第2章
4 傷
ほんのり薄暗いナツメのアトリエを一言で表現するなら、「巣」だ。この部屋が、外界から隔たれた特別な空気を醸し出していることと、何かを生み育てるための温かなエネルギーが充満していると感じるからだ。その何かが「猫」なのだと改めて気づくと、ナツメが作る猫とは一体どんなものなのか強く興味が湧いてくる。
「ソファーにでも座ってて」
ナツメはそう言うと、作業机まで進み、机上に置かれた黒い箱を掴むと、努の前まで持っていきそれをそっと差し出した。箱には丁寧に水色のリボンが巻かれている。
「はい。できたわ。努君の猫」
「……猫」
「ええ。とっても心を込めて作ったわ」
「心を込めて?」
「そうよ」
「……ふーん。そうなんだ」
努はナツメの言葉にくすぐったい気持ちになり焦る。心を込めて作って欲しいなど、一言も頼んでいないというのに。
その時、アトリエのドアをノックする音がした。ナツメが「どうぞ」と返事をすると、明人が盆にブルーベリーを浮かべたアイスティーと、努の作ったフロランタンを乗せ、アトリエに入ってきた。三人分。その数を見て、ナツメが冷ややかに明人を睨んだ。
「ちょっと、何でちゃっかりここで一緒にお茶を飲もうとしてるの? 私は努君と二人きりで話がしたいの。明兄は一人で店の隅で飲んでてよ」
ああ、始まった。
ナツメの明人に対する態度がわかり易くて努はおかしくなる。多分、本人だけが気づいていない。明らかに、明人だけは特別だという自分の思いが、溢れ出ているということに。
「何だよ。お茶にしようって言ったのナツメだろう? 何で俺だけ除け者なんだよ」
「お客様のプライバシーを守る義務が私にはあるの。ほら、さっさと部屋を出てってちょうだい」
「……ったく、分かったよ。もう。何なんだよ。言われなくても出ていくよ。さっき菱沼君から急用で呼び出されたからな。会社に戻らないと」
「……あ、そう。今日はブルーベリーありがとう。助かったわ。あ、それと私が作ったキャラクターのサンプル、カウンターの引き出しに入ってるから」
「ま、まじか! ありがとうナツメ! よし! 会社に戻ったら、我社オリジナルのキャラクターを速攻で完成させるぞっ」
明人は眼を輝かせながら大きな声でそう言うと、「じゃあ、またな。努君。ナツメ」と元気に挨拶をして、アトリエを急いで出て行った。
「いいのか? 行っちゃったぞ?」
努は何となく心配になってナツメにそう言った。
「いいの。ここにいられちゃまずいもの」
強がりなのか、少しばかり動揺しているナツメの瞳を、努は初めて見た。でも、それはかなり努にとって嬉しいことなのだが。
「俺に話って何? 俺はこの猫を貰えばいいだけだろう?」
「そうね。取り敢えず箱を早く開けてみてよ」
「……分かったよ」
努は何となく恭しくリボンを解き、ゆっくりと箱の蓋を開けた。そして、その箱の中身を見た瞬間「うわっ」と叫び、思わずそれを床に落とした。
「何これ! 本物?」
「違うわよ。ちゃんと見て」
ナツメは呆れたようにそう言うと、箱から飛び出した猫のぬいぐるみをそっと抱き上げて、努に差し出した。
「ま、マジ? すごいクオリティーなんだけど」
努は呆然としながらおずおずと手を差し伸べて、自分の分身となる猫を不器用に抱きしめた。
猫はおいしそうなキャラメル色をしていた。手と足と頭の一部にトラ模様が入っている。頬の毛が長いのが特徴的で、それがとても可愛い。そして何より、本物と寸分違わない毛並みに驚く。その毛はまるで、細胞の一つ一つが息づいているかのように、努の掌に心地良い感触を与える。猫の両脇に手を入れ、持ち上げながら顔を見ると、瞳の色は飴色に近い、深い黄色をしていた。一目見て、努はその色を好きだと感じる。
『イエローサファイア』
昔、母親が嬉しそうに努に見せてくれたペンダントが確かそうだった。あの色に似ていると、努は猫の瞳を食い入るように見つめた。すると、突然、努の意識がぐらっと一回転した。まるで、過去、数十年分の記憶を一瞬で一回りしたみたいに。
何だ、これ。
