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ナツメの猫屋  作者: HIMIKO
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第4章

          7 後悔


 あの面談以来、道隆は自分が教師としてどう行動をすべきか、本当におかしなぐらい分からないでいる。不安や恐怖に足踏みし、まるで秒針の止まった時計のように、前に進みたくても進めない状態にいるのだ。そして何より、僅かにあった教師としての自信やプライドを、道隆は今完全に見失っている。どこを探しても見つからないのだ。本当に苦しいほど見つからない。 


 冬休み明けの三学期の初日に、道隆は布団から出られず仕事を休んだ。しかも休み初めてから既に三日が過ぎてしまった。以前の自分なら、仕事を休むと校長に伝えることはひどく緊張したが、この三日間は何の躊躇いもなく抑揚もなく伝えることができた。この感じだと、明日も明後日も休むと伝えることは余裕そうだ。そう思いながら、道隆はスマホの画面をぼんやりとスクロールする。もう何時間もそうしている。


 スクロールという行為が、現代人の病の象徴のような気がしてしょうがない。自分たちは、スマホの画面をクルクルと高速で動かしながら、情報過多の海を、まるで魚のように悠々と泳いでいるような気分でいるのかもしれない。でも、本当は泳げば泳ぐほど、満たされない虚しさに溺れそうになっている。それでも心を満たすために、スマホという膨大な情報の海に容易く依存しようとする。自分が情報の海の中毒者になっていることも知らずに。否、むしろ、自分を誤魔化しながら、ただ都合よくその事実に気づかない振りをしているのかもしれない。そんな生徒たちの姿が目に浮かぶ。自分の部屋で寝ころびながらいつまでもスマホをクルクルといじる姿が。親に叱られてもスマホを手放すことができず、ただただスマホの世界と繋がり続ける姿が。


 でも、今の自分も同じだ。そのことに気付くと、道隆は心の底からゾッとする。教師として生徒を導く立場にいる自分がこんな状態では、益々、自分の生きる道が解けぬぐらい絡まり合ってしまいそうで怖くなる。


 体勢を変えようと寝返りを打とうとした時、道隆のスマホが鳴った。音量を大きくしていたせいで、驚いてスマホを枕の脇に落とした。道隆は慌ててそれを拾い上げながら上半身を起こす。 


「もしもし」


 電話の相手に道隆はいつもより半音高くそう言った。決して忘れていたわけではない。ただ、彼女から電話が来るのが怖かった。自分の猫が欲しいと思っていたあの頃の気持ちに上手く戻れないからだ。


「山本さん。突然ですが今日お時間ありますか?」


「え? あ、ああ、実は俺、一昨日から仕事を休んでま、して……」


「あら、ご病気ですか?」


「い、いや……そうではないんですが、ちょっと色々と……」


「大変ですね。でしたら、今から気晴らしに私の店にいらしてください。山本さんの猫ができましたから」


「え? い、今からですか?」


「ええ。そうです。どうぞお気をつけてお越しくださいね」


 ナツメはそう言うと、道隆の返事を待たずいきなり電話を切った。道隆は重い腰をゆっくりと上げると、ナツメの店へ行く準備を憂鬱な気分で始めた。


 少し強引で有無を言わせない迫力がナツメにはある。それを魅力的と捉えるか生意気と捉えるかは個人の感覚だが、道隆は前者だ。外見の可愛さもあるが、凜とした佇まいには気品があり、行動一つ一つには、意志の強さを示すような自信が伴っている。ナツメに出会う人間達は、そんなナツメに対し嫉妬するか崇拝するかのどちらかではないかと、道隆は、大きな箱を持ち目の前に立っているナツメを見つめながら思う。 


「いらっしゃい。山本さん。お待ちしていました」


 ナツメはゆっくり道隆に近づくと、そう言っていきなり持っている箱を道隆の前に突き出した。


「はい。これ」


「え?」


「猫ですよ。山本さんの……まさか、今更要らないなんて言わないですよね?」


 ナツメはやや意地悪気な表情で微笑むと、道隆の胸に箱の側面を押し付けた。


「え? い、いや、忘れてなんかいません。ただ、最近色々あって、初めてこの店に来た時の自分の気持ちが思い出せないみたいで、少し戸惑っているだけです」


「そうですか。やっぱり、先生っていう職業は、私の想像を超えて大変なんでしょうね」


「い、いや……そこまででは……」


 道隆はその先の言葉に詰まる。何故詰まるのか。大変だというのは事実だ。でも、その大変さを乗り超えることができない自分自身に失望し、今、仕事を休んでこの店にいる自分が、余りにも惨めで情けないからだ。


