狂気の瞳
干からびた胎児を、手足の細い、全身マッチ棒みたいな化け物が、引きちぎってバリバリとおいしそうに食べていた。
私は目をそむけたかったが、できずにずっと見ていた。
私は自分の唸り声で目を覚ました。
私とは一体誰なのだろう。
『やあ、おはよう』と透は私に語りかけてきた。
「ああ、おはよう…」
私は二重人格というものらしい。私が主人格の彼…透と入れ替わる時、時々不気味な夢を見る。そして唸りながら目覚めるのだ。
一体なぜ?
私は窓を開け、どんよりした空を見て「雨かな…」とひとり呟いた。
私、沼田 勉は、けたたましい呼び鈴の音に目を覚ました。
時計はまだ、朝の6時であった。
「おーい! いるか!」と玄関扉の向こうから声がする。
「はい…」と私は不機嫌になりながらも、もぞもぞと布団から起き上がり、玄関へ向かった。
もう声で誰かわかっていたので、のぞき窓から外を確認せず、さっさと鍵を開けて扉を開いた。
「なんだ! その格好は。まだ寝てたのか?」とあきれ顔で角刈りの男はいった。
男の名は田中 陽一。45歳。どこにでもありふれている名の、どこにでもいる、ただの県警の警部である。
私はというと、どこにでもいる、ただのジャージ姿で寝起きの悪い27歳。推理代行事務所の副社長である。
「ぅえっと…。透か?」
「残念。勉です」
「なんだ、そうか、じゃあ透と変わってくれ!」と警部は軽い感じでいった。私は、こんな威厳の無さそうな、軽い感じの男が警部で大丈夫だろうかと、いつも思っている。
「ちょっと待ってください。まだ寝ているんですよ。今起こしますから。悪いですけど、上がって待っていてください」と私はいい。ひとまず顔を洗って着替えてしまおうと思った。
「それにしても、ここは広いな! ここ10棟だっけ! さっき間違って隣の11棟にいっちゃってさ! 変なおばちゃんが不機嫌な顔して出てきたから、びっくりしちゃったよ!」と一人で笑いながら警部はぶつぶつ言っていた。
「気の毒に」と私は朝から変なテンションの男におこされたおばちゃんに同情しながら、洗面台前の窓から外を見た。
私が住んでいる団地の名は沼澤団地と呼ばれている。本当は花澤団地という名だったが、近くに沼があるので、皆が沼澤とよび出したのである。
団地は、鉄筋コンクリートの4階建で外壁はモルタル塗りになっている。長年の風雨で壁はやや黒くくすんでいるが、個々の団地の周りにある、半径6メートルくらいの円形の庭は植木などがきれいにカットされているので、そこまでみすぼらしくはない。これが12棟あり。私は10棟の3階に住んでいるのだ。
私が、眠気覚ましにコーヒーを入れていた時に、『ブラックにしてくれよな!』と透が私に話しかけてきた。
「何だ? 起きたのか」
『ああ。どっかの馬鹿がでかい声を出すから、目が覚めちまったよ』
今、私に話しかけてきた男は、沼田 透。私のもう一つの人格である。
私は二重人格である。主人格は一応透ということになっている。
私たちは双子として生まれたが、生まれたときには片方はすでに死んでいた。
親が言うにはきっと、勉の魂が透の体に避難でもしたんだろうと、よく言っていた。
うちの親もずいぶん変わったことを言う人である。普通なら悲観してもいいところを、まあそのおかげで私もずいぶん健やかに幼少期を過ごせたが。
透も、勉と体半分ずつなので、半分ずつ頑張ればいいので楽できると、よく言っているし、むしろ喜んでいる節もある。
だから、本来なら彼が起きて警部の相手をするところも、僕が代わりにしたので、彼にとってはラッキー! という所なのだろう。
まあこんな感じで僕と彼は今までやってきたのだ。
「お! コーヒーか」と警部は私が持ってきたコーヒーを見ていった。
「ミルクと砂糖はどうします?」と私は訊くと「男は黙ってブラックだろ!」といってずずっと音を立てながら飲んだ。
『お前は水でも飲んでろっての!』と透がいうので「おい…」と私はいった。
「なんだ? 透がおきているのか?」と警部は私の独り言に気がつき言った。
警部には入れ替わっているときの、もう一人の声は聞こえない。表に出ていない時の人格と話ができるのは、体を共有している、もう一つの人格とだけである。要するに、私、沼田 勉が表にいる時、透と話ができるのは私だけ、透が表に出ているときは、私は透とだけしか話しができないのである。
「悪いけど、入れ替わってもらえないかな? 直接じゃなきゃ話しにくいから」
「ええいいですよ」と私が言うと『うげ!』と透が言った。
「今警部がここにいるってことは、どういうことかわかるだろ?」と私が諭すように透にいうと『わかったよ』といい透は諦めた。
「うーーん」と透はけのびをし終わると「で! 何の用?」と警部に訊いた。
私たちの住む10棟の302号室は、リビング6畳、リビングの隣に同じく6畳のキッチンがあり、キッチン横の幅2メートル、横幅6メートルのべランダには男物のパンツが風にあおられている。
キッチンに立って左を向くと、ベランダの入り口から、男もののパンツが見え、右を向くと便所がみえる。
便所に向かって3歩ほど歩くと、洗面所の前に出る。洗面所のなかには洗濯機、洗面台。奥には風呂場と便所がある。右を向き2歩歩くと、6畳の部屋。ここは私と透の部屋である。左を向くと、3歩ほど先に半畳ほどの玄関がある。
玄関と私の部屋は廊下でつながっているので、よく警部の声も届いたというわけだ。
今けのびをしている男。沼田 透と、二畳ほどの木製テーブルで椅子に腰かけながら、ブラックコーヒーを飲んでいる男。田中 陽一は今キッチンにいた。
「事件?」と透は訊くと「そうなんだ。ちょっと困っててな」と警部はため息をついた。
推理代行事務所。社長、沼田 透はとても頭のキレる人物である。得意なことは、猫の鳴きまね。猫と遊ぶこと。そして、推理すること。
沼田はお得意の推理力を活かして、人が頭を抱えた謎などをといていくのだ。まさしく、推理を代行で行う。
警部とは、ある事件で知り合ってからの付き合いで彼は困ると力を貸してもらいに、我々の事務所兼住居にやってくるのだ。
「で、どんなことに困っているの?」と透は腕を組み、キッチンの洗い場のふちにもたれかかり言った。
「そうだった! そうだった!」と警部はスーツの内側ポケットから手帳を取り出し、事件について話し始めた。