突然の出来事に努の動悸が早くなった。嫌な、もの凄く嫌な予感がする。思い出したくもない過去に、強引に引き戻されそうな予感がして、努の全身が震えた。抗おうと思っても、強い何かに引っ張られるように、下へ下へとゆっくりと堕ちて行く感覚を止めることができない。
ふっと、足元が地面に着地したような感覚を覚えた時、白い靄が立ち込める景色の中に自分がいることに気づいた。努は震えながらもじっとしていられず、何も見えない景色の中をふらふらと彷徨い歩いてみる。しばらく歩いていると、もの凄く嫌な予感が、ひたひたと自分に近づき始めていることを、努は絶望的に悟った。
歯を食いしばって、頭に力を入れて、脳味噌の機能を一時停止させなければ。そうしないと、自分が自分でなくなってしまう……。
努の小学校の三階の奥の部屋。そこは畳の部屋になっていて、児童を個別に指導したい時に良く使われる部屋だ。努はその部屋を思い出すと、自分の心臓が小刻みに震え始め、まるでねじ式のおもちゃのように、いつ止まってもおかしくないような状態に脅かされる。有耶無耶にわざと記憶をブレさせて今まで生きてきたというのに、今、自分がいるこの場所は、紛れもなくあのおぞましい場所だ。それは夢などではなく、現実なのだと認めさせられるほど、リアルな空気が努を包み込む。
ああ、嫌だ、助けて……。
努は小学三年生の時、隣の席の男の子を好きになった。初恋だった。その恋心に努ははっきりと胸をときめかせた。たとえ相手が同性でも、自分は隣の男の子に、心を強く掴まれたことを素直に受け入れた。とても好きだという甘い感情の方が、自分はおかしいとかいう感情よりも遙かに勝っていた。努は純粋だった。自分に正直だった。とても健気で情熱的だった。
あの頃の自分を思い出すと、努は、頭を思い切り壁に打ち付けたい程恥ずかしくてたまらなくなる。自分の幼さ、自分の無知さを心の底から呪いたくなる。
弱い人間は、ストレスや自己肯定感への渇望が引き金となって、自分の欲望を上手くコントロールできなくなるのかもしれない。それは、人を教え導く立場にある教師でも然りだ。
努は、副担任の大学を出たばかりの男性教師に相談を持ちかけた。その男性教師を信頼し、尊敬していた努は、悪びれることなく、年の離れた従兄にでも言うように、隣の席の男子が好きだということを告白した。男でも男を好きになることがあるのか? でも、それは悪いことでないはずだということを、純粋に確かめ、安心したかったからだ。
努は今、畳の部屋にいる自分と男性教師を見ている。目を反らしたいのに、何か別の力によってなのかそれが叶わない。
その男性教師は、努にこう言った。
「何もおかしくない。全く普通だよ。先生もそうさ。かわいそうに。ひどく悩んだんだね……先生が慰めてあげるよ」
自分がされた行為に抵抗できなかったのは、幼さ故に、この行為の意味が良く理解できなかったことと、その行為に対して、背徳的な空気を本能的に感じつつも、強く興味を抱いてしまう自分との葛藤に、身動きがとれなくなってしまったからだ。
先生は誰にも言ってはいけないと努に言った。これは二人だけの秘密だと。
何度かあの部屋で同じような行為をした。その度に努は呪文のように、これは「悪いことではない」と心の中で唱えた。これは、同性を好きになった努を、認め、受け入れてくれる先生なりの儀式なのだと思うことにした。先生は自分を心配し、慰めているだけなのだと……。
いつしか努は、その行為を待ち遠しくなっている自分に気づいた。でも同時期に、努が「大人」の入り口に立ち、少しずつだが、性的な行為に対する理解を得てきた時、否が応でも気づかされてしまう。
性的な行為に対する好奇心と罪悪感は表裏一体だ。それは健全な魂に宿るごくありふれた感情だ。だからこそ、その気づきは、強い気持ち悪さと汚らわしさを伴わせながら、容赦なく自分自身の心に、一生消すことのできない深い傷を付ける。自分が悪い。自分は汚れているのだという感情に、心が一瞬で蝕まれてしまう。
苦しい。息ができない。止めろ! 止めてくれ! 俺に触るな!!