「じゃあ、この箱の中身と対面すれば、山本さんの気持ちも少しは軽くなるんじゃないかしら。早く開けてって言ってますよ。山本さんの猫が……」


 ナツメは黒く澄んだ目で道隆を見つめる。まるで催眠術でもかけられたみたいに、道隆は素直に箱を掴むと、箱に付いたリボンを勢い良く解いた。でも、解き方が下手で、リボンは箱の蓋を絡め取りそれを床に落とした。


「うわっ」


 道隆は箱の中身に目をやると、驚きのあまり声が出た。


「こ、これ……ほ、本物?」


 余りにも精巧な箱の中の猫に、道隆の背筋は凍った。これが本物でないのなら、ナツメの技術とは一体どれ程のものなのか。想像を遥かに超えるクオリティーに、道隆は呆然と箱の中を見つめた。


「早く抱きしめてあげてください」


「え?」


「その仔が待っています。山本さんのことを」


 道隆は箱を床に置くと、恐る恐る手を入れ自分の猫だというイミテーションをゆっくりと持ち上げた。


 猫は白と黒の斑模様をしていた。お腹の辺りの毛が薄くうっすらピンク色をしているのがとてもリアルだ。牛を思わせるその模様に何故か親近感を覚える。道隆はそっと自分の猫を抱きかかえると、毛並みが本物以上に柔らかく滑らかで、指の間をそれが心地よく刺激してくることに益々驚く。道隆は思わず、いつも飼い猫にするみたいに、自分の顔を猫の頬に近づけ、その毛並みを鼻先で感じたくなった。その時、ほんのりシルバーが混ざる薄紫色の瞳に、自然と目が行く。


「綺麗な、瞳ですね……ああ、何か……なんだろ……う」


 道隆は自分の声を遠くで聞いているような感覚に戸惑う。自分は今ナツメの店にいて、ほんの数秒前までナツメの作った猫を抱きしめていたはずなのに、この突然の朦朧とした感覚は何だろう。頭と足元が同時にグラグラと眩暈のように回転し、自分の意識がじわじわと奪い取られていく。そう、これは悪夢に似ている。不快な気持ちに抗いたいのに、全く体が言うことを聞かないところが。心臓にべったり黒い油を塗り手繰られているような、ひどく不安でひどく嫌な気分が……。


 その時、自分の足が地面に着いていないことを知る。自分は今空気の抜けた風船にでも吊るされているみたいに、ゆらゆらと下に下にと落ちて行く。ふっと着地した感覚を覚えた時、何故か今度はふらふらとおぼつかない足取りで、道隆は良く分からない場所を宛もなく歩いている。自分は今どこにいるのか。どうしてこんな状況になっているのか。不安な気持ちは道隆の中で膨れ上がるが、多分これは夢なのだから、何も怖いことはないとそう自分に言い聞かせるが、なかなかうまく行かない。


 しばらく歩き続けていると、漂う空気が、何となく自分が今まで経験してきた雰囲気に変わり始めていることに気付く。それがいつの時期で、どんな場所なのかということが徐々に分かっていくと、道隆の体は、心臓に塗りたぐられた黒い油が、口元まで這い上がってくるような気持ち悪さに支配される。 


 ああ……。


 この雰囲気は嫌でも忘れられない。自分の人生の中で必要以上に自意識が高くて、無駄に多感な頃。記憶は曖昧なはずなのに、この頃感じた自分の感情は、否が応でも深く心に刻まれてしまい忘れることができない。時々思い出すと、強い怒りにも似た感情で、胸の奥を強く掻きむしりたくなる。


 あの頃の自分の定位置は、教室の窓際の一番後ろの席だった。自分は何故か、今そこに座らせられている。心と体がバラバラになったみたいに体を動かすことができず、ただの木の棒みたいにぼんやりと座っている。