「被害者は柴田 再象。役場勤めの27歳、公務員男性で、死体を発見したのは72歳の男性だ。男性は2日前の明け方いつもの公園にある散歩コースを犬と歩いていたところ、コースから少しはずれた草むらに、被害者の男がうつ伏せになって倒れているのを発見した。男性は被害者の後頭部が赤黒く染まっていたのをみて、急いで救急車を呼んだのだが、この時には既に被害者は死亡していたみたいだ。」
「俺と同い年で役場勤めか。いい給料もらってたんだろうな。まあ死んじゃあおしまいだけど!」と警部の話に透は軽く感想をいった。
『おい! 今、警部が話してるんだからちゃんと聞けよ!』と私は透にいった。
透は昔からあまり表にでたがらなかったので、一般的な他人とのコミュニケーションは私がとってきた。そのせいか、彼は頭の方は人よりも切れるのだが、常識に欠けるというか、ほぼないといってもよいかもしれない。要するに子供なのだ。警部もその辺は理解しているので、何も言わないが、私は気になるのでたまにこうやって注意することもある。
「わかったよ!」と透がいうと「何が?」と警部が言った。
「こっちのこと」と透がいうと、警部も、透は今私とやり取りしていたんだな、と気づいたらしく、また手帳に目を落とし続けた。
「被害者の死亡推定時刻は3日前の午後11時から午前2時の間。凶器は握りこぶし大の石で、後頭部を殴られて死亡したみたいだ。近くの草むらに凶器の石が捨ててあった」
「衣服の乱れや、何かなくなったものは?」
「どちらもある。というか奇妙なことに靴下とパンツ以外は何も身につけてなかったが。」
「服を着てなかった?」
「ああ、ほんと妙な事件だよ」
「まだ、妙かどうか今の話じゃわからない。現場の写真はあるんだろ?」と透が警部に訊くと「せっかちな奴だな」と警部はいい、胸ポケットからUSBを取り出し、透に渡した。
「ちょっと待ってろ」と透はぞんざいにいって、部屋にパソコンを取りに行った。
私達はノートパソコンの画面に映し出された現場の写真を見ている。
一枚目は被害者の死体の写真。後頭部は確かに殴られた形跡があったが、私にとっては殴られたのか蹴られたのかわからないが、被害者が鼻から鼻血を出しているのが妙に痛々しかった。
被害者の格好はパンツとTシャツと靴下は身につけてはいるが、それ以外は何も着ていない。スーツの上着やワイシャツに革靴などは、死体から、二、三メートル離れた草むらにそれぞれ放り出されている。死体の周辺には、他にペンにペンケース、財布などの小物類が散らばっていた。財布の中身はバラバラに草むらに投げ出されていた。
しばらく透は死体とそばにある衣服や小物類の写真を凝視していたが、しばらくすると画像を二枚目、三枚目とマウスをクリックして切り替えていった。
透は今ブルーシートの上に、おかれた遺留品をみていた。遺留品のなかには先程みた、ペンケースやペンに財布などが写っていた。しかし、その中で気になる写真が一枚あった。
毛髪の束の写真である。
「警部。この髪の毛は誰のかわかるかい?」と透が訊いたが、警部は何か言おうとしたが口を閉じてしまった。透も気になったみたいだが、彼はせっかちな性格でもあり、さっさと次の話に移ってしまった。
「まあいい。じゃあこのワイシャツの第一ボタンは最初からなかったの?」と警部に訊いた。
「ああ、それか。これなら公園に備え付けられている休憩所に落ちてあったよ、たぶんあと何枚か後に写っているんじゃないかな」と警部はいうと、透はすかさずクリックしていった。
私は先程から透の目を通して画面の写真を見てきた。最初は何か見たことがある場所だなと思っていたが、先ほど公園の名前を写真で見て思い出した。
公園の名は馬場園公園。何回か私も行ったことがあるが、体育館にプール、運動場など、さまざまな施設が充実している広い公園だ。たいていの施設は有料だったりするが、子供たちが遊ぶ公園の遊具や、よく施設内を張り巡らしてある散歩コースは無料なので、公園は子供を連れた親子さん達の談話場になっているし、散歩コースをジョギングする人や、健康のために歩いている老人の方がよく利用している。
「これか」と透は休憩所のベンチ付近にチョークで丸く囲まれた場所に目をとめた。
写真に写っている休憩所は、縦五メートル横五メートルの正方形の角から4本の丸太柱がたっていて四角錐の屋根を支えている。この休憩所には石のテーブルと丸椅子3つが備え付けられている。チョークでチェックしてある場所は、丸椅子の上にあった。
「死体があった場所はここから5メートルほど離れているな…。休憩所で殺害して草むらに死体を投げ捨てたのか? ……」
「いや、血痕があった場所は死体が倒れていた周辺の花ビラや葉に飛び散っていた。それに休憩所に血痕はなかった」
「なるほど…」と透はさっきまでべらべらしゃべっていた口を閉じ、しばらく黙った。
『何を考えているんだ?』と私は妙に気になったので、透に話しかけてみた。
「いや、ワイシャツのボタンが丸椅子の上にあった。背後から撲殺。下着だけの死体。この事実から、このとき犯人と被害者は一体どういう状況だったのかなと思ってね」
『どういう状況って。たぶん…何か口論にでもなって、もみ合って投げ飛ばしたんだよ。その時ワイシャツのボタンが飛んで、逃げる被害者を近くにあった石で殴り倒した。そして何か理由があって服を脱がせた』
「逃げる?」と透はいった。
『いや…だって背後からってことは犯人に被害者は背を向けていたんだろうし…休憩所にボタンがあるってことは、そこで最初にもみ合っているときにボタンが飛んだんだろ? もみ合って倒された被害者は立ち上がり犯人から逃げた、逃げたけれど背後から追い付いてきた犯人にやられたって所じゃないのかな?』
「もみ合いながら移動し、草むらで投げ飛ばしたとしたら、被害者が立ちあがろうとしたところを後ろから、近くに転がっていた石でガツンとやることも可能だ」
『なるほど…』と私は少し沈黙した。
「しかし、逃げると仮定した場合を考えてみるのも面白いかもしれないが、とにかく材料不足だ。警部! 容疑者はいるんだろ? 詳しく教えてくれ」と透が言うと、警部は渋い顔をして「いるにはいるんだが…」といい、少し沈黙した後「もうその女は死んでいたんだ」と彼はいった。
