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ナツメの猫屋  作者: HIMIKO
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第1章

          5 分身


 濡れた体を大きなタオルで包み込んだ美和は、温かい飲み物を片手にソファーに座っている。そして、ゆっくりと視線を動かしながら、ナツメのアトリエをじっくりと観察する。


 部屋の広さは十畳ほどで、割とこぢんまりとしていた。入って左側の壁際に置かれた、今、美和が座っているソファーは、明るいモスグリーンのベルベッド素材で、肘掛け部分は木製だ。その流線形がとても美しく思わず手を伸ばして触りたくなる。そして、そのソファーの正面には、多分、ナツメが使っていると思われる横長の作業机があり、沢山の引き出しの付いた棚や、チューリップハットのような傘のライトスタンドが、橙色の光を放ちながら置かれていた。傘には素敵なバラの刺繍が施されていて、ライトの光によってそれが綺麗に浮かび上がっている。そのアンティーク風なライトはとてもナツメのイメージに合っていて、美和は素直に素敵だと感じた。


 アトリエの全体的な雰囲気は、女性らしいヨーロピアンテイストだが、少女趣味的なものはなく、落ち着いた雰囲気を漂わせる家具や壁紙などは、きっとナツメの趣味なのだろうと、美和は一人納得した。


「こんな時間に、女の子が一人で出歩いちゃ駄目じゃないか」


 美和は困ったように眉根を寄せながらそう言う男をぼんやりと見つめた。男は嫌味なくらい整った顔をしている。多分、大勢の中でこの男を見つけるのは容易いと思う。人の目を強く引きつけるからだ。初めて会った時、絵に描いたようなスマートな男の魅力に、美和も例外なく魅せられた。でも、それ以上に、美和はナツメに強く惹かれた。初めてナツメに会った時の胸の疼きを、今でも有り有りと思い出せる。現に、今、自分をまっすぐ見つめるナツメの目に、美和の心臓は激しく高鳴っている。


「明兄。何もなかったんだから許してあげて。彼女の気持ちを汲んであげましょうよ」


「そうだけど、もし何かあったらって思うとめちゃくちゃ心配じゃないか。ほら、俺は男だから、その、男の立場でだな……こう考えると……ああ! もう、とにかく危険なんだよ。それだけは十分分かって欲しい」


「……ごめんなさい。いてもたってもいられなくて……」


 美和は神妙な顔をすると、二人に頭を下げて謝った。


「ねえ、美和さん。年は離れてるけど、この人は私の従兄で、西野宮明人って言います。私の店のオーナーで、今晩は徹夜で作業をしようとしていた私を子ども扱いして、心配だからって、店に泊まろうとしていたの。でも、やっぱり集中できないから、やめて帰ろうとしていた所にあなたが丁度現れたんです」


 ナツメは心底呆れたように一気に美和に説明をした。その様子はひどく淡々としていて、逆に不自然さを覚えるくらいだと美和は感じた。


「そうなんですか……本当にごめんなさい」


 美和はそう言うと、ソファーから立ち上がり、もう一度深々と頭を下げた。そんな美和を二人は困ったような顔でしばらく見ていたが、ナツメはソファーからおもむろに立ち上がると、作業机に向かい、その下から、ピンク色のリボンが巻かれた、真っ黒い箱を取り出した。


「これが、美和さんが近くにいるって私に教えてくれたんです。早く開けてみてください。美和さんのイメージ通りに仕上がったから」


「え? それ……」


「そう。あなたが早く会いたがっていた物です。ごめんなさいね。私も早く渡したかったんだけど、どうしても時間が必要だったから」


 ナツメは申し訳ないという顔でそう言うと、美和の手を取り、箱を優しく掴ませた。


「あ、開けていいですか?」


「もちろん。それはあなたの物です。……あなたの分身」


「私の分身……」


 美和は箱を見つめながら、心ここにあらずのように呟いた。そして、やや乱暴にリボンをほどくと、ソファーの前に置かれたテーブルに箱を置き、深い息を吐きながらゆっくりとふたを開けた。


「ああ……素敵」


 箱の中身を見るなり、美和は震える声でそう言った。


「これが私のイメージ? 分身?」


 美和はナツメの方を見ると、必死にその問いかけを目で訴えた。


「そうです。私が心を込めて作った、この世にたった一つしかないあなたの分身です」


「ああ……何て素敵なの! 本当に、本当に可愛い……」


 美和は箱の中身を掬い上げると、ゆっくりとそれの腰に手を当て、自分の胸元に優しく押しつけるようにして抱きしめた。それはまるで、本物の猫を抱くような自然な仕草だと美和は思った。