 教室を見渡すと、たくさんの種類の生徒がいた。おとなしい子。真面目な子。不真面目な子。落ち着きなくいつも騒いでいる子。誰とも触れ合わず自分の世界にひたすら身を隠す孤独な子。自分はどれだったろう。あの頃の自分は、勉強もでき、見た目も良く清潔感があった。思春期の男子にしては肌が綺麗だったので、それが密かに自慢だった。何でもそつなくこなし、自分に自信があったから、友達も多かったし、女子にもそれなりにもてた。もちろん陰ながら努力はしていた。勉強は時間を決め毎日行っていたし、見た目にも気を遣った。誰にでも公平に接し、親切心を持って同級生たちと付き合った。そんな完璧な自分が自分は好きだったし、毎日が気分が良くご機嫌だった。……そう、あの事件が起きるまでは。


 高校二年の二学期に、転校生が来た。その生徒は体が小さくずんぐりむっくりとした体形で、マスコットキャラ的な存在感を放っていた男子生徒だった。何となく人を引き付ける魅力があり、変にちょっかいを出したくなる可愛いさがあった。


 道隆はすぐにその生徒と仲良くなった。自分が今まで付き合ってきた友達にはいないタイプで、単純に興味を引かれたというのが理由だった。


 その男子生徒は見た目とは似つかわしく、ピアノがとても得意だった。絶対音感があり、耳で聞いたメロディーを簡単にピアノで表現することができた。道隆は芸術的な才能など皆無だったから、彼のその類まれな才能に羨ましさを覚えた。言葉では上手く言えないが、彼には自分に絶対的な自信を持っているように見えた。自分の見た目の残念さとか、勉強が余り得意でない所とか、そういったマイナス面には目もくれず、自分の音楽の才能への自信だけて楽しく生きているようなところがあった。道隆はそれがとても憎らしかった。それに拍車を掛けたのが、道隆が密かに思いを寄せていたクラスの同級生の女子の行動だった。彼女も実はピアノが好きだった。できれば音楽の道に進みたいぐらいの強い思いを秘めていた。彼女にとって彼の出現は晴天の霹靂だったのかもしれない。彼の才能を目の当たりにした時の、彼女の顔を道隆は忘れることができない。彼女は道隆と同じペースで彼とすぐ仲良くなった。高校生の頃の幼稚な恋愛感情など超えた、それ以上のもっと崇高でもっと盲目的な感情を、彼女は彼に抱いていたと思う。


 自分は人間の持つ感情の中で、一番嫉妬という感情が嫌いだ。自分にはそんな悪しき感情はないと信じていたから、そんな感情を持つ人間を密かに軽蔑していた。


 あの頃の自分は何を根拠にそんな自信を持っていたのだろう。様々な苦行を積んでもなお、聖人君子であるというのなら話は分かるが、高校生のまだ子供の分際で、自分はまるで悟りでも開いたかのように、自分だけは常に心穏やかに、平常心を保ちながら生きていけると信じていた。そう思えたのは多分、偶然に恵まれた環境と生まれつき持ち合わせた資質のおかげで、高校二年生まで、大きな挫折を味わうことなく、自分を嫌いになるような事件もなく過ごせてきたからだ。


 彼女が彼に抱く感情に対し、自分は徐々にどす黒いモヤモヤした思いを抱くようになった。二人が楽しそうに話しているのを見ると、何かしら自分に興味を向けてもらえるよう邪魔に入った。ピアノや音楽とは関係ない、自分にしか知らない知識をわざと彼にひけらかしながら、無知な彼を上手にからかった。そしてそれは、あからさまないじめという形ではなく、愛のある軽い「いじり」のようなスタンスでやるように心掛けた。これは決して悪いことではない。いじめなどという下等な人間がする醜い行為とは違い、高等なコミュニュケーションのひとつなのだと思い込みながら、道隆は彼をいじり続けた。彼はいつもにこにこと笑顔を作り道隆に対応した。傍から見たら仲の良い二人に見えただろう。おかしな話だが、自分でも仲が良いと錯覚していた。彼の反応には自分に対する好意のようなものを感じていたからだ。