透はパソコンをずらし、警部と椅子に座ったまま、テーブル越しに向かい合い話をしていた。
「死んでいたって? 被害者が殺される前にか?」
「そうだ、被害者が殺される2週間前だ」と警部は固い顔になっていった。
「馬鹿馬鹿しい! 冗談は顔だけにしてくれよな!」と透は軽い感じでいったが、警部は少しムッとしていた。
『おい!』と私がまた透に注意すると「わかったよ!」と透はいった。
透は警部に先程のことを一応あやまり、「で! どういうことなの?」とあっけらかんと訊いた。
「写真では見えなかったかもしれないが、被害者は掌の中にさっきの遺留品の毛髪を握っていたんだ。」と警部は一言いった。
警部は少し震えているように私には見えた。
「ばかばかしい。仮にも警察が…。そんなのは犯人が握らせたに決まっているじゃないか!」と透は一蹴した。
「しかしその犯人はだれだっていうんだ?」
「そりゃ、被害者を少なからず恨んでいるものだろうさ。まあ少なくても生きている人間だということには間違いはないだろうね」と透は皮肉を込めていった。透はオカルトや超常現象の類は最も嫌いな人間なのである。あらゆるものには理由があると、かれはいつもいっている。
「まあいいさ! ほかにも容疑者はいるんだろ? そっちを教えてくれ。ちゃんと生きている人間のね」と透が訊いたが。
「いない」と警部の一言で話は終わってしまった。
「いないはずはない! 友達や職場の人間は?」
「被害者は人づきあいもほとんどなかった。一応職場の人間や、少なからずつながりのある人間、親戚も含めアリバイなどあったってみたけれど、アリバイもそれぞれ完璧で動機も殺してしまうほどのものはなかった」
「そんなはずはない。実際こうして死んでいるのだから。誰かに殺されたのは確かなんだ。」と透はしばらく考え込んでいたがまた話し始めた。
「じゃあ、その死んだ女と被害者男性のつながりを教えてくれ」と透は軽く命令口調でいった。
警部は少し眉をひそめたが、メモを見て淡々と答えだした。
「女の方はキャバクラで働いていたみたいで、被害者はよく店に顔をだしていたみたいだ」
「へーどのくらいの関係なのかな?」と透は訊いた。
「そこまで親密って言うほどではない。指名も他の子と変わらないくらいだったらしく、普通に店だけの関係みたいだ」
「ただの客ってことか…」
「そうだな。死んだ女も結構人気のある子だったみたいで、よく付きまとわれることもあったみたいだけれど、被害者男性はとくにそういうこともなかったらしい。店でも何時も
おとなしく酒を飲んでいるだけだったみたいだ」
「亡霊女はなんで死んだんだ?」と透は知らない間に女のことを亡霊女と呼びだしていた。
「殺されたんだ。キャバクラによく通っていた常連客に。そいつはあまりにも彼女に迷惑をかけるので出入り禁止になっている」
「そりゃよっぽどのことをしたんだな! ちなみにいくつだったの?」
「確か…62歳だったかな。何時も結婚してくれだのなんだのいっていたらしい。彼女はその男に、家まで尾行して突き止められたこともあるみたいだ」
「痛々しいな」と透は顔をゆがめて訊いていた。
「もうちょっと詳しく訊きたいな。写真あるんだろ?」
「ああ」と警部が胸ポケットに手を入れようとしたところ、携帯の着信音がした。
警部は携帯をとり、何かやり取りをしていた。
「すまんこっちからきといてなんだが、ちょっと出かけなければならなくなった。データはここにおいていくから、わからないことがあったら、電話でもしてくれ!」といってさっさと靴を履いて出て行ってしまった。
「せわしないな」と透は言って、もう冷めている自分のコーヒーを飲みほした。
女は眼を見開き、顔は首を絞められた苦しみにより歪んでいた。首には電気コードで絞められた、生々しい跡が残っていた。顔は赤黒く染まり少し膨らんでいる。
もう一人。白髪交じりの浅黒い顔色をした男。彼は天井を見て横たわっていた。厚い胸板には、包丁が心臓につきたてられている。
部屋は台風が過ぎ去った後のように物が散乱していた。
部屋の広さは八畳ほど。隣には六畳ほどの台所がある。台所のすぐ横には半畳ほどの玄関という名の靴脱ぎがあった。
靴脱ぎから左を見ると、すぐ隣に約1メートル高の白い冷蔵庫。次に流し、コンロと続き、奥には便所の薄い木製の扉がある。少し右を向くと台所と部屋の間にひき違いのガラス戸がある。昔の日本家屋にある障子戸の障子の部分が磨りガラスになっているものだ。
半分ほど空いた扉から、女性の白くてきれいな手が見える。女の手を目指して進むと、女の全体が現れる。
女の体はガラス戸の裏すぐに倒れている。足は扉側に向けている。女の頭部付近には折りたたみ式の小さな丸テーブルが3メートル四方の黄緑色のカーペットの上にちょこんと乗っている。
片手で軽々と持てるテーブルのそばには、3段くらいの小さなラックがあって、そこに文庫本が入っていた。
彼女の死体の奥にはベッドが壁にそっておかれている。ベットはガラス戸と水平になる向きである。ベッド横の壁には横1.5メートル。縦1メートルほどの窓がある。窓にはピンク色のかわいいカーテンが下がっている。
男の顔は苦悶の表情で横たわっている。しわくちゃの表情と顎に何かで打ちつけたような打撲痕が不愉快な印象を与える。太い指はかぎ爪のように折れ曲がり手の甲には半月型の跡が両手に二三か所ずつ残っていた。シーツは赤い血液がしみてほとんど赤くなっている。
男の枕もとの壁には血ででかでかと文字が書かれていた。
我が心臓を彼女にささげる。
血文字の横には三毛猫が手足を釘で磔にされ朽ち果てている。首は切られており、壁に沿って床まで血の筋ができている。
…私は、暗闇の中、目を覚ました。
先程透の目を通して、亡霊女、末永 咲。23歳の殺害された部屋の画像を何回も繰り返し見ていたせいか、知らない間に映像が頭に焼きついてしまっていた。夢にまで見るほどに。
「のど渇いたな…」と私はひとり言を言い、布団から起き上がった。
時刻は午後5時である。
私達は警部が帰った後、先ほど夢で見た映像をパソコンで何回も見た。そして透は少し眠ると言って布団に入ってしまった。私はしばらくのあいだ、意識は起きていたがすぐに透につられて寝てしまったのである。
今私が彼の体を動かしているということは、彼はまだ眠っているのであろうか?