 自分は今本物の猫を抱いている。


 そんな錯覚を覚えてしまほど、腕の中の猫は、本物と見紛うほどの艶のある真っ白な毛並みをしている。肌触りは実物の猫の毛のように柔らかい。美和は鼻で、頬で、唇でその毛の質感を味わいたい衝動に駆られ、思わず自分の顔を猫の頬辺りに埋めた。顔全対を覆う真っ白な毛が心地良くて、何とも言えない良い気分になる。美和は猫の頬から自分の顔を剥がすと、観察するように猫の顔をまじまじと見つめた。


 美和の猫は、可愛いピンク色の鼻先と、グラデーションの綺麗な、淡いブルーの瞳をしている。その瞳はまるで、生気が宿っているかのように熱く潤んでいて、自分を真っ直ぐ見上げてくるその瞳に、美和は思わずハッとしてしまう。


 とても不思議な感覚だった。猫と目を合わすと、まるで何もかもを見透かされているような気分になる。それはナツメの目と似ている。自分が生まれてから今までの人生をぎゅっと凝縮したようなその瞳に、美和の意識は危うく吸い込まれそうになる。


 その時、強烈な睡魔にでも襲われたかのように、美和は突然自分の意識が薄れていくのを感じた。それはまるで、落とし穴に時間を掛けてゆっくりと落ちていくような感覚。言い換えれば、すごくゆっくり走るジェットコースターに乗って、お腹の中をぐるぐると掻き回されているみたいな、とても嫌な感覚。


 しばらくその感覚に耐えていると、何となく、落とし穴の底に辿り着いたように感じた。慌てて辺りを見渡してみるが、美和の周りには霞が掛かっており、目を凝らしても何も見えない。美和は恐る恐る、朦朧とする頭を抱えながら、今自分が居る場所を彷徨ように歩いた。しばらく歩いていると、自分の意識が知らぬ間に過去に遡っていくような不思議な感覚に襲われた。どこか懐かしい、でも、どこか不穏な気分がじわりじわりと腹の中から込み上がって来る。徐々に霞が晴れて行くと、突然目の前に幼い頃の自分が立っていた。このシチュエーションはきっと、自分が、タンスの奥の奥に仕舞い込んでしまいたい記憶に違いないと、美和は直感的に悟った。


 そこにいる美和は多分五歳ぐらいだろう。母親に連れられた幼児教育の塾の一室にいる。塾の先生がフラッシュカードという物を高速で捲り、そのカードに描かれた絵の英単語を子ども達に言わせるという、右脳を鍛えるための教育だ。美和はそれが大嫌いだった。カードを目で追うことに興味が持てず、全く集中ができなくて、いつも他の子が叫ぶ単語の後を追うように、嫌々叫んでいた。母緒はそんな不甲斐ない美和を、いつもとても苛立ちを込めた顔で見つめていた。美和はその顔を思い出すと、今でも内臓に重たい鉛を入れられたような気持ちになる。


 母親はいつも美和の意志を無視した。母親は自分が良いと思うことを、有無を言わせず美和に押しつけた。幼児教室などに行きたくないという美和の意志はいつも母親によって強く踏みにじられ、その傲慢さは何に対しても変わらなかった。


 そう。今までずっと、美和は母親の人形でしかない。まるで母親の怨念に取り憑かれたような重苦しさに、美和は既に限界だったのだ。でも、どうすることもできなかった。今まで、母親に愛されよう認められようと、ひたすら母親の顔色を窺い生きてきた。今、目の前に立つ幼い自分も、怯えた顔をしながら、自信なさげに母親の顔を見つめている。美和はそんな自分の姿が、いじらしくて痛ましくてたまらなくなった。この切ない感情をどうしたら良いか分からず、頭の中が溶けた飴を掻き回すようにぐるぐると回っている。


 そうだ……私がこの子を抱きしめてあげればいい……。


 美和はふとそんな気持ちになった。だから美和は幼い自分に歩み寄ると、包み込むように優しく抱きしめた。その行為はとても客観的だ。まるで自分ではない他の誰かを抱きしめているような感覚がする。でも、そうすることで何もかもがまるで他人事のように感じられる。現実の自分の苦しみなど、初めからなかったように、「無」一色に染め上げられていくような不思議な感覚を覚える。 


