表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ナツメの猫屋  作者: HIMIKO
6/21

第2章

           1 努

 

 真夏の午後は尋常じゃなく暑い。西日がこのシャ・ノワールにも容赦なく当たり、じりじりと鼻の頭を焦がそうとする。明人はナツメに頼まれて、庭に干してある洗濯物を取り込んでいた。いい年をした男に、若い女性の洗濯物を取り込ませようとする神経が理解できない。明人はナツメの下着からわざと目をそらし、それを洗濯かごにため息と供に投げ入れる。その時、木々に囲まれた店までの一本道に人影が見えた。その、躊躇いなくずんずんと歩いてくる姿にどことなく見覚えがある。 


 明人は眩しさに耐えながら目を凝らしその人影を見つめた。すると、その人影は明人に気づくと、明人めがけて急に走り出した。


「明人さん!」


「うわっ!」


 間近で見て明人は否が応でも気がついた。


「つ、つとむ君じゃないかっ」


「そうだよ。明人さん! うわっ、すごい会いたかったよ」


 俺はべつに。と明人は心の中でそう呟きながら、肩に回された手をさりげなく解かせた。


「ねえ、明人さん、何でこんなところで洗濯物なんかこんでるの? うわっ、ナツメ結構エロい下着つけてんだね」


「み、見るな……そうだ、努君。君は留学中じゃなかったのか?」


「そうだよ。でも、ちょっと色々あってね。日本に戻って来たんだ。ねえ、ナツメはいる? ちょっと今すぐ会いたいんだよね」


「……何故だ?」


「え? ナツメの始めた商売に興味があってさ。明人さん、ナツメにいいように使われてるって話じゃない? ナツメ我儘だからな」


 努は明人の肩をさりげなく触りながら、屈託のない笑顔で笑った。 


 努という青年は、ナツメの幼馴染で、ナツメの家の近くにある洋菓子店の長男坊だ。幼い頃からナツメと仲が良くて、明人がナツメの家に行くと、必ずと言っていいほど、努が遊びに来ていたことを思い出す。丁度、努の家とナツメの家は学区の境目だったため、ナツメと努は同じ小学校ではなかったが、もし同じ小学校だったら、ナツメは不登校にならずに済んだのではないかと、明人は未だにそんな無意味なことを考えてしまう。


 努は、パティシエの修行でフランスに留学しているとナツメから聞いていたが、向こうで何かあったのだろうか。久し振りに会った努は、小柄で華奢だが、精悍な顔立ちは男らしく、見た目はその辺にいる今時の好青年だ。


 明人が努をまじまじと見つめていると、努は丸い瞳を更に丸くさせながら明人を見つめ返した。


「ねえ、明人さん。ナツメからある程度は俺のこと聞いてたりする?」 


「え? 何を?」


 明人は、努の質問の意味を理解できず、そう聞き返した。


「ううん。何でもない。ねえ、ナツメはどこにいる?」


 努は明人から視線を外すと、持っていた紙袋を左右に揺らしながらそう言った。


「ああ。アトリエにいるよ。今日は朝からずっとそこに閉じこもりきりさ」 


「そうか。良かった。あ、これ、後で食べて」


 努はそう言うと、ゆらゆら揺れていた紙袋を明人の前に差し出した。


「ああ。ありがとう」


 明人は紙袋を受け取ると、洗濯かごを抱えて、努をアトリエまで案内した。


 一心不乱とはまさにこんな状態なのだろう。ナツメの後ろ姿から漂う気がそれを表している。迂闊に触わりでもしたら火花が散りそうな勢いだ。本当にナツメの集中力は半端ない。


「会いたかったよ~、ナツメ!」


 感心している明人を余所に、努は何のためらいもなくそう叫びながら、いきなりナツメを後ろから抱きしめた。明人はその馴れ馴れしい努の行動に、咄嗟に不快感を覚えた。


 おいおい、離れろよ、今すぐに!


 しかし、残念ながら努のテンションとは真逆の反応をナツメは示した。明人はそれにとても安堵している自分が嫌で堪らない。明らかに自分の感情が、二人の関係にひどく不安定になっているということを認めることになるからだ。


 ナツメは作業をしていた手を止めると、あからさまに不機嫌そうな態度で努に振り返った。明人はそんなナツメの様子を見ながら、やはり二人はただの幼馴染だと自分に強く言い聞かせた。