私は冷蔵庫を開き、コップに牛乳を注いで飲んだ。外は少し風が吹いている。
団地の裏には一般家庭の平均的な家一軒分の小さな広場があり、そこには簡易な滑り台一つと、小さな砂場にベンチが一つ備えつけられている。
ベンチには中学生のカップルが二人で肩を寄せ合いながらいちゃついていた。
私はそれをリビングの窓からじっと見ていた。
『若いってのはいいね』
「まだ俺だって若いよ」と私は一人で言って気がついた。「何だ? 起きたのか?」
『いや、起きてたよ。ただ、一時考え事をしてたんでね。体の主導権は一応君に預けておいたのさ』
「言ってくれればいいのに」
『はは、別に覗きをしていたことを悲観する必要はないよ』と透はいった。
「別に覗きなんて…ただ見ていただけさ」と私は顔が熱くなるのを感じた。
『隠したって無駄さ。顔が熱くなってるぜ。俺と君は感覚を共有しているんだから。わかるんだよ。』
「ああ。認めるよ、確かに見てたさ。でも何で悲観することはないんだ?」と私は好奇心で彼に訊いた。
『なんでって? それは本能だからさ』
「本能?」
『だって君は小説を読むだろう?』
「ああ。よく読む」私は、小説だけでなく、ドラマや映画、アニメに漫画なども楽しみで見ている。最近ではノンフィクション物の○○の裏話。などの本を読むのにもはまっていたりした。
『なぜ読むんだい?』
「…楽しいし、読み始めたら先も気になるし…知りたいから」
『そう知りたい。これは人間の欲求の一つだよ。君はあのカップルのことを知りたいと思った。何を考えているのかな? 何を感じているんだろう? そして自分もその場にいるような気がする。入りこむと自分が実際に体験しているようにも感じる。疑似体験というやつさ。これは人間の欲求の一つだから仕方ない』
確かに私は彼、彼女らを見て少し暖かい気持ちになった。昔の自分の青春を思い出していたのかもしれない。
『しかし、君のなんてかわいいものだよ、昔はなんせ、公開処刑が娯楽の一つだった時代もあるんだからさ!』
「でもそれって、死刑になる方の疑似体験じゃないのか?」
『だからいいんじゃないのか? 実際には死なない、だけど死の恐怖を味わえる。そして死の恐怖の後には実際に自分は生きている。死を疑似体験することで、自分が生きていることを再確認できるわけさ。俺は今生きているって実感を味わえる。全く、そんなことでしか生を味わえないなんて、人間なんてバカな生き物だよ…』透はしゃべり終わると、『チョコが食べたいな』といった。
「ああ」と私が冷蔵庫からチョコをとった。
『悪いけど変わってもらえないかな』透はいった。
「何で? 僕が食べても一緒だろ?」
『いや、やっぱり違うものさ』
透は部屋で腕を組みながらうろうろしていた。時にキッチンに行き、マラソン選手の給水ポイントのように、コーヒーとチョコで一服して、再び腕を組みうろうろしながら考えにふけっていた。
「散らばった小物類…ペン、ペンケース…財布……脱がされた服…いったい何を? 女の毛髪…なぜ犯人はそんなことを…」
透はリビングに移動し、壁に寄りかかり公園のベンチを眺めていた。そこにはもう先程のカップルも誰もおらずに、さびしく風だけが吹いている。
「それにしても寂しくなったな。俺たちが子供の頃はいつも外で遊びまわってあちこちけがをしたもんだけど。」
『ああ、すりむいたり、青痣を作ったりしたね。こうやって外を君流にいうと、覗いてるかな。覗いてても、子供のころの疑似体験もできやしない』
「代わりにネットやテレビで人の生活を覗きみするようになったからね。でもやっぱり近くで見たいもんさ……! そうか!」
『どうしたんだ?』と私は透に訊いた。透がいきなり壁から離れ、窓を見ていたからだ。
『何かわかったのか?』
「いや、でもきっかけはつかんだかもしれない」といい、透は携帯を取り出し警部に電話をかけた。
「もしもし!」
薄い鉄板に、緑色のコーティングを施された扉は、色落ちした部分から錆びつき始めていた。目線より少し上には101という番号が扉に張り付いている。
手元付近のドアノブには、9時までには戻るという立て札がかけてあった。手元から垂直に目線をあげると、山口 美郷という名札が壁の名前入れにはいっている。
あたりを見回すと、周囲の住宅は静まり返り、ちかちかと5メートル先の頭上の街灯が光っている。街灯の周囲には羽虫がむらがっていた。
顎を上にやると頭上の蛍光灯にも羽虫が群がっている。目線を下に落とすと蛍光灯の光によって明暗が足元で交互にできていた…。
壁に沿って歩きだすと、102号室の番号札に只野 兼司という名札があった。
数歩歩くと同様に103という番号。久野 瞳。久野 健太と名札がある。
104は番号のみしかない。
建物から二、三歩後ろに下がり頭上を見ると屋根には瓦が使われていた。二階を手すり越しに見ると緑色のドアがちらりと見える。右から数えて四つあった。
壁は赤茶けた色をしている。木目が蛍光灯に照らされ浮かび上がっていた。
背後でじゃり! じゃり! と足音が聞こえてきた。101号室に向かって、中年のおばさんが歩いている。手にはスーパーの名前が入ったビニール袋を二つ下げていた。
手提げ袋の文字がはっきり見える距離まで近づいた。スーパー猫飯。赤文字で書かれている。
大家の目はこちらを警戒していた。警察手帳を右斜め後ろにいる警部が大家に見せた。
少し警戒が薄れたところで事情を説明した。
大家は101号室の扉を開け、ガラス戸の向こうへ行った。靴脱ぎのそばに小さなアルミ製のごみ箱がある。円柱のごみ箱には、割れた花瓶の破片が入っていた。