努は大声で叫びたいのに、呼吸がどんどん浅くなり、胸が苦しくて、声を出すことが出来ない。
「努君……ねえ、努君!」
遠くで誰かの声が聞こえる。とても耳あたりの良い、癒される声だ。その声に導かれたいと、すがる思いで今の意識を手放そうとするが、また強い力に邪魔をされ、更に内界へと引きずり込まれてしまう。
その時、どこかで泣き声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。なんとなく面映ゆくなるような泣き声に、努の意識は素早く奪われ、そのせいで呼吸が徐々に整っていく。努はその泣き声のする方へ歩いた。そして、歩きながら気づく。自分が立っているこの場所が、小学生の頃よく遊んだ公園に変わっていることを。
泣き声が段々と大きくなっていく。大きくなるにつれ、泣いている人間の正体に薄々気づき始めると、記憶の扉をまたひとつ強引にこじ開けられたことに、努は絶望的な気持ちになった。
芝の生えた小さな山に埋もれたコンクリートのトンネル。あの事があって以来、努は、誰もいないことを見計らっては、そのトンネルの中に入り良く大声で喚いていた。「わあー」とか、「ぎゃー」とか、滅茶苦茶な言葉を思い切り喚けば、自分の心を蝕むあの気持ち悪い感情や、自分が普通ではないという事実を、一瞬でも手放せる気がしたからだ。
でも、聞こえるのは喚き声ではなく、啜り泣く声だ。それはトンネルの中から聞こえてくる。
努は小学生の頃と同じように、トンネルの中に入ろうとした。しかし、かなり体を屈ませないと中には入れず、そのことで、自分が大人の男に成長したことを改めて気づかされた。
努は這いつくばりながらトンネルの中央まで移動した。
やはり、そこにいたのは「少年の自分」だった。
努はこの日を忘れたことがない。努はこの日少しだけ大人になったのだ。それは気付きだ。それはとても残酷で、非情で、努の純粋で情熱的だった心を、無残にも打ち砕いたのだ。
ああ、何て哀れなんだろう……ねえ、泣かないでよ。お前の気持ちを分かってあげられるのは、俺しかいないんだからさ……。
努は自分である泣いている少年の肩を優しく抱き、引き寄せた。自分がゲイであること。何も知らない幼い自分が大人の手によって辱められたこと。その事実がお互いの肌を通して、自分から自分へと廻り巡る。その事実は血が滾るように熱く、心臓を轟かせる。
苦しい。熱い。
不思議だ。それでも自分は何とか大人になったのだ。幼い自分との体格差にそれを知らしめられる。大嫌いな大人になって、幼い自分を抱きしめているのだから。ただ図体だけがでかいだけの大人じゃない。自分の性的指向を苦しみながら受け入れ、一応、夢に溢れた大人になった。自分は菓子作りという自己表現を見つけて、あの深い傷を塞ぎながら乗り越えて、何とか大人になったのだ。今ここでそれらすべてを捨てたら、自分はこのトンネルで泣き喚いていた幼い自分を、救えないではないか……。
努はぎゅっと抱いている手に力を込めた。そして、また強く自分を抱きしめた。そうすればするほど、哀れな自分が愛おしくてたまらなくなった。自分が自分を救う。守る。愛してあげる。そんな感情が噴き出すように溢れ、努の目から涙となって零れ落ちる。
「俺はバカだ……」
