第2章
2 レシピノート
お菓子作りは幼い頃から見てきている。父親が働く厨房に良く出入りをしては、暇潰しをしていたからだ。両親が共働きという理由で寂しかったというのもあるが、父親が作り出す菓子類に心を奪われていたというのが一番の理由だ。特に努が一番好きなお菓子が、素朴なフランスの焼き菓子だ。マドレーヌ、フィナンシェ、マカロン、ガレッド、クイニイアマン、ブリオッシュなど。定番の焼き菓子達はシンプルで飽きの来ない味をしている。それらは比較的量産するので、幼い努の丁度良いおやつとなることが多く、子どもの頃覚えた味は、今でもずっと忘れることなく、努の舌と心に深く刻まれている。
フランスに留学しようと決めたのは、自分のお菓子作りの才能が、世界でどの程度まで通用するか単純に試してみたかったからだ。それに、あまり良い思い出のない日本を離れたかったというのもある。ゲイである自分は、日本人の、普通ではないものを拒絶する空気に、今まで何度も心を傷つけられてきた。恋愛に於いても、誰かを本気で好きになることを避けていた自分を、変えたいとも思っていたし。
ナツメは、中学生の頃に、唯一自分からゲイだということを告白した貴重な人間だ。ナツメを信頼していたからに他ならないが、ナツメの反応は、「それがどうしたの?」というような実に薄いものだった。努はそれに、どれだけ救われたかしれない。
ナツメとは幼い頃から不思議と相性が良かった。お互いマイペースで干渉しないし、特に、ナツメの感情の起伏のなさが一番落ち着いた。その割に、一緒にいるとそれなりに楽しかったし。ただ、ナツメは確かに幼い頃から変な子だった。ナツメが小学校三年生の時、突然フランスに行くと聞いた時はひどく驚いたが、努は、ナツメが不登校になったことに疑問を感じていなかったから、これは良い機会なのだとそう素直に思えた。
「人間味がない宇宙人」ナツメは陰でそう呼ばれていたらしいが、それには努も納得だった。ナツメはいつも自信なさ気で、無口で、無感情で、どこか心が此処にないような不安定なところがあった。それはナツメの目に顕著に表れていた。ナツメは努と対峙していても、別な何かを見ているような不思議な目をする。それが時に努を不安にさせ、苛立たせた。だが、帰国後のナツメは違っていた。ナツメとは中学校から同じ学校に通い始めたが、フランスから戻って来たナツメは、小学生の頃に感じていた雰囲気とは違っていた。いつも不安定に揺れていた瞳には、僅かに自信が宿っているように感じられ、努のナツメに対する苛立ちは不思議と薄れていった。でも、もちろん幼い頃から知っているナツメであることに変わりはないが、以前のナツメとは違うその瞳に、安堵と喜びを感じつつも、努は何故か少しだけ寂しい気持ちになったのを覚えている。
この間ナツメの店で久しぶりに会った時、努は、ナツメの瞳に更に独特な雰囲気が宿っていることに気づいた。その何でもお見通しのような、うまく感情の読み取れない瞳に、努は以前よりも増して強い寂しさを感じていた。
久し振りに会ったのに、努はナツメを好きなのに、ナツメからは努を安心させるような「好き」という気持ちを瞳から感じられない寂しさ。「俺たちは友達じゃないのか?」なんて、惨めな台詞を言わせないで欲しいと、努はあの時そう感じていた。
努は小学生になってからずっと、自分のオリジナルのお菓子レシピをノートに付けている。毎日欠かさず、思いついたアイデアをノートに付ける。努にとってそのレシピノートは自分の身体の一部だ。自分という人間から生み出された奇跡のような産物だ。それが努に生きる力を与える。ゲイという人生のリスクを、このレシピノートを作ることで乗り越えていると言えるほどに。だが今、努の手元にそれはない。十年以上かけて作り上げたそのノートは、一瞬で努の前から消えたのだ。それがどのように、誰の手によって消えてしまったのかを努は知っている。でも、もうどうすることもできない。もうそのノートは二度と自分の手には戻らないだろうと、努はその事実を絶望と共に受け入れている。でも、心機一転。また新しいレシピを考えればいいだろうと人は簡単に言うだろう。そう。ナツメのように。でも、努は深く傷つき過ぎた。レシピを生み出す情熱を奪われてしまった。心に力が入らず、生きる気力が湧いてこない。ただ、実家に戻って来たのに、何もしないで家にいるのはさすがに申し訳ないと思い、何とか心を奮い立たせながら、父親が作る簡単な焼菓子の手伝いをしているような状態だ。
ナツメの店に持って行った焼き菓子がそれだ。たいして手は込んでないし、思い入れも拘りもない。それなのにナツメはわざとらしく努を「天才」などと言った。努にはナツメの意図がまったく分からない。いきなりあんなヘンテコな店を開き、努の猫を作るなどと言う。確かに昔から変人ではあったが、ここまでやばい奴だとはさすがに思っていなかった。それにナツメは、努に「新しいレシピ」でお菓子を作り、毎日店に届けろとまで言ってきたのだ。その言葉に努は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。確かにナツメは昔からか勘が良いところはあったが、もしかしたらナツメには、すべてを見通す能力があるのではないかと思えて、心底ぞっとしてしまう。
でも、正直努はそんな約束などしたくなかったが、最近のナツメには有無を言わせない迫力が備わっていて、結局ナツメにうまく乗せられてしまい、そんな自分が情けなくて悔しい。
新作菓子など何も頭に浮かんでこない。頭に浮かぶのは、なくなってしまったレシピノートと、彼の柔らかな顔だけ。
努は首を反るようにして頭を振ると、自分の脳裏に浮かんでしまう男の顔を、慌てて掻き消した。
今日も今からナツメの店にお菓子を届けなければならない。以前自分が作って好評だったマカロンを、レシピを思い出しながら作っている。作りながらアイデアが少しだけ閃き、それを施しながら作ったのだから、これは自分にとって新作菓子ではないかと努は思う。だから、忘れないようにその辺にあった紙切れに作り方をメモする。
もう、パティシエをやる気なんかないのにな……。
自然とメモを取る自分はまるで、「お菓子作り」という名の「亡霊」に骨の髄まで取り憑かれているみたいだ。努はそんな自分をひどく冷めた気持ちで見つめた。
マカロンは、見た目はふわっと丸く軽そうなのに、食べるとしっとりとしていて意外と濃厚。そのギャップが魅力的なお菓子だ。外側の生地を食紅で色づけすれば、カラフルでとても可愛い。中身のクリームも好きにアレンジすれば、バリエーション豊富で、作っても食べても楽しい。
努は可愛く焼けたマカロンの艶やかな表面を見ていると、自然と涙が溢れそうになり焦った。心の中で相反する気持ちがぶつかり合っている。それが努を不安定にさせて、涙を滲ませるのだろうか。
努は何かに思い切り縋り付きたい気持ちをぐっと堪えながら、今度は一心不乱に、ボールの中の生クリームを泡立て始めた……。