ガラっという音とともに、大家が手に202号室の札がついた鍵を持ち近づいてきた。
ガラス戸の隙間から、壁に寄り添った招き猫が、こちらを手招きする姿がみえる。猫は壁に打ちつけられた板の上に乗っていた。
鍵を受けとり、外に出る。
101号室を出ると、すぐ右斜めに錆びついた上り階段がある。階段は体重をかけると少し揺れた。1段1段登る。
登り切ると203号室の前に出る。正面を見ると岳 清次、という名札が下がっている。左を見ると204号室。名札は岡本 正とある。
右に進み、202号室の前に出る。名札はもうない。201号室も同様に名札は下がってなかった。
202号室の鍵を開け、部屋にはいる。
靴脱ぎで靴を脱ぎ手に持っている懐中電灯を照らしながら部屋にはいった。
六畳の台所はコンロと流しがある。右を向きガラス戸をあけると八畳の白い空間に出た。壁紙は新品のように真っ白だ。正面にある窓の外から20メートル先にすぐ山があった。
ドシンという音がした。尻に痛みが走る。どうやらころんだみたいだ。足元を照らすと、光沢のある床であった。どうやらワックスをかけたばかりみたいだ。
立ち上がり、尻を押さえながら大家の部屋に戻る。
大家は不満そうな顔をして出てきた。ひったくる様にしてカギを受け取り、ドアを閉めた。
ごみ箱の中ではさっきの招き猫が不細工な面で見送ってくれた。
「もう9時10分か…で! もういいのか?」と警部は携帯を閉じながら透に訊いた。
「いや、まだ住民に話を聞いていない」
「話って、住民の証言ならさっき車の中で俺が話したじゃないか」
「いや、実際に話を聞いてみたいんだ」と透はいい、102号室のチャイムを鳴らした。
『………? いないのかな』と私はいった。透が先程から何回も呼び鈴を鳴らしているが誰も出てこないのである。
「仕方ないな」と透は言って隣の103号室の呼び鈴を鳴らした。
「はーい」という声とともに、20代後半の女性が出てきた。ウサギの刺繍がされているエプロンを着たこの女性は、久野 瞳。ガラス戸の隙間からこちらを覗いている5歳くらいの子供は久野 健太だろうなと私は思った。
「あの…何か御用ですか?」と彼女は不審な目で私たちを見ながら訊ねてきた。
「ああ、申し訳ありません」といって警部はすかさず警察手帳を彼女に見せる。
「警察…。一体何を?」
「あなたは202号室の元住人を知っていますね。実は彼女の殺された日の状況を詳しくお聞きしたいのです」と警部はいつになくハキハキと答えた。
私はこの様な警部の姿を見ると、さすがはプロだな! と思うのである。
「あの日は別に何もおかしなことはありませんでした」
「何か物音を聞いたり、叫び声を聞いたりなどはしなかったですか? 被害者女性は午後の11時から2時の間に殺されたことは確かなんです」
「いえ…確かにその時間はまだ寝てなかった。いえ、寝れなかったといった方が正解かもしれませんが」
「寝れなかった?」
「はい。この真上の階の住人なんですけれど、その…普段音楽活動をしているらしく、夜中にいつもギターの音が聞こえてくるんですよ、それとドラムの音とか…」
「それで聞こえなかったと?」
「はい…」
「音以外で何か気になる点はなかったですか?」と透はここで初めて口を開いた。
「いえ…。特には」
「君は何か気付かなかったかな?」と透は子供に訊いたが、ササッと扉向こうに隠れてしまった。
「そうですか。夜分どうもすいませんでした」と警部がいって去ろうしたが「ごめん! ちょっと手をみしてもらえるかな?」と透が相変わらずの口調で言うと、警部は立ち止まって透を見た。
「手、ですか?」
「そうそう」と透はあっさりとした口調で行った。
「別に良いですけれど」と彼女はのっそりと両手を出した。
透は彼女の手を凝視していた。
「実にきれいな手だね。頭脳線も長い。実に良い手だ。ありがとうございます」といって透は礼をいった。
「では、失礼」と続けて彼はさっさと外に出てしまった。
『いったいあれはなんだったんだ?』と私は気になったので透にきいてみたが「気にすることはない」とあっさり流されてしまった。
階段を上り、203号室のベルを鳴らそうとしたら、となりの204号室から女性がでてきた。
「じゃあ、帰るから」といって女は私たちの横を通り過ぎていった。
204号室の男と私…正確には今は透なのだが一瞬目があった。
「ちょっと!」と透は部屋に入ろうとした男に話しかけた。
「すみませんが、少しお話を聞かせてもらえませんか?」と警部が続けて言った。
警部が一通りの事情を説明して、私達は話を聞かせてもらうことになった。
「はあ…。別に事件があった日は、もう寝ていたので、よくわかりませんが」
「なるほど…何でもいいんですけどね。しかし何も聞かなかったということはないんじゃないですか?」
「といわれても、となりの音でどっちにしても聞こえませんでしたよ」
「そうですか…」と警部が204号室の住人。岡本 正と話している間。透はじっと住人と部屋を観察していた。
部屋はたくさんの段ボールが窓際の壁に山積みになっていた。部屋には布団一つが隅に追いやられていて。台所には冷蔵庫すらない状態だった。
好青年と呼ぶにふさわしい、背格好の男は、短髪で眉も太かった。体格も筋肉質でこの寒いというのに半袖のT枚シャツ一枚しか着ていなかったのだ。
「それにしても、この部屋は何もないですけれどどうかされたんですか?」と警部は訊いた。
「ああ、明日にはここを出るんですよ、大学も卒業して、4月から就職するので会社の寮に入ることになったんです」