 ある日の放課後、いつものように教室の片隅で楽しそうに話す二人に近づき、道隆は自分の好きな小説のジャンルについて話を振った。推理小説が好きだった道隆は、彼にどんな小説が好きかと尋ねた。彼は、小説は読まないと言った。ピアノ以外に興味はないときっぱりと言い切るその淀みない瞳に、道隆は強い苛立ちを覚えた。道隆は本も読まないのかとわざとらしく驚いて見せた。道隆は推理小説が好きだったから、自分の好きな作家のトリックの内容を彼に話して聞かせ、そのトリックの巧妙さに対する感想を彼に求めた。彼はいつものようにニコニコと笑顔を浮かべながら、自分の語彙力の無さに苦戦しながらも、何とか感想を伝えようとした。その間彼女は、苦戦する彼を気の毒に思ったのか、彼のフォローを始めた。その行為が道隆のいじりを更にヒートアップさせる。 


 ああ。だめだ。やめろ。それ以上はやめろ!


 道隆は自分の後姿に対し喉が焼けるほど叫んだ。ひどい後悔で心が潰れてしまいそうになる。


 道隆はまるで先生が小学生にでも言うように、彼の言葉をわざと語尾を伸ばすように反芻した。僕は、僕はー? そのトリックは、そのトリックはー? みたいに。そうすることがとても自分ではイカしているという高揚感に支配されていたからだ。 


 そんな愚かな自分を見て、道隆の心臓は急速に収縮を始める。このまま息の根が止まってしまうほどの胸の痛みに耐えながら、それでも自分を止めたくて、道隆は自分を背後から強く抱きしめると、「お願いだからやめてくれ!」と懇願する。


 でもこれは夢だから、多分夢だから、自分の思い通りになんてならないだろう。愚かな高校生の自分は、未だに嫉妬に支配された頭で彼を高揚しながらからかっているのだから。


 突然彼が苦しそうに小刻みに呼吸をし始めた。見る見るうちに青ざめていく彼の顔に、道隆は猛烈な焦りを覚えた。


 彼は、はっはっと息を吐きながら、苦しそうに喉元を押さえている。呼吸をしたいのに上手くできない状態に、自分でもパニックになっているようだった。


 救急車を呼ぶために、彼女が血相を変えて職員室へ駆けていく。道隆はどうすることもできず、ただぼーっとそこに突っ立っている。


 どうしよう。死んじゃったら。俺のせいだ……俺のせいだ……。


 絶望的な気持ちで道隆は床にしゃがみ込む。その間に彼は救急車に運ばれていく。道隆は彼女に手を引かれ一緒に救急車に乗り込む。こんな状況になったことを一番よく分かっている二人だからという理由で。道隆は亡霊のように高校生の自分自身の後をついていく。ふらふらと今にも消えてなくなりそうなほど、薄っぺらな自分は、もっと薄っぺらい自分のあとを追って行く。病院の待合室で、彼女と二人きりになった時、道隆はペラペラな自分の隣に寄り添うように腰かけた。高校生の自分はずっと俯いたまま病院の床を見つめている。


 そんな自分に彼女は言った。『これはいじめだ』と。


 ち、違う! 違う! 違う! これはいじめなんかじゃない! だって彼は俺のことを好きなはずだ。いつだってにこにこと楽しそうに俺と話していたじゃないか!


 自分はその時、彼女の言葉を素直に受け入れる勇気などなかった。認めてしまったら、自分という人間が根元からガラガラと崩れてしまうから。その恐怖に立ち向かう勇気など、あの頃の自分は持っていなかった。 


 待合室に彼の両親が来た。彼は心因性の過呼吸を発症し、落ち着くまでしばらく入院ということだった。心から安堵した道隆と彼女は、もう一度深々と椅子に腰かけた。共にしばらく無言のままじっとしていたが、緊張が解けた瞬間、お互い声を上げながらおいおいと泣いた。


 嗚咽が静まったころ彼女は自分に言った。


『自分ではそのつもりは無くても、繊細な人は、その何倍も敏感に相手の悪意みたいなものを感じ取る。だからもう二度とこんなことはしないで。あなたはこんなことをする人じゃない」と。


 自分はその言葉にどれだけ救われただろう。こんな最低な人間でも見捨てなかった彼女の言葉にどれだけ勇気を貰っただろう。時が経ち、今、忘れかけていたあの時の記憶が痛いほど胸に響き、息がうまくできない。