「おばさんから聞いたわ。何があったか知らないけど、どうして日本に戻ってきたのよ」


 ナツメは表情を曇らせると、呆れたようにそう言い、椅子からすくっと立ち上った。 


「しょうがない……私についてきて」


 努の返事を待たずにナツメはぴしゃりとそう言うと、すたすたと歩いてアトリエを出ようとする。明人と努はその後を慌ててついて行く。しかし、さっきまで物凄い集中力で「猫」を作っていたのがまるで嘘のような切り替えの早さに、明人は、それがナツメの才能だと理解をしていても、いつまでたっても慣れはしない。


 アトリエの隣にある店内に入ると、ナツメは明人にいつものようにお茶を注文して、自分はカウンター奥のアンティークの椅子に座り、目の前に努を座らせた。それは、明人がよく目にする、ナツメが客からオーダーを取る光景だ。明人は不思議に思いながら奥の簡易キッチンでお茶を入れていると、努が興奮気味に何かをナツメに訴えかえているような声が聞こえて、思わずお茶を入れる手を止めた。


「ナツメはいつだってそうだ! 上から目線で俺を見る!」


 何がどうしてそうなったのか、けんか腰の努に明人は素早くお茶を入れると、さっき努がくれたお菓子とお茶を盆に載せてアトリエまで運んだ。


「どうしたんだ? 幼馴染なんだから喧嘩するなよ」


 明人は穏やかな口調で二人の前にカモミールティーを置いた。


「リラックス効果のあるお茶だ。これでも飲んで落ち着けよ。努君」


 努は憮然とした表情のまま紅茶を乱暴に掴み、ふーふーと息を吹きかけると、一気にそれを飲み干した。


「はぁー、熱い!」


「当たり前だろう。煎れたばかりなんだから。もうちょっと味わって飲んで欲しかったよ」


 明人が呆れながらそう言うと、努は急に笑顔を作り、明人を上目遣いで見つめた。


「明人さん。何か喫茶店のマスターみたい。明人さんみたいなマスターがいたら毎日でも通っちゃう」


「は? そうか?」


 明人は努の言葉に少し違和感を覚えたが、素直に喜びながらそう言った。


「ナツメがさ、フランスに早く帰れって言うんだよ。俺はもうフランスに未練はないから帰らないって言ってるのにさ」


「未練が無いなんて嘘でしょ?」


 ナツメは優雅にカモミールティーを飲みながら、自信満々にそう言い返す。 


「何で分かるんだよ! 何でもお見通しみたいな顔してさ。それが俺は前から気に食わなかったんだ!」


 残念ながらそれは事実だ。 


 明人は心の中で呟く。


「いいから落ち着いて。ほら、あなたが持ってきたお菓子。食べてもいい?」


「え?……ああ、どうぞ」


 努は拍子抜けしたようにナツメをじっと見つめた。


「……うん。おいしい。やっぱりあなた天才よ」


「え?」


 明人は滅多に人を褒めないナツメの言葉に驚きながら、自分も努の作ったお菓子を掴むと、口の中に放り入れた。 


「旨い! 旨いなこれ!」


 何と表現すれば良いのだろう。そのお菓子は口に入れた瞬間、人を幸せな気持ちにさせる味をしている。素朴な焼き菓子だが、バターの風味と甘さが絶妙で、口の中で名残惜しく余韻を残し、もう一つと手を伸ばしたくなる。


