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ナツメの猫屋  作者: HIMIKO
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第2章

        3 ブルーベリー


 誰しもが生きていれば、忘れてしまいたい過去のひとつやふたつあるはずだ。今、道ですれ違う、屈託なく笑う少年や少女にも絶対に。もし、『そんなことないよ』と笑顔で返されたら、努は、『絶対に嘘だ!』と思いきり自分の不幸を武器に彼らに楯突くだろう。


 自分の不幸で、前向きな相手をばっさばっさとなぎ倒せる自信が今の自分にはある。そのぐらい今日も努は、ネガティブで憂鬱なオーラを色濃く纏わせている。


 ナツメの店にせっせと手作り菓子を届けて、早一ヶ月が過ぎようとしていた。明人の店に努の菓子を並べさせてもらっているが、装飾やラッピングはセンスの良いナツメに任せてあるからか、売り上げは非常に良い。そのことについてナツメに礼を言うと、ナツメはいつものような涼やかな顔で、『努君の腕のせいでしょ』と言い返してくる。努はそれが無性に気に入らない。何かを奥に秘めたようなその物言いに苛立ちが込み上がる。何故こんなにも最近のナツメは努を苛立たせるのか。毎日ナツメの店に菓子を届けるために、ただロボットの様に手を動かしているだけなのに。そんな自分に送られる賞賛の声を、素直に受け入れられない自分に失望しているからなのか……。


 今日はついに努の『猫』が完成したとナツメから連絡が入り、努は重い気持ちのままナツメの店に向かっている。手には今日の菓子であるフロランタンを持ち、重たい足を動かしている。


 フロランタンは、クッキー生地にキャラメルアーモンドをのせて焼いた菓子だ。日本でも人気が高く、アーモンドとキャラメルのハーモニーが絶妙で、固めなキャラメルの歯ごたえと、ぎっしりのっているアーモンドは食べごたえある。


 菓子作りというのは、材料の性質を深く理解しなければならない、とても繊細な作業だ。油脂一つとっても種類が多く、菓子の特性に合わせて使い分けなければならない。油脂の脂質と水分量のバランスの違いで、さっくり、しっとり、ふっくらといった様々な仕上がりを楽しめる菓子作りは、とても実験的で奥が深い。努はそんな作業にまるで挑むかのように、自分のオリジナル菓子を今まで数多く追求してきた。焼き菓子であれば、その油脂に対してどれだけの小麦粉や砂糖を加えるか。更に何度のオーブンで何分焼くかなどの、分量と時間の配分を独自に考えては、何度も失敗と成功を繰り返してきた。


 一度ハマると中々やめられない。そんな中毒性を持った菓子作りをやめようと考える努の気持ちなど、きっと誰にも分からない。そう、あの魔女のように薄気味悪いナツメでさえも。


 努はそんな風に憤りながら、ナツメの店がある雑木林の奥へと足を進めた。八月下旬ともなれば、日差しの強さも若干和らいだように感じる。そんな夏の終わりを匂わせる雑木林の木漏れ日を浴びながら、努は店の入り口まで置かれた形の整わない石畳を、わざと子どもみたいに一歩ずつ踏み歩いた。その時、いきなり店のドアが目の前で開いた。その瞬間、サングラスをかけた、つばの広い黒い帽子を目深に被った男が、努の脇を足早に通り過ぎた。努はその男に見覚えがある気がして、素早く振り返ったが、男の方は努の存在など完全無視で、その態度から、努は自分の気のせいだと思い、そのまま店の中に入った。


「ナツメー、いるー?」


 努は覇気の無い声でナツメを呼ぶと、誰もいない店内のカウンターに寄りかかった。そう言えば店先に定休日という看板が立っていた。だとしたらさっき見た妖しげな男は一体誰なのだろう。努は少しだけ疑問に感じたが、しんとした店内を見渡しながら、そんなこと別にどうでもいいかと思い直した。


「あ、努君、いらっしゃい」


 背後から声がして驚いて振り返ると、明人が大きなバスケットに山盛りのブルーベリーを抱えて現れた。西野宮家の敷地であるこの雑木林には、ちょっとした果樹園でもあるのだろうかと、努はそんな明人の姿に驚いた。


「明人さん。どうしたの? それ」


「はあ、もう汗だくだよ。ナツメに頼まれて全部摘んでくれってさ。俺のばあさんが、気まぐれに植えた木が一本だけあるんだよ。すごいだろう? この量」


「うわ、明人さん、またナツメにいいように使われてるじゃん。可哀想に」


 努は心底気の毒そうに明人にそう言った。

「まあね、でもいい運動になったよ。久しぶりに汗かいたし」


 明人は清々しい顔をしながら努に歩み寄ると、どさっとバスケットをカウンターに置いた。 


「これさ、俺とナツメじゃ処分しきれないんだよ。努君ちでお菓子作りの材料にしてもらえるとありがたいんだけど。どうかな?」


 努の頭の中に、ブルーベリーを使ったお菓子のアイデアがどんどん浮かんで来る。これは一種の職業病だと、そんな自分に呆れながら、努は深い溜息をつくと、「いいよ」と軽く答えた。 


「じゃあ、私はブルーベリーのチーズケーキがいいな」


「え?」


 ナツメがいきなりそんなことを言いながら、カウンターの奥から顔を出した。ナツメが着ている、ノースリーブの小花柄の水色のワンピースは、華奢なナツメを更に華奢に見せている。とても可愛らしくて、ゲイの努でも思わず見取れてしまうほどだ。


「なんだ。いたんじゃん」


 努はつっけんどんにそう言うと、カウンターに頬杖を付き、つまらなそうに唇を尖らせた。 


「待ってたのよ。首を長くして。努君中々来ないんだもの。ねえ、今日のお菓子は何?」

「……フロランタン」


「やった、私それ大好き。今日はお店を閉めてるから、今から努君のフロランタンでお茶にしましょう。ね、明兄」


 努が差し出したフロランタンの袋を掴み取ると、ナツメはわざとらしくそれを明人に差し出した。


「はあ、疲れた俺にお茶の用意をしろと?」

「そうよ。よろしくね。あ、アトリエまでお茶運んで来てね」 


「はい、はい」


 明人はいつものように投げやりに二回返事をすると、カウンター奥の簡易キッチンに消えた。


「さ、アトリエに行きましょう。努君の分身が今か今かとお待ちかねよ」


 そう言うとナツメは、いきなり努の手を取って、アトリエまで引っ張った。長い付き合いでも、ナツメの手に触れたのはこれが始めてかもしれない。ナツメの手は意外にも冷たくて、本当に血の通った人間なのかと心配になる。でも、若い女性が冷え性なのは良くあることだろうが、ナツメの場合は、やっぱり宇宙人を疑った方がしっくりくる。そんなくだらないことをぼんやり考えながら歩いていると、ナツメがアトリエのドアを開けて、努を中に引き入れた。


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