警部はなるほどという顔をしていた。
「大学では何かやってたの?」と透は訊いた。
「いえ、なぜです?」
「いや、あまりにも体格が良いからね、格闘技でもやっていたのかなと」
「いやいや、そんな暇はありませんよ。何せ貧乏で、学費と家賃を払うために、バイトばっかりでしたから。この体格も、運送業で自然とこうなっただけですよ」と彼は苦笑いを浮かべていた。
『ちゃんと就職もして、僕たちの様なわけのわからない商売とはえらい違いだな。感心だ』と私がいうと「…かもね」と透は呟いた。
「ほぉ! 自分も腕力には自信があるのですけれど、少し勝負してみませんか?」と警部がいきなりよくわからないことを言い出した。
「勝負とは…」と彼も少し戸惑っているようだ。
「腕相撲です!」と警部は鼻息荒く答えた。
警部は腕相撲が好きで、体格の良い人と会うとこうやって力比べをしてみたくなるようだ。一回私も勝負を吹っ掛けられたが、丁重にお断りした記憶がある。
透曰くこれが彼なりのコミュ二ケーションなのだろうと言っていた。
警部はあれだけ見えを張ったのに、あっさり負けてしまった。
「いやー完敗ですわ! わはは」と警部は笑っている。
「運送業は重いものを結構持ちますからね、つかむ力が鍛えられるんですよ」
「なるほど! 確かに、手もマメや擦り傷だらけで、よく使いこまれていますね」と警部が言った時、「痛!」と彼は突然いった。
透が突然後ろから髪を抜いたのだ。
「失礼。白髪があったので」といって透は彼に白髪を見せた。全く私は透の不可解な行動にはついていけない時がある。
私達は部屋を後にし、次は隣の203号室に行った。
呼び鈴を押すと中からぬっと髪のボサボサ頭の男が出てきた。
「何か?」と204号室の住人。岳 清次はあくびをしながら言った。
「実は」と警部が言いかけると「まあいいいや、とにかく入りなよ」と彼はすたすた自室にはいっていく。
部屋はさまざまな楽器類が置かれていた。キーボードに、ドラム、スピーカー、ギター、壁には、外国のミュージシャンと思われる、ポスターが貼ってあった。
座るところを探したが、壁際のベットの上にまで楽譜が散らばっていて、座るところが見当たらないほどであった。
私達はかろうじて座るスぺースを見つけ? (ほぼ作ったという方が正しいが)床に座った。
「あんたら、202号室の住人についてきいているんだろ?」と楽譜まみれのベットに腰かけ彼は話を始めた。
「なぜそれを?」と警部はいった。
「さっき、大家の婆がぶつくさ言ってたからね!」と彼はぶっきらぼうに言った。
「ほぉ! 仲が良いんですね」
「いいわけないだろ。ついさっきも部屋に来て文句言って、帰っていったくらいだからね!
部屋でバカスカ雑音を鳴らすのはやめろだってよ! ったく! おかしなもんだぜ!」
「しかし、他の住人も迷惑しているみたいですし、しょうがないと思いますがね」と警部は説教くさいことを言い出した。
「けぇ! 俺がドラムたたく音には文句いうくせに! あの死んだ女なんていつも元彼に殴れて騒いでたぜ! でもだれも注意なんてしなかった。まったくおかしいよ! 世の中くるってやがるぜ!」と彼は壁をたたこうとしたが、私達がいる前なのかどうかわからないが、壁にふれる前にこぶしをとめ、代わりに腕を組んでじっと下を向いた。
警部はここで話を変え、殺害時刻内に何か変わったことはなかったか、今までの流れと同じように質問をした。
「さあ、なにも気がつかなかったな。だいたい演奏してたのも、10時から12時の間だったし、12時からは下の階の爺さん誘って飲みに言ってたよ」と彼は急に面倒そうに答えた。
私は、彼が急に態度を変えたので、一瞬どうしたのだろうと考えたが、きっとこの男は愚痴を聞いてくれる相手が欲しかっただけなのだと気付いた。
「ちょっと、きいてもいい?」と透はまた突然話に割り込んできた。
「何?」と彼は訊いた。
「さっき大家さんがこちらに苦情を言ってきたようだけれど、今が10時前5分だから私達がこちらに着いてから約一時間演奏はしていないよね。なのになぜ大家が、わざわざこの部屋に来たのかな」
「今日は孫がやってくるんだとさ! だから今日は絶対に静かにしてろって言いにきたんだよ」
「なるほど」と透は呟き「しかし、やるなと言われたら人間やりたくなるものだよね」と透は突然言い出した。
透は彼をじっと見た。彼がうっすら笑っているのがわかった。
「あんた、面白いことを言うな!」といって彼は近くに放り出してあったギターを手に持ち、立ち上がった。
しばらく、演奏? は続いていたが「こら!」という大家の怒鳴り声によりすぐに終わってしまった。
「すごい剣幕だったな」と透はいった。
『当たり前だろ。お前が馬鹿なことを言うから』
「まあいいさ」と透はいった。
「それにしてもすごい音でしたけれど、下のご老人は文句を言ってこないんですか?」
「ああ、爺さんは耳が悪いからね、補聴器でもつけないとほとんど聞こえないのさ。だから俺が出す音にはほとんど関心がないわけ」
「だから、呼び鈴を押しても返事がなかったわけか」と透はいった。
「じゃあ次は大家さんにでも頼んで開けてもらうしかないか…」
「あーー無駄無駄! 爺さん、事件のあった次の日に病気で入院したから」
「何の病気ですか」と警部が訊いた。
「過呼吸だよ、よっぽどショックだったんだろうな、あの爺さん。彼女が殺されたのを聞いたとたんに、それだもん。いい年こいて恋煩いで死ぬなんて、俺なら死んでもごめんだな」と彼はけたけた笑っていった。
「で! どうするんだ、病院までまさか行くとか言わないだろうな」と警部が心配そうに透にいった。