そう呟いた瞬間、努ははっと我に返り、項垂れていた頭を上げた。視線の先には、静かに努を見つめるナツメがいた。努を心配してか、不安げに瞳は揺れているが、冷たいまでに澄んだ目はいつものナツメの目だ。努は涙で濡れた目でナツメに訴えかけた。これは一体どういうことなのか。その疑問を今すぐ問いたいが、体に力が入らず、脱力したように努はソファーに勢い良く腰かけた。膝の上にいる猫。それは切なげに自分を見つめ、余りにもリアルに、努の膝の上で強烈な存在感を放っている。
「バカよ。本当。努君からお菓子作りとゲイを取っちゃったら、何が残るの?」
ナツメはゆっくりと努に近づき、そっと努の横に腰かけた。夏色の爽やかなワンピースの裾が、ふわっと努の太腿の脇で膨らんだ。
「私ね、努君の中に潜んでる陰りみたいなものを、前から薄々感じてはいたの。それが何なのかははっきり分からなかったけど。でも、努君からのSOSを強く感じたことは今までなかったのよ。多分努君は、お菓子作りっていう情熱があったからこそ、その陰りと戦えてこれたんだと思う。だからね、私の店に来た時、とても驚いたの。努君が、努君じゃなくなってたから」
「……言ってる意味が、さっぱり分からないよ」
努はぼんやりとした心で呟くようにそう言った。
「高校生の頃も、努君はやる気に溢れてた。私、この人、絶対有名なパティシエになるって、そう思ってたんだよ」
ナツメはゆっくりと高校時代を反芻するようにそう言った。その様子から、ナツメがいつも自分を気に掛けていたことが分かり、努は、自分の瞳からまた涙が零れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
「有名なんて、ほんと大袈裟だな。ただ、好きだったから。お菓子作んの。ほんとそれだけ……否、嘘かな。有名っていうか、世界に通用するようなパティシエになりたいとは、密かに思ってたけどね」
「うん。そうね。それって、とっても素敵なことだわ」
ナツメは歌うようにそう言うと、優しく努の膝に手を置いた。
「ナツメ……」
「何?」
「分かるの? ナツメは、やっぱり見透かせる力が、あるの? それって……俺の何を見たの?」
努は嗚咽を漏らしそうになりながら、ナツメに対する驚異を抑え切れず、声を震わせて問いかけた。
「人ってどうしてなんだろう。自分と同じ人間なのに、残酷にも傷つけようとする。本能的なものなのかは分からないけど、傷つけられた人間は、その理不尽さをただただ呪うしかない……私はね、助けを求める人の心に、自分の心がシンクロしてしまうの。映像が見えたり、声が聞こえたりするから、まるで、自分が体感したみたいに、リアルに感じてしまうの……」
努は口をぽかんと開けながらナツメを見つめた。そして、心の底から納得して深く頷くと、太ももの上に肘を付き、両手で頭を抱えた。
「シンクロしたの? 俺の心の傷と?」
「ええ」
「……まじか」
「SOSが聞こえたってさっきも言ったでしょ? 努君から助けてって声が……あのね、その猫は努君の分身なの。努君はその猫を、心を込めて抱きしめるの。その猫は努君が自分を取り戻すための、きっかけだから」
「きっかけ?」
「ええ。私の作る猫を抱きしめると、心に電流が流れるの。その電流は努君の心を刺激して、もう一度自分を取り戻すための勇気を与えるの」
ナツメはそう言うと努に軽く微笑んだ。その笑顔に努の胸はずきんと痛んだ。ナツメは知っているのだ。幼い自分の身の上に起きたあの出来事を。
努は恥ずかしさと情けなさでどうしていいか分からず、自分の膝から落ちた猫を、無意識に取り上げて抱きしめた。キャラメル色のその猫は、フランスの焼き菓子を思わせた。甘い香りがしそうな気がして、努は猫の頭に思い切り自分の顔を埋めた。そうすると、忘れかけていた情熱が、自分の胸をじんわりと熱くしていることに気づく。