『あなたはこんなことをする人じゃない』その言葉を、道隆は頭の中で何度も反芻する。


 自分は、死ぬまで己を戒めながら生きて行こうと強く心に誓っていた。教師になろうとしたのは、自分のような過ちを子供たちにしてほしくなかったからだ。自分をわざと思い出したくもない学校という場所に閉じ込め、そこでもがくことを選んだ。なのに、教師という仕事は自分の想像以上に過酷で、何よりも、生徒同士のトラブルがあるたび、ひどく自信を失くし、足元がグラついた。正面から問題に直視できず、心の半分は逃げてしまっていた。自分は教師になることで、自分の犯した過ちを上書きできるとそう信じて頑張ってきたのに、自分の意志は脆くも崩れてしまっていた。


 一度も過ちを経験しない人間などいない。その過ちを受け入れ省みながら人は成長するのだから。だからこそ自分は、自分なりに後悔を乗り越え、強く成長できるつもりでいた。でも、実はそうではなかったのだ。やっぱり心のどこかで、自分を許せず、愛せないでいた。自分を愛せない人間が生徒を愛せるだろうか? 答えはひどく簡単だ。そんな当たり前のことに今頃気づくなんて……。


 道隆は隣に座る自分自身の体を拳で叩いた。バカ野郎と罵りながら何度も。不思議なのだがそうすることで、あの時の愚かな自分を受け入れる自信が、じわじわと心の奥から芽生えていく感覚に包まれる。道隆は泣きながら自分自身の腕をしばらく叩いた。


 痛いだろう。でも、その何倍も彼は痛かったんだ……。


 彼はしばらく入院していたが、退院すると同時にまた転校してしまった。だから自分は彼に病院で謝罪をした後、結局彼との関係を修復できぬまま別れてしまった。彼女とは、あの後自分から避けるような行動を取ってしまい、自然と疎遠になってしまった。


 二人は今どうしてるだろう……ピアノを続けてるかな?……そうであってほしいな……。


 その時、偶然にもどこからともなくピアノの音色が聞こえてきた。クラシック? ジャズ? 詳しくはないけどとても耳に心地いい……そのせいで、余計に涙が溢れてくる……。 


「……山、本さ……ん……山本さん……」

「は? んっ?」


 道隆は自分を揺さぶる声に驚き、慌てて頭を起こした。そのせいで、頬に伝う涙と一緒に、白黒の斑猫が床へと落ちた。道隆は慌ててそれを抱き上げる。


 そうだ。この猫を抱きしめていたら、俺は急に意識を無くしたんだ……。

 

 道隆はぼんやりする頭で辺りをきょろきょろと伺うと、そこにはナツメが静かに立っていた。


「おかえりなさい。山本さん。無事戻って来られましたね」


 ナツメは少し眉根を下げ、安堵のような表情を浮かべながら道隆にそう言った。 


「こ、これは何ですか? 夢ですか? 俺は何を見ていたんでしょうか?……あ、ま、待って、ピアノの音? これ、どこから聞こえて……」


 道隆はピアノの音に素早く反応した。このメロディーはさっき夢のような世界で聞いたメロディーと一緒だ。


 店内に美しいピアノの音色が響いている。ナツメが店にあるステレオでCDを流しているようだった。その切ないメロディーに、また道隆の涙腺が緩んだ。


「これは、山本さんの良く知るお二人が作曲したCDです。インディーズレーベルですが、とても人気があるんですよ」


「え? 待って……二人って、まさか……」


「ええ。二人は今音楽家として活動しています。連弾ピアノドュオとしてかなり有名ですよ。だからもう山本さんが気を病む必要などないんです。山本さんは十分に苦しまれましたから」


「……え? どういうこと? 二人を何で知って……え? ナツメさんてまさか、物を見通す力みたいなものがあるの? じゃ、じゃあ、俺のこと、どこまで……」


「私には特別な力があります。私は依頼者を見つめることで、依頼者の苦しみや悲しみを自分のことのように受け取ることができます。その感情とシンクロしながら、依頼者の体の一部である髪の毛や爪を介して、依頼者の猫を、心を込めて作るんです」


「そ、そんなことって……」


 事も無げに言うナツメが道隆には信じられない。道隆は、混乱する頭を何とか深呼吸で整える。その時、抱きしめている猫から、まるで、水が水脈を流れるように、自分の体をぐんぐんと潤していくような感覚を覚えた。その水の正体が徐々に分かっていくと、道隆の足元は、空気の抜けた風船のように力が抜けていく。