「もういいよ」と透は話を打ち消すように手をひらひらさせて言い「それよりも空き巣の件だけれど」と彼はアパートの砂利道を歩きながら言った。
実はここに来る前、透は電話で、被害者男性、柴田 再象の部屋に、ここ二、三日の間に空き巣が入っていないか調べてほしいと言っていたのだ。
しかし別に金目のもので無くなっていたものはなく、わかったことは部屋が荒らされているだけだということだけだった。
警察が今、現場に残された毛髪を手掛かりに捜査をしているが、さっぱりだ! と警部がぼやいていたのを覚えている。
「ああ、あれか…それにしても死んでから空き巣に入られるなんて、まさに蹴ったり踏んだりだな!」
『それを言うなら踏んだり蹴ったりだ!』と私はいったが、私の声は聞こえないし、透も特に無反応だった。
「その件だけれど、現場に残されてた毛髪と、この毛髪を警察で鑑定してみてくれ」といって透は小さいビニールにはいった毛髪を警部に手渡した。
被害者の柴田 再象は人付き合いの悪い、おとなしい性格の男と世間から見られていたが、そんなことはなかった。
あいつはとんでもない変態だったのだ。
人生は本当に何が起こるかわからないものだ。こんな事件に巻き込まれた経験が特に私にそんな考えを起させる。
今からちょうど2週間前。私はバイトから自転車でアパート前の駐輪場についた。時刻はちょうど、午後11時だったと思う。
2階への階段を上がると、203号室からは演奏というより、雑音といった方がお似合いの音が響き散らかっていた。ここまで音を散らかせるのはある意味才能だろうと、私は腹立ちまみれの皮肉を言ったのを覚えている。
私は自室に入ると、夕食の準備を始めた。この部屋で過ごすのもあと少し、そろそろ引っ越しの準備を始めなければいけないな、と散らかった部屋をみて、少しため息をついた。
晩飯を食べ終わって、寝ようと思ったが眠れなかった。となりがうるさくてそれどころではなかったのだ。
いつもは遅くとも11時までには静かになっていたのに、最近は少しエスカレートしてきたのか、演奏の終わる時間も、音量も上がってきた気がした。
私もこの部屋には、もう一か月もいないことだし、一発ガツンと文句でも言ってやろうと部屋を出た。
203号室の前まで来たら、となりの202号室からドスンという音とうめき声や、暴れる音がした。
そういえば、昔から変な男をひっかけてはいつも暴力を受けていたな。また、新しい彼氏でもできたのだろうか…203号室の奴もよく気がつかないものだと、さらにあきれた。
今まではもめ事がいやで、無視してきたが、最後くらい仲裁に入ってやろうと202号室の呼び鈴を押した。
妙に静かになった。私は気がつくとノブを回してドアを開けていた。鍵は開いていたのだ。
すいません! と、私は声をかけたが物音一つしなかった。何かあったのかと思い私は部屋に足を踏み入れた。
男がいた。60代半ばぐらいの白髪頭の男が、血走った眼で包丁を持って私に突進してきたのだ。
私は男の手をつかみ、私達は部屋中をもみ合いながら移動した。私は彼の手をつぶれるのではないかという力で握りこみ、気がついたら彼の心臓に包丁がまっすぐ刺さっていた。
私は心底震えた。手足が小刻みに震えているのがわかる。心臓もなりすぎて止まりそうだった。
どうすればいい! 私はこの言葉を、頭の中で連呼し続けた。
私はまず落ち着くところから始めた。何事も焦っては、事はうまく運ばない。事? 私は一体これから何をするというのだろうか。
ひとまず部屋を眺めた。部屋には首を電気コードで絞められた。ここの住人、末永 咲と、名も知らぬ男一人、ゲージの中にはいった猫一匹。散乱したもの。それくらいだった。
私は今の状況を理解し考えた。今あるこの場の状況で、私に罪が降りかからないようにするにはどうすればよいのか。
私は自分のつたない頭で考えた結果、男は自殺してしまったことにしようと考えた。しかし、自分の心臓を刺して自殺などするだろうか…。
にゃー、という猫の鳴き声に、私はこの猫は使えるなと思った。男は女を殺したことにより正気を失っていたのだ。それならおかしな死に方をしても納得がいくはずだ。
まず私は猫が暴れないようにひと思いに頭をたたきつぶした。そして、壁に釘で手足を打ちつけ、首を切って、流れでる血で、(我が心臓を彼女にささげる)と、血文字を書いたのだ。いかにも猟奇的な感じになった。
何事も演出が肝心だ。それ一つで石ころも、ダイヤモンドに見えることがあると、大学の講義でも言っていた。
私はなかば放心状態のまま、部屋に戻った。まさかあいつに見られているとは思いもせずに…。
死体は次の日の朝、職場の同僚が昨夜出勤していなかったのを心配に思い、部屋に訪れた時に発見された。
結局は警察の捜査で、殺人した上での自殺として決着したらしく、私は胸をなでおろしていた所にあいつ、柴田 再象が私の前に現われた。
柴田はあの部屋を盗撮しており、偶然私が彼を殺す現場を録画したといった。
私は柴田に何度も脅された。ただ奇妙なことにあいつはただ脅すだけだったのだ。
私はある日、深夜に柴田を公園に呼び出した。私は一体何が目的なのかを問いただしたかったのだ。
ただ毎日私に、私が男を殺害した現場の動画を警察に送りつけるぞ! と言う脅しを、もう一週間以上続けられていた。別に金品を要求することもなく。ただ脅していた。
これは恐怖の本質であるのではないかと私は思った。
わからない。わからない怖さ。私はこの目的のわからない怖さから解放されたいがためだけに彼を呼びつけた。