ああ、早く、早く、自分だけのお菓子を作りたい。
じわじわと沸き上がる欲望に、努の心は徐々に冷静になっていく。結局、自分の進むべき道は、何があってもこれなのだと、これしかないのだと、笑い出したくなるほどクリアに覚醒した欲望は、努の頭の中で五月蠅い程鳴り響く。
「俺はね……あんな事があって以来、お菓子作りにバカみたいに没頭したんだよ。たくさんレシピを考えて、ノートに付けて、あの事を自分なりに乗り越えようと必死だったんだ」
「ええ。分かるわ」
「でもさ、もちろん完全に乗り越えることなんてできなかったんだよ。いざとなると、あの時の自分が脳裏に浮かんできて、いつも俺を苦しめるから……。ほんと言うとね、恋愛とか怖かったんだ。人を信用できないし、猜疑心ばかりが強くなって、自分は汚いって思うと、自分に自信が持てなくて……」
「うん。当たり前よ。でも、努君は何も悪くない。それに、全然汚くなんかないわ」
ナツメはひどく真剣な目で努に訴えた。これほど強く、努に思いを伝えるナツメを努は知らない。そのせいで余計にナツメの思いが、努の傷を治癒するようにじんわりと浸透する。だから努は観念したように素直になった。まるで、ナツメの掌で日向ぼっこをする猫のように、丸くなる。
「ナツメが高校を卒業した後すぐ、パリ郊外の割と有名な菓子店で、「スタージュ」って言う、日本で言う見習い研修みたいなことをしたんだ。その店の従業員だった彼を、俺はどうしようもなく好きになったんだよ。彼はフランス人で俺と同じゲイだったんだけど、彼も俺の事を好きだと言ってくれて、付き合うことになったんだ……毎日が怖いくらい幸せだった」
核心的なことを言いあぐねてしまい、努は悲しくなって目を伏せた。でも、自分の猫にまた顔を埋めると、努は意を決して、まっすぐナツメを見つめた。
「……全部、無くなったんだ。俺のレシピノート。盗まれたんだよ。彼に」
「盗まれた? 全部?」
「そう。その後すぐ彼は店を辞めたんだ。彼はさ、俺のレシピノートが目的で俺と付き合ったんだよ。俺のことが好きとかじゃなくてね……マジで死のうかと思ったよ。やっぱり自分は汚れてるんだとか、俺なんか誰にも愛されないんだとか、そんな風に考えてもう頭ん中ぐちゃぐちゃになった。そしたらさ、世界で通用するパティシエとか、レシピとか、恋愛とか、そんな自分のすべてが、本当にどうでもよくなったんだ……」
投げやりな気持ちを表すように、努は斜に構えながら過去を告白したが、少しだけ心が軽くなったせいで、僅かに微笑んた。
「でもさ、もう止めるよ。そんな風に自分を粗末にするの。そういうの、やっぱ損だし。この猫抱きしめてたら、俺の中から勇気が生まれた気がするよ。……お前、すげーな」
努は猫に向かってそう言うと、愛おしさを込めて、自分の分身の頭を撫でた。
「そうだ、ねえ、俺の爪、何で必要だったの?」
努はそれを急に思い出して、ナツメに唐突に尋ねた。
「何でもいいの。髪の毛一本でも、爪一つでも。依頼者と繋がる手段になるなら。繋がりながら、私は依頼者の思いを感じ、気持ちを込めて猫を作るの」
それは、ナツメ自身の魂が美しく逞しいからできることだ。そうでなければ、何人もの人間の苦しみや悲しみを受け止めることなど、できるわけがない。
努は改めてナツメを見つめた。この小さな体のどこにこんな壮大な力を宿しているのか。努はナツメという人間と出会えた奇跡に、不思議な縁を感じ、とても幸せな気持ちになった。