 心地よい。とても心が軽くなる。


この感覚を好きだと感じる。自分は今何事にも捕らわれず自由で、空っぽだからだ。


 今なら何となく分かる。母親から受ける重圧や束縛、支配といったエゴイスティックな行為は、本来、自分にはまったく関係のないことだということを。それは母親の問題であって、あの人の心の闇に過ぎず、多分自分は、その闇の受け皿にされていたのだろう。あの人は静かに、私をずっと利用していたのだ。そこには純粋な愛で繋がった親子関係など、見当たらないではないか……。


 ああ、何て悲しい事実なんだろう……。


 でも、不思議だ。こうやって自分を抱きしめていると、私はまっさらな生まれたばかりの自分になれる気がする。そして、上書きするように自分を抱きしめていると、自分はやっと、自分を愛し、受け入れていいのだと、じわりじわりと、そう思えてくる……。


「見つけた、かも……」


 ぼんやりとそう呟く美和の目から、止めどなく涙がこぼれ落ちた。


「そう。見つけたの。やっと美和さんは、自分自身を」


 ナツメがその言葉にすかさず返事をした。


「お、おい、何のことを言ってるんだ? 二人とも」


 明人がふたりを交互に見ながら、困惑気味に問いかけた。


「自分を抱きしめましたか?」


 ナツメは明人の質問を軽く無視すると、確認するように丁寧に美和に尋ねた。


「はい……抱きしめました」


 美和は顔を上げると、瞳を潤ませながら、か細い声でそう言った。


「どんな感じがしましたか?」


「何もない……空っぽな自分になれて、すごく心地よかった……そしたら急に、自分がとても愛おしくなりました」


 美和は自分の状態を素直にナツメに伝えた。


「そうですか……美和さん。今から私の話を良く聞いてください。その猫はあなたの分身です。あなたはその猫を抱きしめて、自分を強く愛してください」


「愛する……」


「そうです。辛く、苦しくなったら、その猫をぎゅっと抱きしめて、何もない世界へ自分を導いてください。たゆたう海の上に身を任せるように、自分を深く愛するんです」


 ナツメの言葉はいつも、水のようにさらさらと美和の体を心地良く流れる。


 美和は、ナツメの言葉の一言、一言が胸に突き刺さり、息をするのもやっとだった。きっと自分は、誰でも良いからこの苦しみに早く気づいてもらいたかったのだ。だから美和から、今までの苦しみの膿を出すかのように、涙が次々と溢れて出てくる。


「美和さんをこんなに泣かせるなんて。その方は本当に罪深い人ですね」


 ナツメが美和を見つめながら核心的な言葉を吐いた。その言葉に明人が素早く反応する。


「お。おい、誰のことを言ってるんだ? ナツメ、いい加減俺にも分かるようにこの状況をちゃんと説明してくれよ」


 困惑と苛立ちを露骨に見せながら、明人はナツメの肩に手を触れた。


「黙って聞いていて。明兄。お願い」


 ナツメはそう言うと、自分の肩に置かれた明人の手の上に、自分の手を優しく乗せた。明人はびくっと体を震わせると、慌てて、ナツメの肩から手をどける。


「美和さんのお母さんは美和さんを見ていない。美和さんを一人の人間として扱わず、まるで人形のように扱っている。自分の理想の女性にどうして美和さんがなってくれないのかという思いに強く執着している。だから、思い通りにならないと悔しくてたまらない。憎らしくてたまらない。どうして私の子はもっと賢くて、もっと人気者で、周りからたくさん羨ましがられるような人間になってくれないのか……。その強い思いはどんどん空回りして、自分に強く跳ね返れば跳ね返るほど、美和さんのお母さんは、嫉妬と嫉みの渦の中で藻掻き苦しむことになる」


 ナツメはまぶたを閉じながらそう一気に言い放った。その様子はまるで何かに取り憑かれているような霊的な雰囲気を感じるが、決して不気味さや恐怖は感じられない。ただ、何と表現すれば良いのか分からないが、ナツメに見つめられると、自分という人間など始めからこの世に存在していなかったかのような錯覚に捕らわれる。それはひどく心地良い無だ。そしてその無は自分に教えてくれる。『さあ、今から生まれ変わるのよ』と。


「ナ、ナツメ? 大丈夫か? お前っ」


 大丈夫ではないのは明人の方に見える。その整った顔であたふたと狼狽する彼の表情には、滑稽さが伴う。


「私はこの店を敢えてコマーシャルしません。道路にある看板のみです。偶然にもこの店の存在に気付き、興味を持った人が私の運命のお客様です。それは私の波長を感じ取り、共鳴した方ということになります。あ、猫好きという要素は外せませんけどね。そんなお客様と対面して、お客様のSOSに耳を傾けながら、私が作る特別な猫を、心を込めて処方します」