彼はノートパソコンを持って、何やらニヤニヤしながら公園の休憩所にやってきた。
私は衝撃を受けた。パソコンの画面には、この約一週間以上にも及ぶ、私が彼の脅しに対しておびえている映像がコレクションされていたのだ。
気がつくと彼は私に解るようにカメラを向けていた。
彼は人を観察するのがたまらなく好きなのだといった。特に人がおびえている顔を見るのは何にもまして最高だと。
私はだんだん腹が立ってきた。
しかしまだこのときは殺すというほどの殺意ではなかった。私が殺意を持つきっかけをもったのには理由がある。
あいつは私の妹を紹介してくれと言い出しやがった。やはり観察するなら男よりも女だと、この約一週間の間に、私の妹は何回か引っ越しの手伝いをしに私の部屋に来てくれていた。それで妹の存在を、彼は知ったのだろう。
私は我慢できなくなり、男の胸ぐらをつかみ、草むらに投げ飛ばした。
柴田は悲鳴をあげ逃げようとしたが、私はこいつを生かしてはおけないと、近くにあった石で殴り殺した。
柴田の顔を見ると、かっと狂ったような眼でこちらを見ていた。手にはペンケースから出た、毛髪の束を握っていた。
気持ち悪い。と私はいいながら手に持っている毛髪を蹴り飛ばし、顔面を腹いせに蹴り飛ばした。
私は、この男が他にもデータを持ってないかを探るため、服を脱がしすみずみまで調べた。携帯や、メモ帳などはもちろん処分した。
家にも行き、他の証拠も処分をした。これで私は何にもおびえることはなくなった。……。
「いやー、妹さんは美人だったよ!」と警部は上機嫌で私達の住む沼澤団地10棟の302号室にやってきた。
「美人ってどんな感じに?」と透は珍しくこの手の話に食いついた。
「そりゃあ、肌は白くて小さくてかわいくて…」と警部はたどたどしく答えた。
「違うね! 正確には、身長は150センチ後半。肌の色は白くきめ細やか。髪色は鮮やかな栗色のミディアムヘヤで、瞳も大きく、二重瞼がさらに目を強調している。しかし、目のクマはどうにかした方がいいな。ま! こんなところだろう。たぶん」
「何でわかったんだ!」と警部は驚いた顔をしていた。
「俺達は一度アパートで、204号室から女とれ違ったじゃないか。それが妹なんじゃないかと思っただけさ。警部は観察不足だよ」と透は言った。
「それにしても、まさか首つり自殺とはな…」と警部は頭をかきながらやれやれという顔をした。
「まったくね…」
「しかし、よく事件の真相に気がついたな。透の推理がなかったら彼はとっくに死んでいたよ」
204号室で首をつった直後に岡本 正は警察の手により縄から降ろされ助け出されたのだ。
「それは警察の捜査がスムーズにいったからだろ? 俺は関係ないよ」
「いや、捜査のきっかけを作ったのは君だろう。やっぱりたいしたものだよ!」と警部は透を褒めた。
「俺はただ仮説を話しただけだよ…。警部から渡された、二つの手掛かりのおかげさ。202号室の写真を見ていた時に、ストーカー男の手に半月模様がいくつか浮かんでいるのがみえたんだよ、あれは力いっぱい爪が食い込むほど握られた後だ。あれはナイフを持っている男の手をつかんでいた後だとすると、電気コードで殺されていた女以外の人物がその場にいたことになる。そしてその第三者は、ナイフをあの体格のいい男から押し返して、心臓を貫くほどの腕力の持主だということがわかった。もう一つの気になる点。死んだ女の毛髪だとわかったということは毛根がついていたはずだ。あれだけ大量の毛根がついた毛髪をいつ犯人は抜き取ることができたか? 死んだ時以外ない。202号室の死体は次の日の朝には発見されている。発見までに死体がそこにあると知っていなければ、抜き取ることなど不可能だ。ということは殺害現場を見ていた。いや、覗いていた奴がいるはずという結果に至ったんだ。そして毛髪を柴田はなぜか持ち歩いていた。毛髪はペンケースに入れていたんだろう。ペンは一本しかないのにペンケースはおかしいからね。彼女の毛髪を握っていたのは、彼なりのダイイングメッセージだったんだろうさ……」
雨が降ってきた。こんな日は自然と気分も沈む。
『またあの夢をみたのか』と透はいった。
「ああ」と私は憂鬱そうに答えた。
『俺もたまに見る。たぶんいつかは、どちらか消えてしまうのではないかという、漠然とした不安がみせているのかもしれないな。所詮は俺達なんて、脳の生み出したいたずらみたいなものだからね』
「いたずらね…あ! あれって、警部じゃないかな?」と私は10棟にぬれながら入っていった男を見ていった。
『あの歩き方は間違いなく警部だな。今度もこの前みたいに張り合いのある事件だったらいいけれど』と透はいった。
「そういえば、この前警部が家に置き忘れていった、盗撮現場の動画データはどうしたの?」
『ああ、あの柴田がアパートの裏山から撮影してた動画ね、パソコンの横にあるよ!』といい『悪いけど変わってもらえないかな』と透はいった。
「ああ、いいよ、警部も来るしね」といって私は透と変わった。
「センキュー」と透は言って、すぐにパソコンのそばに置いてあったUSBを踏みつぶした。
『ああ! 一体何してるんだよ! いくらクラウドにデータが残っているからって…全く君の行動を僕は時々理解できない時があるよ。この前の事件の時も、急に手を見せてくれだのなんだのと言っていたしね!』
「手には人が現れるからね。その証拠に岡本君の手は実にきれいだったよ!」
『え? 僕にはボロボロに見えたけれど…』
「だから観察が君は足りないんだよ。あの君にはボロボロに見えた手なら彼はきっと立ち直れるさ」