く支配できると考えておるのだろうが、そうはいかんぞ!」
明らかに黒いものでも白としつこく言い張れば、そのうち相手が折れて認める。時間を稼ぎ、有耶無耶にして、機をみて奪い返せばいい。そう考えていた。
しかし。
「見苦しいぞ宰相! しばらく黙っておれ!」
厳しい叱責の声が壇上から響いた。宰相を一喝したのはアルケイミアの王子ディールモントである。彼は椅子から立ち、肩で息をしながらインテレンス卿を睨み付けていた。か弱い王子が怒鳴る姿など初めて見たインテレンス卿は、驚きのあまり声も出せずに固まっている。
その隙に、ルーナは抱えていた帳簿を開いた。新しいものが一番上に綴じられており、複数の人物の名前や役職、数字が記載されている。
「聖女選定の選定官の方々の名が記されておりますね。どうしてでしょうか」
王子から「黙れ」と命じられたからか、インテレンス卿は何も答えない。ただ何度も首を横に振って否定の意を示すのみ。全身から脂汗が滲み出ており、動揺が見てとれた。
「次の頁にはお父様の名があります」
少し離れた場所に立っていたクレモント侯爵ステュードがギクリと体を強張らせた。血の気が失せた顔で帳簿を捲るルーナの姿を見つめている。
「契約書の署名は間違いなくお父様の字です。何故こんなところに挟まっているのかしら」
大広間にいる全ての者に見せて回れない以上、何が書かれているかを説明せねばならない。ルーナは綴じられた契約書の文言に目を通し、簡潔にまとめた。
「契約書の内容は『実の娘を聖女に推す見返りに養女を差し出す』……先ほどの選定官の方々はこのために買収されていたのですね」
会場内に何度目かのどよめきが起こった。神聖なる聖女選定の儀に於いて不正が行われていたという動かぬ証拠が出たからである。
ルーナは更に頁をめくった。走り書きのようなものから正式な誓約書まで、書式は様々だが全て聖女選定に関わるものだ。
「帳簿には賄賂を贈って便宜を図ってもらった者、または買収された者の名と金額が事細かに記載されております。かなり昔の記録も残っているみたいですね」
今回だけでなく何代も前のものまでキッチリ保管されていると聞き、一部のアルケイミア貴族の顔色が変わった。対岸の火事だと傍観しているところに火の粉が降り掛かったのだから慌てるほかない。
真っ先に反論した人物は、やはりクレモント侯爵ステュードである。
「いい加減にせんか、ルーナ! おまえは由緒ある我が家を貶める気か!」
ステュードから叱られても、ルーナは少しも怯まない。
「ルーナ、もうやめろよ。この前のことは謝るからさ。冗談、いや、悪ふざけが過ぎただけなんだ。今なら許してやるからさ、殿下たちに『ぜんぶ嘘でした』って言えよ、なあ?」
フィリッドからの的外れな謝罪にも、ルーナは何も感じない。
「言い掛かりはやめなさいよ、この恥知らず! だから愛されないのよ妾の子は!」
アトラから侮蔑の言葉を投げつけられても、ルーナの心は痛まない。
「私はアトラと違ってお父様の、クレモント侯爵の娘ではありません。……そうですよね? だから、もうクレモント侯爵家の言いなりにはなりません」
ルーナは凛とした姿勢を崩さず、三人に向かって堂々と尋ねた。ステュードは返す言葉もなく、ただ唇を噛んで睨み返すのみ。
「あなた、フィリッド。それとアトラ。みっともない真似はおやめなさい。クレモント侯爵家の品位を下げているのはどちらなのか、本当は分かっているでしょう?」
クレモント侯爵夫人が三人に釘を刺し、ルーナを援護する。ちらりと視線を合わせ、小さく頷き合ってから、ルーナは言葉を続けた。
「先ほども申しましたが、聖女選定の結果が故意に捻じ曲げられ、本来なら選ばれるはずのない者が聖女に選ばれた可能性があります。これまでアルケイミアの国民は『王族の男性は魔力が少ないもの』として教えられてまいりました。だから、誰も疑問に思わなかったのです。──魔力量が多い聖女を妻に迎えているにも関わらず、代々ずっと魔力が少ないことに」