その時、突然ナツメがすくっと立ち上がった。そして、アトリエ内にある、ナツメの作業机らしきものに近づくと、机上の棚の引き出しから何かを持ち出した。
「これを、預かったわ」
「え……」
努はナツメの手にする物を見つめて、体を小刻みに震わせた。そして、大きく目を見開くと、ナツメの両腕を掴み激しく前後に揺らした。
「こ、これ何! どうしてナツメが持ってるの?」
努はややパニックになると、ナツメの手からそれを取り上げ、自分の手で、目で、それをしっかりと認識した。そして、今まで張り詰めていた努の涙腺がついに決壊し、その物の上に、努は涙をぽとぽとと落とし始めた。
「濡れちゃうよ。ノート、いいの?」
ナツメは努を落ち着かせようと、ゆっくりとソファーに座らせた。努は涙を零しながら、ナツメに促されるまま操り人形のようにソファーに腰掛ける。
「どうして? どうして?」
独り言のように何度も同じ言葉を呟く努に、ナツメはゆっくりと語り始めた。
「彼、言ってたわ。『ごめんなさい』って。あなたにそう伝えて欲しいって。『今も君を愛しているけど、僕にはその資格はない』ってこともね」
「う、嘘だ! ナツメ! 何でそんなでたらめ言うんだよ……あ、力か? これもナツメの力のせいなのか?」
「そうじゃないわ。もっと単純なことよ」
「単純って何? 何なの?」
この突然の事態に、努は正気を失いそうなほど混乱してしまい、思わず頭を掻きむしった。ナツメは努の肩に手を置いて揺さぶると、『落ち着いて』と優しく言った。
「彼は努君のレシピ目当てで付き合ったんじゃないわ。純粋に努君に惹かれて好きになったの。努君の才能と努力を尊敬して、共にパティシエとして一緒に生きて行きたいってそう思ってたのよ。でもね、実は努君と付き合っている頃、彼の前に突然元恋人が現れたの。その元恋人っていうのが、最悪なことに、麻薬の売人をしているような反社会的な男でね。突然彼の前に現れて、また自分と付き合えってしつこく絡んできたの。もちろん努君を好きな彼はそれを拒んだわ。でも、その男はこう脅してきたの。自分とやり直さなきゃ、仲間を使って努君に危害を加えるって……とにかく、刑務所にいたぐらいの人間だから、まともな話なんて通じないのよ。努君の彼はね、その男が麻薬がらみで警察に捕まって、刑務所に入ったのをきっかけに関係を断つことができたんだけど、刑期が終わって刑務所を出所してしまったその男は、彼を執拗に探し出し、また彼の前に姿を現したってわけなの」
知らなかった。彼は自分にそんな過去があることなど一度も話さなかった。元恋人が犯罪者だなんて話、言い出しづらいのは当たり前だろうけど、過去など関係ないと分かっていても、この胸の奥にある嫌なもやもやは何だろう? 自分は一体彼の何を見ていたのだろう……。
「安心して。努君。その男とはね、同性愛者の集まるバーで偶然知り合ったみたいよ。もちろん努君の彼は、その男がそんな犯罪者だなんて知らないで付き合っていたの。だんだんと本性を現してきた男と彼は別れたかったけど、男自身も薬に侵されているような人間だから、別れるなんて言ったら、何をされるか分からない恐怖があったみたい。努君の彼は、そんな男の恐ろしさを十分に知っていたから、ある行動に出たの」
「行動?」
「そう。努君の身の安全を一番に考えた行動。それは、努君の前から黙って姿を消すこと。それもただ消えるんじゃなくて、努君が自分を完全に諦める方法よ。もし諦めなかったら、努君は自分を探すだろうし、もしそうなったら、その男とまた顔を合わせることになってしまう。それだけは絶対に避けたいから」