「処方……でも、SOSを必要としないお客様は? そういう方にも猫を作ってあげるんですか?」


「もちろん。度合いは違えども、誰しも心に傷を抱えています。私と運命的に惹かれ合ったお客様のために、私は猫を作ります」


 それなら、母親も猫を作ってもらえば良いと美和は思った。この店を母親に紹介し、ナツメに心を込めて猫を作ってもらえばいいと。そうすれば、自分を認めず自分に満足していない空っぽな母親を救えるかもしれない。子どもを使って自分という人間を上書きしようとしている母親。自分の育てた子どもの結果ばかりに目が行き、自己満足の道具として子どもを利用している母親。そんな母親もまた、自分を愛していないのだから……。


 可哀想なお母さん……愛……愛って一体何なんだろう?


 美和はまたどうしようもない不安に足を引っ張られる。愛という形のない曖昧なものに心を乱されてしまう。寂しくて、虚しくて、憂鬱で、自分の存在など何の意味も無いという思いに沈み込んでしまう……。


 気づくと、無意識に美和はまた腕の中の猫を抱きしめていた。心の中に渦巻いている負の感情に負けないよう、強く。


「お母さんは猫、好きですか?」


 美和は急に振られた質問に慌てた。マンション住まいで猫を飼えないが、母親は多分猫を嫌いではない気がする。


「は、はい。多分……好きなんじゃないかと思います」


「そう。それは良かった。お母さんはいずれ、自分の言いなりだった美和さんの変化に気づくはずです。その時が、お母さんが自分を見つめ直すチャンスです。美和さんはさり気なく、私の店をお母さんにアピールしてみてくださいね」


 そう言って微笑むナツメを美和はまじまじと見つめる。その微笑みはまるで天使の様だと思う。そして、そんな人間に美和は今まで一度も会ったことがない。その幸運に美和の胸は熱く震えた。


「あ、あの、どうして分かるんですか? 私の母のこと。そんなに詳しく」


 美和は、ゆっくりとそうナツメに問いかけた。さっきから気になっていたことを思い切って尋ねることに、美和は勇気を出した。


「人の「助けてほしい」という負のテレパシーに、私の全神経がシンクロしてしまうんです。それは、私の頭に、音と映像になって現れます」 

   

 ナツメは落ち着いた声でそう言うと、少し脱力したようにソファーに腰掛けた。


「物心がついた頃からそうでした。幼い私は、自分の頭の中の、人の心の声や映像にいつも翻弄されていました。そのSOSは、時にとても重いものから軽いものまでありますが、やはり重いものには、心がひどく疲弊されてしまうんです。そのせいで、学校生活も上手くいかず、不登校になり、私は自分自身を見失いかけていたんです。ある時私は、その苦しみを祖母に話しました……祖母は静かにこう言いました。フランスで一緒に暮らそうって。このまま日本にいたら、私はダメになるからって……」


「ダメに、なる?」


 明人はそう言うと、目をそれこそ猫のようにまん丸くさせながら、同じく脱力したようにナツメの横に腰掛けた。


「祖母の言葉通り、私はフランスでの生活で自分自身を取り戻しました。異国の地が、私の負のテレパシーへのシンクロ率を下げてくれたというのが大きな理由です。でも、それだけではなく、私は、フランス語の勉強や、祖母に教わりながら手芸をするといった、何かに深く集中することに、とても癒されたんです。その作業が、自分の力を上手にコントロールする術を与えてくれたんです」


 自分のことを語るナツメから目が離せない。幼い頃に受けたであろう心の傷に胸が痛くなる。ナツメの持つ特別な力がナツメ自身を傷付けていたのだと思うと、美和はその力を憎らしいとさえ感じてしまう。


「体調を崩して病院に入院した祖母は、しばらくして自分の余命に薄々気づき始めました。そのタイミングで、祖母は病院のベッドで私にこう言ったんです。『お前は猫屋をやりなさい』って」


「猫、屋?」


 明人がその言葉に素かさず反応した。


「どういう意味か問いかけました。祖母に。祖母は威厳のある声でこう言いました。『お前のその特別に感じやすい力は私と同じだ。だからお前も私と同じように、自分が作る物で、一人でも多くの人を救いなさい』って……」


