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「ふざけるなよ」
総理大臣の富沢はつぶやいた。
「口は災いのもと」。その言葉を肝に銘じているからこそ、目立たず華のない彼が今の地位にいる、と言っても大げさな表現ではなかった。とにかく政治家は余計な発言をして、よく失脚する。職業柄年中しゃべらなければならないとはいえ、調子に乗ってしょうもない話をペラペラとする者のなんと多いことか。それに彼の場合、失言とは有権者に知られたら困る一般的なものだけでなく、他の国会議員、特に身内の保守党のメンバーに対するものも意味していた。悪口など、言うほうは簡単にやってすぐに忘れてしまうが、言われたほうはずっと覚えて根に持っていたりして、これがボディブローのように後々自分を苦しめる結果になりかねないと考えており、要するに敵をつくらないために行わないよう気をつけていたのだ。つまりは変わる以前の隼人と同じ発想をしており、それによって党内で好かれていたのである。一方で、大抵の政治家は、ほとんどは別の政党ではあるが、他の議員の批判をしょっちゅうしている。それはその人物の良くない点を強調して選挙などで優位に立とうとする目的ばかりでなく、どんなに理不尽やひどいことをされても国民の悪口は言えないわけで、そこで発散している面もなきにしもあらずだろう。ましてや富沢は総理大臣で、そのストレスたるや桁違いなのに、別の議員を悪く言わないように努めてもいるのだから、辛抱強さに関しては並ではない。
彼は、話の中身や差別的な単語にとどまらず、有権者に悪いイメージを抱かれかねない言葉遣いまで口にしないよう細心の注意を払っていた。だから冒頭の台詞も、立場上本当にわずかしかない一人きりのとき、はっきり説明するなら首相官邸内のトイレの個室で、吐きだしたのだった。ただ、「壁に耳あり障子に目あり」というのも常に意識しているので、普段はたとえアリ一匹いなくてもそういう言葉を声に出すことはなかった。
カッコ内の二つのような、小学生でも知っているレベルのことわざこそ重視すべきというのが彼のモットーで、一番好きな格言は、保守党のトップでありながら日本語ではないのだが、「シンプル イズ ベスト」であった。
そんな具合に言葉に重きを置いている富沢が、ああいったつぶやきを漏らしたのだから、それ相応のことが起きたのだ。奈穂子の願いが天に届いたのではないだろうけれども、彼女が心の中で隼人の命運を祈った日から一カ月も経たないうちに、幸運の女神が隼人に微笑んだかのような状況が訪れたのだ。
それはまず、保守党と連立を組んでいる調和党の代表が、元々高齢でもあったのだが、病気になったために突如辞任した。そして、それに伴い新たにその座に就いた辛島という男が富沢率いる保守党に対して、もう日本の財政赤字は限界であるとし、次の総選挙で消費税の引き上げを公約に盛るよう迫り、さもなくば連立を解消すると言ってきたのである。
与党の議席はその二つの党で過半数を大きく上回っていたものの、内閣支持率は述べたようにすでに低かったのに、ジリジリ下がってもおり、選挙をやれば過半数割れすることも十分考えられた。しかし野党への支持も与党と同じかもっと低いほどで、どんぐりの背比べ状態だ。そこで富沢は、政府や与党の印象が良くなるか、野党の印象がさらに悪くなれば、解散しようと決めていた。なんとなく有利そうではなく絶対に与党が勝てると太鼓判を押せるくらいの状況であることが必須だが、追い風はそこまで強くなくていいのだ。それで、国民が喜びそうなことを思いついたらすぐに行い、不祥事を起こさないように党内に再三再四呼びかけるとともに、野党のなかでも最も多くの議席を有し、実質的な政権を争う唯一の相手である民政党が失態をやらかすのを待った。にもかかわらず、衆議院の任期が残り一年を切ってしまってもここだというタイミングはやってこず、何か打つ手はないかと焦っていた、そういう時期の出来事だったのだ。
あの男——辛島——は、何を考えていやがるのか。
富沢は側近にさえ口数が少ないと思われているが、心の中は冗舌であり、辛島を散々なじった。
辛島は彼と一緒の二世議員で、選挙区は違えど地元は同じ神奈川県ということもあって、お互いが政治家になる前から相手の存在を知っていた。とはいえ、学年は辛島のほうが五つも下だし、直接的な関わりはまったくなかった。なので、何かで恨まれなどしているはずはないし、親同士が仲が悪かったといった話も聞いたことはない。ゆえに今回の件は、個人的な嫌がらせの類では一切なく、純粋な政策論での行為と見て間違いないと思われた。日本の現在の消費税率は十五パーセントだが、財政再建には二十パーセントでもまだ足りないのは明らかなので、言い分としてはまったくもって正しい。知っている間柄ではないから推測の域を出ないが、耳にする話に加えて富沢自身感じていたのだけれど、おそらく辛島は生真面目な人間なのだ。
だが、選挙に負けたら意味がないではないか。政権を失うだけでなく、その消費増税自体できなくなってしまうのだから——。
世界中を見てもここまでなのは珍しいほどに、消費税の日本での嫌われ方はハンパではない。国の借金がすごくて、遠くない将来に財政が破綻するかもしれないことが一般人にかなり浸透してもなお、税率を上げる前の選挙において保守党は必ず大きく得票を減らしてきた歴史があった。当然辛島もそのセオリーを理解していないはずはない。
けれど、だからこそ野党も消費税アップを行おうとはしないし、このままではどうにもならないから、選挙の結果など考えずに、とにかくやるんだということなのだろうか? 野党も評価されていないのだし、今回は痛手を被らない見込みはあると思っているのかもしれない。だとするなら、そんなに甘くはないぞと富沢は言ってやりたかった。勝てる要素しかないようなときでも、わずかな油断で敗北を喫する場合がある。それくらい選挙は厳しいものだ。
それに今度の選挙には気になる存在もいる。柴崎隼人だ。




