後編
──好きなひとができるとさ、強くなれるんだよ。
そう言って、彼は少しはにかむように微笑んだ。
人さし指から伝わってくる彼の体温が、じんわりとあたしの心まで溶かしていくみたいだった。
「高校に入ったら、絶対に自分を変えようって決めてたんだ」
彼は握ったあたしの指先を見つめたまま、ぽつりぽつりと話しだした。
「中学のときはさ、本当に人見知りで、誰の名前も呼べなくて、ずっと話しかけられるのを待ってるだけの情けない奴だったから。……でも、入学式の日にね、見つけちゃったんだ。廊下の隅っこで、今にも泣きそうな顔をしてうつむいてる、俺とそっくりな女の子を」
あたしはただ、黙って聞いていた。
『それって……あたし?』なんて、うぬぼれたことは口にはできずに──彼の話の続きを、待った。
「そのとき思ったんだよね。ここで俺がいつものように縮こまっていたら、あの子はずっとあのままだ。あのひとを笑顔にできるのは、きっと、同じ痛みがわかる俺しかいないって。だから、心臓が口から飛び出すぐらい緊張したけど……柄にもなくチャラいナンパ男のフリをして、話しかけたんだよ」
彼はそう言って、あはは、と照れくさそうに頭をかいた。
あの「はじめまして」のときの、緊張感ゼロに見えた綺麗な発音──
あれは彼が、あたしのために命がけで振り絞った、精一杯の『勇気』だったんだ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
ずっとグイグイ引っ張ってくれていると思っていた。でも違った。彼はあたしを引っ張るために、必死で一歩前を歩いてくれていただけだったんだ。
アイスクリームを奢る代わりに「彼女になって」と言いかけてやめたのも、彼が人一倍、相手の気持ちを思いやる優しい人見知りだからだ。物で釣るような真似はしたくないって、そう思ったからに違いない。
そんな彼の優しさに、あたしはずっと甘えてばかりいた。
恥ずかしいからって、不機嫌な顔をして、そっぽを向いて。
……このままじゃ、だめだ。
彼がこんなに強くなってくれたなら。
あたしも、一歩だけでいいから、前に進みたい。
あたしは、彼に握られている人さし指に、ぎゅっと力を込めた。
驚いたように、彼がこちらを見る。
前髪のすき間から、まっすぐに彼の目を見つめた。
心臓がバクバクと太鼓のように鳴っている。顔が火事になりそうなほど熱い。だけど、絶対に目をそらさなかった。
「……あたしも」
声が震えた。
「あたしも……強くなる」
「え?」
あたしは深く息を吸い込んで、ずっと鏡の前でしか言えなかった、世界で一番大好きなその名前を、彼の胸のバレーボールに向かって叫ぶように口にした。
「──蹴斗くん!」
彼はまるで魔法にかけられたように、目を見瞠いて、完全に固まってしまった。
「あたし、不器用だし、愛想もないし、すぐうつむいちゃうけど……っ。蹴斗くんが大好きです! 友達じゃなくて、……蹴斗くんの、彼女にしてください!」
言い切ると同時に、恥ずかしさが限界を迎えて、あたしは彼の胸に勢いよく頭をうずめた。
ドスン、と鈍い音がして、彼の大きな白いTシャツに顔がめり込む。
沈黙が流れた。
やばい、勢いがあまって頭突きみたいになっちゃった。怒らせたかな。やっぱり迷惑だったかな。
不安になって顔を上げようとした瞬間──
おおきな、あたたかい両腕が、あたしの背中をそっと包み込んだ。
「……反則だよ、モヨちゃん」
頭の上から聞こえた彼の声は、今までで一番震えていて、そして、一番嬉しそうだった。
耳をすますと、あたしの背中に触れている彼の胸からも、あたしと同じくらい、いや、それ以上に激しい心臓の音がドクドクと響いてくる。
「名前、呼んでくれた……。すっごいドキドキした……」
「あたしも……心臓止まりそう」
「あはは、お揃いだね」
彼が腕の力を少しだけ強めて、あたしを優しく抱きしめる。
しばらく二人とも、何も言わなかった。
初夏の暑さに汗びっしょりで、不快なはずなのに、ここにこうしているだけで、すべてが心地よかった。
振り注ぐセミの声が、ふいに止んだ。
思い出したように、蹴斗が言った。
「じゃあ、決まり。今年の夏祭りは、俺の『彼女』として、一緒に行こうね」
彼の胸の中で、あたしは何度も、何度もうなずいた。
もうすぐ、本格的な夏がやってくる。
人見知りなあたしたちの、不器用で、だけど誰よりも一生懸命な恋。
二人で手をつないで、駆け込んでいく季節が、すぐそこまで来ていた。




