9
隼人は、取っている講義にあと半年ほど出席さえすれば、ほぼ間違いなく卒業できた大学を中退した。それまで奨学金を利用しても学生生活を送るうえでなにかとかかるお金を稼ぐために散々アルバイトをやったりと苦労したのに、実にあっさりと。
そして、一人で住んでいるアパートの周辺をブラブラする程度のだらけた日々を、しばらくの間過ごしたのだった。
やっぱり死ぬか。
そうした考えが頭をもたげる回数が増えていった。死ぬのは変わらず怖いが、その気になればできないことはないと思った。
死が現実となった場合、叔母には申し訳ないなという気持ちがあった。突然面倒を見ることになった隼人に、彼女は父親のような暴力は一切なく、安定した生活の場を提供してくれたし、父の昔の雄姿の話は、隼人が運動が得意そうだと知り、もっと自信をつけてあげようとしたゆえであることを彼はわかっていた。その一方、叔母は社交的ではなく、明るかった母は彼女に劣等感を与える存在であまり好きではなかったとか、経済的に厳しいので隼人に早く自立して出ていってほしいなどのことを、感じさせる発言も時折あった。それでも、女性が自分一人生きていくのすら大変な世の中で、特別問題はなく育ててくれたのだから、責任は十分に果たしただろう。
ただ、必要以上の愛情をもらうことはなかったし、彼女のためだけに生き続ける気にはなれなかったのだった。
死ぬなら、その前にやっておくこと、やり残したことはないか?
そう頭を働かせてみたところ、一人の人物の顔が脳裏に浮かび上がった。
シロこと、白崎理である。
隼人は理と、転校して入った小学校と、中学校で、一緒だった。しかし、その後は一度も会っていない。
小中とも公立の学校で、自宅から近かったこともあり、理が住んでいた家の場所を隼人は知っていた。だが、そこに現在もいるかはわからない。理だけ別のところで暮らしているかもしれないし、一家全員いなくなっている可能性もある。
隼人が現在居住しているアパートは大学のそばで、東京の西側。当時いたのは、その間近である二十三区内ながらも東部で、距離はけっこうある。けれども、都内の鉄道は網のように張り巡っており、一時間もあれば十分にたどりつくことができる。
それに気づくと、何をするにもおっくうでろくに動かない状態だったにもかかわらず、すぐさま電車に飛び乗った。そして、理が住んでいた家へ足を運んでみると、庭などはなく全体的に小ぶりな東京の住宅を象徴するようなコンパクトな造りの二階建てで、築年数がかなり経っているのが一目でわかる綺麗でない外観も、表札も「白崎」のままで、まったく変わっていなかった。
隼人は呼び鈴を押したりはせず、少し離れたところに移動して、通行人に怪しまれないよう気をつけながら、身を隠してその家屋を見続けた。理が住んでいるなら姿を現すかもしれないからで、とりあえず会うつもりはなかったのだった。
幸い白崎の家は大きい道路に面していて、人通りが少なくなかったので、数時間その付近をうろつくかたちになってもたいして違和感はなく、トラブルが起こったりはしなかった。しかし、さすがにその間に都合よく理らしき人物を目撃できるほどの幸運には恵まれなかった。
現れるかわからない人を数時間待ち続けるのはつらい作業だ。けれども理のことで頭がいっぱいな彼はまったくめげず、翌日もそこへ出向いた。前の日は深く考えず昼間にやってきたが、理がその家で暮らしているとして、お目にかかれる確率が高いのは、通勤や通学の行きと帰りの時間帯である、朝、夕、夜だろう。そのなかの朝と夜に長時間様子をうかがうのは、いくら怪しまれにくい場所とはいえ目立って、近くの住人などから不審者と思われやすそうだ。それに、なんとなく一番姿を拝める予感もあり、夕方をチョイスして行くことにした。
そして、午後の四時半頃に前日立って見ていた地点に到着して、五十分くらいが経過したときだった。すぐにわかった。他のコと比べて特に小さかった小学校の高学年当時からは格段に伸びたものの、二十一か二である今の年齢を考えるとやはり低い、百六十センチ程度の背丈で、顔も印象もそれほど変化していない、間違いなく理が、隼人がいるのとは反対の方向から歩いてきて、チャイムやノックなどをまったくすることなく、白崎家に入っていったのだ。
少し迷ったけれど、変わらず家を訪ねることなく帰った隼人は、以後もその時間にお決まりとなったポイントへ赴いた。すると、毎回ではないが何度も、同じように理が帰宅する場面を目にすることができたのだった。
その姿で一つ気になったのが、平日であろうと服装もカバンも常にカジュアルな点だ。普段着が一般的な業界もある。しかし、理がまとっている雰囲気からも、会社員とは思えなかった。となれば、次に考えられるのは学生だが、あるとき、入った直後の玄関先で、家の中にいた母親に罵倒されているようなところを目撃したし、家へ向かう理の足取りはいつも重そうで、普通に学生生活を過ごして自宅に戻ってきているというふうにも感じられない。大学四年生でいまだに就職が決まっていないための可能性もあるが、それよりは、定職に就いておらずフリーターのような立場で働いているか、仕事をしておらずハローワークに通っているか、もしくは、何をすればいいかわからずに街をさまよい歩いている、などのほうがしっくりいった。それらはもちろん推測の域を出ないが、肩書がどうであれ、いじめられていた小中学生時と一緒の暗い空気感で、幸せでないことは確実だろうと思われたのだった。
知りたかった理の現状はおおよそつかめた。驚くような部分はなく、予想通りだったと言っていい。
これ以上続けたところで興味をかきたてられるようなものが出てくるとは思えないし、もうこうやって見に足を運ぶ必要はない。あいつと顔を合わせても、話すことなどないのだし。
そう思いつつ、隼人は理の姿を目にしにいくことをやめられなかった。相変わらず身を隠しながらも、もっと現在の状況を知れるだけ知りたくて、どんどん白崎家までの距離が近くなっていったのだった。
くそ。今日は見られなかったか——。
心の中でつぶやいて、帰ろうかと考えたある日、背後に気配を感じた。
隼人が勢いよく振り返ると、理が彼を見て立っていた。
「柴崎くん、だよね?」
遠慮がちに理が尋ねた。
「……ああ。久しぶり」
隼人はぎこちない笑顔で答えたのだった。