「こ、この猫は一体、何なんですか? 何か特別な……」


 言葉が続かない。心をいっぱいに満たす水のせいで、胸が詰まって上手く話せない。


「はい。その猫は山本さんの分身です。山本さんはその猫を抱きしめて、自分を強く愛してください。ぎゅうっと抱きしめて、心を無にするんです。だって、そうすることが山本さんには必要です。山本さんはこれから、先生という大役を担っていく大切な方ですから」


 ナツメは真剣な顔で、かわいらしく猫を抱く仕草をして見せた。


「お、俺は正直、大切なんて、そんなこと言ってもらえるような人間じゃありませんよ」


「いいえ。前にも言いましたが、先生という職業程すばらしいものはないんです。山本さんは自分を愛するように生徒をたくさん愛してあげてください。でも、確かに色んな生徒がいますよね。皆を平等に愛するなんて、神様でも無理です。だから決して無理はしないでください。ただ、生徒からのSОSだけは見逃さず受け止めてあげてください。その尊い行為は、先生という職業に与えられた素晴らしい特権です」


 西野の顔が頭に浮かぶ。彼女の気持ちを踏みにじってしまったことが、今更ながらに苦しくてたまらない。


「もし、山本さんが生徒のことで悩んでいるのだとしたら、大丈夫です。山本さん自身が自分を愛し大切にできたなら、もう何も悩むことはありません。今まで閉ざしていた心を開放し、生徒との関わりを自分のペースで深めていけばいいんです。先生って本当に激務みたいですから、要領良くやるのも必要です。大丈夫です。恐れないでください。その猫がいつでも山本さんの味方になってくれますよ」


「あ、はは……ナツメさんには何でもお見通しなんですね……す、すごいな」 


 道隆は目の前の人間をしみじみと見つめた。ついに自分は、自分の計り知れない世界がこの世に存在することを目の当たりにしてしまった。それも、こんな華奢で可愛らしい女性を通して。これは本当に現実なのだろうか。まだ続く悪夢の一片なのではないか。ふとそんな思いに捕らわれた時、道隆は手に持っている自分の猫だという斑猫を見つめた。白と黒。表と裏。明と暗。まるで自分のことを暗示しているような姿にはっとする。

そうか、自分自身を丸ごと抱きしめろってことか……。


 道隆は涙で滲む目を強引に剥くと、自分の猫を強く見つめた。これは自分の分身であるということ。自分は自分を強く愛していいのだということを、道隆は強く心に刻む。


「ああ、何だか、夢を見ているみたいだ……でも、今すごく、心が満たされています」


「ええ。そうです。それでいいんです」


 ナツメは道隆の方に向けて一歩前に進むと、とてもやさしい笑顔でそう言った。


「あ、そうだ、このCDなんですが、私がご本人達から頂いたんです。山本さんにもあげてくださいってもう一枚頂きました。帰りに持って帰ってくださいね。お二人とも山本さんに会いたがってましたよ。あ、連絡先も教えますね」


 まるで鳥の囀りのようにナツメはそう言った。とても嬉しそうに、とても楽しそうに。


「ははっ……はい。ありがとうございます」


 道隆はそれだけを言うと、もう一度自分だけの猫をそっと抱きしめた。


 その時、カウンターの奥から一人の男性が顔を出した。道隆を品定めでもするように見つめると、軽く咳払いをしながら、不自然な笑みを浮かべて自分たちに近づいて来る。


「あ、明兄! 何で来たの? 奥で待っててって言ったでしょ」


「いやあ、ナツメのお客様に、ちゃんと挨拶をしないとって思ってさ」


 初めて見るナツメの表情に、道隆は素直に驚いた。どんなに鈍感な人間でもこの顔を見れば、ナツメが恋をしていることに気づかないことはないだろう。ナツメにそんな顔をさせる男を、道隆はしっかりと見定めると、諦めたようにすべてを悟った。


 なるほど。俺の出番なんて最初からなしか……。


 二人の関係は初見でも分かるくらいと甘い雰囲気を漂わせている。その甘さが道隆には少しだけほろ苦い。でも構わない、自分にはこの猫がいる。それに、ナツメに会いたければいつでもこの店に来ればいいのだ。そう思えることが、道隆は心から嬉しかった……。


                                                 了


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