 明人は怖いくらいにただ一点を見つめ黙り込んでいる。必死に心を落ち着かせながら、この状況を何とか理解しようとしているのかもしれない。


「祖母は言いました。物には魂が宿るって。心を込めて作った料理がおいしいように、心を込めて作った物には魂が宿るんです。仕立屋をしていた祖母は心を込めて洋服を作りました。私は、注文者の人生に添いながら、気持ちを込めて『猫』を作ります。そして、そんな魂が宿った猫を抱きしめると、その人の心に電流が流れます。その電流は、自分を愛するための「きっかけ」です……それが、私の行う救い方なんです」


「……何で、猫なんだ?」


 心底呆れたような声で、明人は未だに一点を見つめながら、独り言のようにそう言った。


「おばあちゃん。猫が大好きだったじゃない。覚えてないの? 明兄」


 明人ははっとしたように顔を上げると、何とも言えないような切なげな表情を浮かべた。


「……ああ……そうだった。そうだったよ」


「そうよ。忘れないであげて」


「……ああ。遠い記憶の彼方に置いてきちゃったな……」


 所在なく顎に手を当てながら俯く明人は、心の準備も無く、いきなり記憶の引き出しを開けさせられたことに、少しだけ動揺しているように見えた。


「おばあちゃん。異常なまでに猫が好きだったから、『作るのは猫にしなさい』って私にそう言ったの。だから特別な理由なんてないのよ。随分自分勝手だと思わない?」


 ナツメは、明人を少しだけ不安そうに伺いながら、首を傾げてそう言った。


「まあな。そんな人だよ。ばあちゃんは。こうと決めたら何が何でも最後まで曲げない頑固者さ……でも、猫好きなんて全国に数えきれないほどいるから、丁度いいのかもな」


 明人は少しやけっぱちにそう言うと、姿勢を正して、ナツメを正面から真剣に見つめた。


「ナツメ……お前今まで凄く辛かったよな? 凄く生きづらかったよな?」


 明人は眉間に皺を寄せながら、心から同情するというようにナツメに尋ねた。そんな明人の様子からは、見た目の軽そうな雰囲気とは違い、意外と素直で純粋な性格なのだということが分かる。更に、明人がナツメをとても愛おしく感じていることにも、同時に気づくことができた。


「そうよ。だから私には明兄が必要なの」


「……は?」


「おばあちゃん何度も言ってたわ。何かあったら明人を頼りなさいって。……ねえ、それらしいことおばあちゃんに言われてない?」


 明人は目をぱちぱちと瞬かせると、またひとつ記憶の引き出しを開けたのか、急に奇妙な顔をした。


「……そうだよ。死ぬ間際に俺にそう言ったよ。『ナツメを守るのよ』って。最初は何のことか意味が分からなかったんだ。でも、ナツメが異様に手先が器用なのを知ってからは、俺なりにばあさんの言うことに納得してたけど……まさか、そういうことだったとは思いもしなかったな……」


「そうよ。だっておばあちゃん。明兄にも特別な力があるって言ってたもの。癒しの力があるって。雑貨を扱う会社を立ち上げたのにもちゃんと意味があるの。明兄が選んだ雑貨達は、たくさんの人間たちを癒してるのよ」


「癒し? この特殊能力は隔世遺伝なのか? でも、俺の能力なんて二人のに比べたら、たいしたことないな。別にいいぞ。気を使わなくて。そんな取ってつけたような才能なんて、わざわざいらないし」


 明人はソファーからゆっくり立ち上がると、中腰の状態でそう言った。


「そんなことない。明兄は私にとって大切な癒しなの。必要不可欠なの」


「何だそれ……」


 明人はそのまま立ち上がると、落ち着き無くソファーから立ったり座ったりした。


「つまり、何か? ナツメがこの仕事を続けていくには俺が必要というわけなのか?」


「そうよ。さっきそう言ったじゃない」


 ナツメは呆れたように滑舌良くそう言った。


「じゃあ俺は、具体的に何をすればいいんだ?」


 明人は困ったような顔をしながらナツメを見つめ、弱々しくそう言った。


「ただ側にいてくれるだけでいいの。離れずに、ずうっと……」


 ナツメのそのまっすぐな言葉に、明人の顔がみるみる赤くなるのを美和は見逃さなかった。


「だからこれからもよろしくね」


 ナツメは少しだけ毒のあるような言い方をして軽く微笑むと、「美和さんを送ってあげてちょうだい」と、まだ顔の赤い明人を鼻で使うのだった。









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