「でしょう? 努君はね、根っからの職人なの。私と同じように、心を込めて物が作れる人なの……それなのに」 


 ナツメは悲しげな目をすると、ふっと溜息を一つして、努を正面から見据えた。


「努君。パティシエをやめるなんて言わないでほしいな」


 珍しく下手に出るようなナツメの態度に、努も明人も一瞬たじろぐ。


「そ、それはナツメには関係ないだろう。俺はもう決めたんだから」


「……そう。じゃあ、何で今日はこのお菓子をわざわざ持って私の店に来たの?」


「え? そ、それはナツメの始めた商売に興味があったからで」


「ふーん。そうかな? 私に止めてもらいたいんじゃないの? やめるなって」 


「ち、違う!」


 努は顔を赤らめると、カウンターを両拳で強く叩いた。努という男は、なかなかの激情家であり、今現在かなり情緒不安定な状態にあると、明人は勝手に推察する。


「俺はもうお菓子作りに興味がなくなったんだよ。だからいいんだ。親父の跡継ぎは、妹に婿でも取ってもらえばいいしさ」


 努は吐き捨てるようにそう言うと、勢いよく席を立とうしたが、思い切り膝をぶつけてその場に蹲った。


「いってー」


 そんな様子を冷ややかに見つめるナツメの目を、明人はそわそわと見つめた。


「ちょっと努君。いきなり婿取りの話なんて随分自分勝手過ぎない? まあ、確かに、無事あなたが跡を継いだとしても、次の後継者は難しいかもしれないけどね」


「ナツメ! それは今ここでは関係ないだろ!」


 努は落ち着きなく明人の方をちらちらと伺いながら、そう大きな声で言った。


「そうね。ごめんなさい」


 ナツメは素直に謝ると、努に向き直り、努の目を捉えるようにまっすぐ見つめた。


「努君。ある程度話は聞いてるでしょ? 私が始めた仕事のこと。往生際が悪いわ。早くオーダーしなさいよ。私が作ってあげる。あなたの猫」


「猫?」


「そうよ」


「何で?」


「努君が必要としているからよ……あ、今回は特別に、明日から毎日うちの店に、努君手作りのお菓子を届けてくれるならお代はチャラにしてあげてもいいわよ」


 ナツメは愉快そうにそう言うと、ぽかんとしている努をいつものように透き通るような目でじっと見つめた。


「お、おい! ナツメ」


 明人が心底呆れた様子で、ナツメに「お代をチャラにする」件を問い詰めようとした時、ちょうど努と声が重なり、明人はぐっと言葉を飲み込んだ。


「ふーん。そうか。俺、ナツメの作る猫に興味が湧いてきたな。なんかちょっとぞくぞくするかも……分かったよ。俺の気持ちは変わらないけど、お代をチャラにしてくれんなら、毎日届けてやってもいいよ」


「ありがとう。でも、努君オリジナルの新しいレシピで作ってね」 


 その時、ナツメの言葉に努の顔色が変わった。


「……あ、新しいレシピ?」


「そう。一からちゃんと考えて作るの」


 ナツメは、なんとなく含みのある言い方をするとニコリと笑った。


「何? なんか気になることでもあるの?」

「い、いや、別に」


 誰が見ても狼狽しているのは明らかで、明人はそんな努を不安げに見つめた。


「あ、でも、猫が出来上がるのに一か月かかるの。一か月分のお菓子の材料費って大変よね? もし努君さえ良ければ、明兄の店で、天才パティシエのお菓子って銘打って販売するけど。どう? そしたら、その売り上げの半分を努君へ材料費として支払うわ。それでいいかな?」


 ナツメはこっそりと明人の顔を窺ってくる。「文句ないでしょ?」と言わんばかりに。明人は勝手なナツメに言いたいことが山ほどあるが、いつものようにぐっとその思いを飲み込んだ。


「……材料費なんか別いいよ。ナツメらしくもない。何だよ、天才パティシエって、やめろよそういうの。普通に売ってくれればいいよ」


 躊躇いがちに言う努をよそに、ナツメは「分かった」とにこやかに返事をすると、早速、カウンター奥の棚から、努のイメージに合わせて材料を選び始めた。


 ナツメの行動から明人は、ナツメにしか見えない努の陰りを自分なりに考えてみる。パティシエをやめると言いだしたこと。自分からは言わないが、努がナツメの作る猫を必要としていること。明人はこの店にいると、本当に飽きないとしみじみと感じる。救いを求める人間達が引き寄せられるようにこの店に来るからだ。でも、それではナツメの身が持たないのではないか? こんな精巧な猫のぬいぐるみを、全身全霊を込めてひとりで作るなど、神業に近い。


 以前、ナツメは言った。明人が側にいれば大丈夫だと。その言葉の意味を考えると明人は複雑な気持ちになる。明人には「癒し」の力があると言ったが、そんな自覚はまるでないし、ただ自分に正直に、好きな物だけを一途に追い求め続けていたら、運良く雑貨屋という商売で成功できただけだ。ただ、明人のその取って付けたような能力がもし祖母とナツメが適当にでっち上げたものなら、それでも構わないと思う。否、むしろ、素直じゃないナツメらしい、明人への「助けてほしい」という遠回しな言葉のような気がして、明人はひとりこそばゆい気持ちになるくらいだ。だから、できるだけ時間の許す限り、明人はナツメの側にいてやろうと思う。


「あ、そうだ。努君の親指の爪をちょうだい。今すぐ」


 ナツメは急に振り返ると、唐突にそう言った。


「爪? 何で?」


 努は素っ頓狂な声を上げると、腰を半分浮かした。


「いいから早く。あ、明兄。爪切り持ってきて」


 ナツメは当たり前のように明人を使おうとしたが、明人は呆れた顔をしながら「カウンターの引き出しにいつも入ってるだろう」と投げやりにそう言った。


「あ、そうだった。ごめんなさい。私、明兄を鼻で使う癖が抜けなくて」


 ナツメは愉快そうにそう言うと、引き出しから爪切りを取り出した。そして、おもむろに努の親指の爪を切ると、パチンととても良い音が響いた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