「そ、それって、何?」
もったいぶるようなナツメの態度に頭がパンクしそうになった。もう既に自分の心は、今にも倒れそうなジェンガのようにグラグラと不安定なのに。
「レシピノートを盗むことよ。盗んでしまえば、努君は自分を諦めるだろうって。ああ、あいつはレシピノート目当てに俺と付き合った最低野郎だって……努君は必ずそう思うだろうって考えたのよ」
そんな……。
努は絶句した。ただただ驚き、今自分が手に持っているレシピノートを無意味に見つめた。
「だから大丈夫。そのレシピノートは、彼がいつか必ず努君に返すため大事に保管していたし、誰にもコピーされてないわ」
ナツメの話に、努は一瞬で今までのモヤモヤとした蟠りが解けていく。だからこそ余計に、元恋人への怒りに心が締め殺されそうになる。その男に出会わなければ、彼はこんなにも苦しまずに済んだのだ。その怒りと悲しみに、努の頭は破裂しそうなほど痛い。そして何より、それを知らなかった自分への不甲斐なさに対する憤りが、心の底から吹き出してくる。
「駄目。自分を責めないで、努君。ねえ、何故そのレシピノートが今努君の手の中にあると思う?」
「え? あっ、そうだよ! 何で? 何でナツメが持ってるの?」
努はそのことに改めて気付き、驚き、もう一度まじまじと自分のレシピノートを見つめた。
「彼はね、努君のレシピノートを盗んでしまったことが、とても辛かったの。絶対に努君に返すって決めて、男の元に戻ったけど、もちろん愛してなどいないから、彼はどうやってこの状況から逃げるか毎日考えていたのね。そんな時よ、チャンスが訪れたのは。元恋人の男が警察とカーチェイスをして自爆したの。即死だったみたい。自業自得よね」
「し、死んだの? その男が?」
「そう。死んじゃったの」
人の死を心から喜んでしまうことに、努はもちろん罪悪感を覚えないわけはない。でも、もしそれが事実なら、この世に神様がいることを信じるのも悪くないかもしれない。
「自由の身になった彼だけど、犯罪者の恋人ってことで、最近まで警察に長く拘束されていたみたいだから、今になっちゃったみたいね。彼なりに頑張って努君のことを調べたのよ。努君に気づかれないよう努君の家まで行ったら、努君のご両親が、フランス語ができる私の店に彼を案内してくれたの」
「え?……あっ!」
努はあることを思い出して、これでもかと目を丸く見開いた。そして、勢いよく立ち上がると、視線は既にドアの方を向いている。
「彼、だったんだね……さっき、俺がすれ違った人」
感情を抑えるような低い声で、努は静かにそう言った。
「ええ。でも、彼、自分は努君に会う資格はないからって言って、レシピノートだけを私に預けて店を出ていったわ……多分、今頃空港あたりじゃないかしら」
ナツメは白々しくそう言った。
「俺も、愛してるんだ」
「ええ」
「彼を、心から」
「知ってるわ」
努の瞳には、既にはっきりとした揺るぎない未来が写っている。その瞳の先は、この扉から空港へ、空港から更には異国の地へと向かい、新たな旅立ちの予感に心が震え始める。
「……ありがとう。ナツメ」
「何が?」
「この猫。ずっとずっと大切にする」
「当たり前でしょ。自分の分身を粗末にしないでね。自分深く愛するように、強く、強く抱きしめてあげて……」
「ああ……この猫は俺の勇気だ。だから一生手放さない」
努は力を込めてそう言うと、キャラメル色の猫を小脇に抱えながら、アトリエのドアを勢いよく開けた……。