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隼人が振り返ると、居たのは、肩までの長さの髪の真面目そうな女子で、同じクラスの平井奈穂子だった。
「ちょっと訊きたいんだけど、あんたってどういう人なの?」
それまで二人はろくに口を利いたこともなかったのに、奈穂子は馴れ馴れしい態度でそう尋ねた。
「はあ?」
隼人は、彼女のその様子に加えて質問内容にも意表をつかれた格好となり、すっとんきょうな声を出した。
「聞いた話だと、小学生のときは、運動神経が抜群で、一匹狼って感じだったらしいじゃん。それが中学になったら、まったくスポーツをやらなくなるわ、周囲に愛想が良くなるわ、『キャラが変わった』ってあんたのことを言う人も多いけど、一方で、みんなに溶け込んでいってるようで、心から他の人と仲を深めたい気持ちには見えないんだよね。いったいどういうこと? どういうつもりなの? 別にどうだっていいんだけど、ちょっと気になっちゃってさ。もしかして太宰治病とか?」
彼女が口にした通り、隼人は、以前は無愛想とまではいかないものの積極的に他人とコミュニケーションをとるほうではなかったのに、楽しげに同級生たちの輪に加わる回数が格段に増えていた。
「太宰治病? なに、それ?」
隼人はその部分が引っかかって、問い返した。
「知らない? 作家の太宰治」
「名前は聞いたことあるけど」
「人間が理解できなくて、他人と接するとき道化を演じてたの」
「道化って?」
「ピエロだよ。笑わせるようなことをして、ごまかすようにコミュニケーションをとってたんだ」
「俺、笑わせるようなことなんて、した覚えないけど」
「そうだけど、相手の機嫌をとるくらい、周りに合わせる態度をしてない? そんな不自然さを感じるんだよ」
隼人は痛いところをつかれたといった表情になった。
「……まあ、他人を無視して、自分一人でやっていけるほど、俺、賢くないからさ」
「え? どういうこと?」
「生きていくのって大変だろ? 頭いいから知ってると思うけど、老後相当お金が必要らしいから、一生懸命働いて、年金をもらえても、足りなくて困るかもしれないし、その前にAIに仕事を奪われるって話もあるし、そんなどうなるかわからないなか、自分の力だけで生き延びていけるって自信を持てるほど、出来のいい頭脳じゃないってことだよ」
奈穂子はそんな理由だとは思わず驚き、言葉に詰まった。
「……ふーん。でも、だったらなんで得意なスポーツをやらなくなったの? すごく運動神経がいいみたいだし、競技にもよるだろうけど活躍すればかなり稼げるんだから、その道に進めばいいんじゃないの?」
「スポーツなんて、それだけやって、バカでも安泰でいられるのは、一握りでしょ。ケガをするリスクもあるし、もし成功してもプレーをできるのは四十歳とかせいぜいその程度の年齢までじゃん。甘くはないよ」
「そう……。だけど、生きていくためなら、今の時点から周囲に気を遣うなんて無駄な労力じゃない? 卒業したら、ほとんどの人、もしかしたら全員と、まったく会わなくなるよ、きっと」
「まあ、今は他人とうまく付き合う訓練の意味合いが大きいけど、何があるかもわかんないしさ。俺、一人親の家庭で育ってきたから、生きていく大変さが身に染みてるんだ。頭の悪さも親譲りだし。ただ、仲のいい人を増やせば、困ったときにそのなかの誰かが都合よく助けてくれるとも思ってなくて、できる限り自力でなんとかやっていけるように、勉強も頑張ってるんだ。平井さんも図書室によく来るみたいだから、俺が勉強に励んでるのを気づいてたかもしれないけど」
「うん」
奈穂子はうなずいた。
「確かに、宿題や課題でだけじゃなくて、真剣に勉強をしてるみたいだって思ってたよ。じゃあ、一つ忠告してあげると、教科書とか学校でやってる勉強なんて、いくら真面目に取り組んだところで、たかが知れてるよ。受験なんかである程度は必要だろうけど、あんたが言った、世の中を生きていくっていう本質的な部分ではね」
「え? そうなの?」
隼人は軽くショックを受けた顔つきになった。
「本気で世間の荒波を生き抜いていこうっていうなら、それくらい感覚でわからなきゃ駄目だよ。たまに歴史の記述で騒ぎになったりするけど、教科書は国のチェックを受けるから基本当たり障りのないことしか書いてないし、授業は、なんだかんだ先生は立派なことを言うけど、結局受験が一番重要でそのためにやっているようなもんだから、実生活とのつながりが希薄だし、学校で学ぶことは、社会へ出たらたいして役に立たないでしょうね」
「だったら、どんな勉強をすればいいのかな?」
彼はめげずに訊いた。
「本をたくさん読むことだね。それも、いろんなジャンル、それに持論を正論みたいに書いてる人がいっぱいいるからおかしな知識を取り入れないためにも、いろんな著者のものを、まんべんなく。あと、新聞も、会社によって物事の捉え方がまったく違うときもあるから、いろんな新聞の、いろんな記事に目を通して、あらゆる分野のことがわかるようになるのが理想だよ。いつ、どこで、どう役に立つかもしれないからさ」
「へー。ありがとう。ところで、平井さんは太宰治病なの?」
「え? なんでよ?」
「だって、今の平井さん、普段と違うよ。いつもは、なんていうか、もっと穏やかで、そっちこそ周りに合わせてるような感じがするけど?」
奈穂子は勉強ができる優等生だが、堅物というのではなく、他の生徒たちと、ほとんど変わらぬたたずまいで、交友関係を築いてもいる、ほどよく真面目なキャラクターだった。かたや、目の前の彼女は、自宅で家族に対して素のわがままな状態で話しているような、少々悪い雰囲気の態度であった。
「まあ、そうだね。学校なんて馬鹿馬鹿しいけど、私もあんたと同じようなもんで、行くのをやめたり、我を通し続けられるほど、甘くはないってわかってるから、合わせてる。だから人を理解できないとかじゃないんで、太宰治とは違うよ」
「そっか」
「だけど柴崎ってさ、他人と良い関係を築こうとしているからだけじゃなくて、本当に性格いいでしょ? シロがいじめられてるのを止めるとこ見たよ。あんな行動、いいコぶるなって、評価を落とす危険のほうが大きいもん」
「……ああ、あれは……」
なぜか隼人は口ごもり、その件についてそれ以上はしゃべらなかった。