第1章
4 美和
どうしてもバイトがしたかった。
美和は、高校で禁止されているアルバイトをこっそり一月だけと決めて実行に移した。
自分が唯一頼れる、父方の叔母が経営する花屋で、週二日、学校が終わってから二・三時間程度、切り花や鉢花のメンテナンスや店の掃除などを行う。
花を扱う仕事は楽しい。自分は花が好きなのかもしれないと、美和は最近気づき始めていた。自分が何を好きか、何を楽しいと思うかが今までよく分からなかった。でも、このアルバイトを始めて、自分はこの仕事が楽しい。好きだと素直に思うことができる。その変化が美和の胸を熱くした。
花屋は、美和の家と学校から電車で三、四十分程離れた所にあるため、知り合いに会うことも、自分の夫の家族とは積極的に付き合おうとはしない母親と会うことも、まずないだろうと予測していた。
このままばれずに順調に行くと思っていた。叔母には、家族や学校には内緒にしておいてほしいと話していたし、接客などの目立つ仕事は避けていたので、まずばれることはないだろうと高を括っていた。しかし、アルバイトを始めて二週間が過ぎた頃、美和は、担任にいきなり職員室に呼び出された。
嫌な予感は的中だった。同級生が密告したのだ。同級生の母親がたまたま叔母の店に訪れて花を買った。その時、美和の顔を覚えていた母親が、アルバイトをしている子がいると娘に話をしたという、ただそれだけのこと。本当に良くある話だ。
もちろんそのまま親を呼び出されて、アルバイトをしていたことが簡単にばれてしまった。
一週間の自宅謹慎程度で免れたが、今度同じようなことをしたら退学だと言われた。高校に通う美和への親の期待は大きい。特に母親はバイトのことでヒステリックに美和を責めた。一週間、美和が部屋から出ないよう監視し、スマホも取り上げた。美和は完全に自由を奪われた。でも、美和には今どうしても我慢できないことがあった。バイトをした理由もそれに繋がっている。
一ヶ月経った。そろそろスマホに連絡が来るはずなのに。
美和はいてもたってもいられなかった。早くそれが手元に届くことを夢見ていたから。一週間という、さほど長くはない謹慎期間でも、美和はこの部屋でじっとおとなしく母親の言いなりでいることがこの上なく理不尽でたまらなかった。だから、行動を起こそうと決めた。今夜、こっそり抜けだして、あの店に行こうと。
夜中に店を開けてもらうなど、あり得ないくらい非常識なのは十分分かっている。でも、あの人なら自分のこの気持ちを理解してくれるのではないかと、美和は何故だか自信を持ってそう思えた。
あの人の目は不思議だ。あの綺麗に磨かれたガラス玉のような瞳に見つめられると、自分の全てを写し取られてしまうような気持ちになる。心の奥深くに押し込んでしまった自分という存在を、白日の下に晒けだされるような心許なさを感じる。でも、不思議とそれは、不快ではない。
何故だろう? 本当に不思議だな。
美和は両親の就寝時間が既に過ぎていることを確認すると、マンションの鍵を掴み、こっそりと家を抜け出した。
外に出ると五月の夜風は少し肌寒かった。今日一日が憂鬱な曇り空だったせいだろう。
美和は自転車に跨がると、二駅分離れた
「シャ・ノワール」まで自転車を漕いだ。このまま飛ばせば、片道二十分ぐらいで着くと予想して。
自宅から店が近いことを本当に奇跡だと美和は思っている。多分、このことはずっと前から決められていた運命に違いない。この店の存在を知った時、目の前で青い炎が「ばちっ」と弾け、美和に合図を送ったのだから。その時の驚きと胸の高鳴りを、美和は多分一生忘れないだろう。
商店街を走り抜けて住宅街に入ると、誰一人として歩いていない寂しい道に変わる。分かってはいたが、街灯の間隔が急に広くなり、薄暗さが増すと、美和の心はだんだんと不安に包まれていく。それに、住宅と店を兼用しているかどうかも確認しないまま、ただ、早くに手に入れたいという衝動だけでここまで来てしまった自分の愚かさに、美和は今頃になって泣きたいような気持ちになった。
もうちょっと我慢すればいいだけなのに。何やってるんだろう。
美和はそんな弱音を心の中で呟く。
しばらく走ると、小高い丘に繋がる坂道の入り口にたどり着いた。美和は、とにかくここまで来たからにはダメ元で店の側まで行ってみようと決心し、坂道を立ち漕ぎで上り始めた。しかし、周りの景色がつい目に入ってしまい、真夜中の雑木林から漂う不気味さに美和の鼓動は早くなる。それでも、太ももとふくらはぎに掛かる負荷に耐えながら自転車を漕ぎ続け、何とか坂道を上り上げた。
店の近くまで来ると、美和は、不思議とさっきまで感じていた不安や後悔が薄れていくのを感じた。この店の半径数十メートル以内に入っただけで訳も無く気分が高まるからだ。でも、美和はやはり、想像していた通りの光景に打ちのめされることになる。
腕時計の針はちょうど午前零時を指していた。この時間に店が開いているなど、絶対にあるわけがないことをもちろん美和は分かっている。でも、もしかしたらという僅かな可能性に賭けてしまう自分をどうしても抑えられなかった。あの人は店のアトリエに籠もり、夜中まで作業をしているかもしれない。などという妄想を美和は自分勝手に描いていた。でも、その妄想は現実にはならなかった。目の前の店は暗く閉ざされ。美和を受け入れようとはしないからだ。そして、まるで追い打ちを掛けるようにぽつりぽつりと雨が降ってきた。雨足は徐々に強くなり、呆然とその場に立ち尽くしていた美和の体は一瞬でびしょ濡れになった。取り敢えずきょろきょろと辺りを窺い、雨宿りできそうな場所を探した。そして、絶望と共に店の軒下に体を滑り込ませると、ドアの前に膝を抱えて座り込んだ。
今度は本当に涙が溢れて止まらなかった。自分の意味不明な行動に我ながら心底呆れ、ひどく惨めな気分になる。自分をここまで駆り立てる、あの人の作る「物」の力とは一体何なのだろうか? 美和は、自分を乱すその「物」をとても憎らしいと感じた。自分など、生きる理由も、この世に存在する理由もない、本当にどうでもいい人間なんだという感情を誘発するからだ。
美和は傷付いた心で、雨と涙でぐちゃぐちゃになった顔を投げやりに拭い、そのまま膝に突っ伏した。その時、
「ああ、やっぱり」
雨音の中から、柔らかな声が美和の耳を捕らえた。
「え?」
美和は慌てて頭を上げた。
「気のせいじゃなかったのね。ちゃんと私に教えてくれたんだわ。こんなに濡れちゃって。……さあ、早く中に入ってください」
そっと背後から肩に手を添えられ、美和の体は驚きでびくっと跳ねた。
「ナ、ナツメさん?」
「スマホに何度もかけたのに繋がらないから、おかしいと思ったの。何かあったって感じ有り有りですね」
美和は、ナツメの顔を見ると、堰を切ったように声を上げて泣いた。まるで赤子に戻ったかのように、美和はナツメの両手を離さないとばかりに強く握りながら、口を大きく開けて泣いた。