第4章
2 看板
「シャ・ノワール」という看板を偶然目にしたのは、帰宅途中の車の中からだった。朝は仕事の段取りで頭がいっぱいなのと、帰りはいつも暗闇の中車を走らせているため、全く看板の存在に気付かなかった。でも、体調不良で午後から有休を取った日、昼下がりの日光に照らされた看板の存在に初めて気付いた。おかしな看板だと思った。看板に書かれた矢印が指し示す方向に一体どんな店があるのか。こんもりとした雑木林の中にある謎めいた店を想像すると、山本道隆は、何故か居ても立っても居られない焦燥感に駆られた。
店を訪れるのに特に勇気はいらなかった。それよりも早く店のことを詳しく知りたいという欲求の方が強かった。「猫屋」。その一言に込められた意味を早く理解したかった。自分は猫を好きだが、アパート暮らしでは飼えないから、実家に帰った時は朝から晩まで実家の猫と戯れ、日頃の疲れを癒している。そんな自分だからこそ、看板の存在に気づいてしまっては、あの店を無視することなどできなかった。どういうコンセプトの店なのか。強く惹き付けられてしまい、ずっと頭から離れないでいた。
中学校の教師をしている山本には休日など無いに等しかった。部活の顧問を任せられているから、ほぼ毎週土日は部活動の指導のため出勤していた。やっと最近になって「働き方改革」の指針の基、中学校教師の部活指導に週2日休養日を設けるよう指示が入ったが、多忙感はさほど変わっていない。
都内の中学校に採用されたのは三年前。正直何度辞めようと思ったかしれない。自分が思い描いていた教師像とのギャップから来る自信喪失。あることが理由でこの仕事に就いたが、ことごとく理想像から遠ざかる自分。生徒や保護者、職員との係りに、自分の人間として度量の狭さに気づかされてしまう日々。前向きに自分を奮い立たす気力が生まれて来ないのは、自分がひどく疲れ切ってしまっているからだ。それは自分が悪いのではなく、環境や周りの人間たちのせい。そう思って乗り切らなければ、自分はいつかきっと壊れてしまう……。
車で店の近くまで行けるようで、道隆は徐行運転をしながら、キョロキョロと周辺の景色に目をやった。店は冬の枯れた木々に囲まれているものの、不思議と寂しい雰囲気は感じられなかった。むしろその佇まいには人の心を揺さぶる魅力に溢れていて、道隆はこの時点で、この店に対する期待がぐんと跳ね上がった。
車から降りると、逸る気持ちを抑えながら入り口に進み、ドアを静かに開けた。土曜日の午後だというのに店には自分以外のお客が一人もいなかった。そのせいで、期待と同時に不安な気持ちも芽生え始める。
「いらっしゃいませ」
店の中央にあるカウンターの奥から、柔らかな女性らしい声が響いた。不意打ちを食らい、道隆は背筋をびくっと震わせた。
「あ、あの、い、今、大丈夫ですか?」
目の前に現れた女性を凝視しながら、道隆はたどたどしくそう言った。
「ええ。もちろん。今日一番目のお客様です」
店の女性は、澄んだ瞳を道隆に真っ直ぐに向けながら、にこやかにそう言った。
はっとするほど強い個性を放っている女性だった。年齢は多分自分とさほど変わらないようにも見えるが、もしかしたらずっと若いのかもしれない。でも、十代で店を持つなどまずないだろうから、多分同い年位か、ちょっと下か。すっきりとした目元からはそこはかとない色気を感じるが、小柄なせいか、大人の女というよりは少女と言った方がしっくり来る。小さな顔に収まる目も鼻も口も愛らしく、男性なら一目見て惹かれてしまう魅力を持っているが、どこか近づきにくいオーラを放っていて、それが道隆の興味を強く引いた。
「どうぞこちらへ」
女性はカウンターの方へ手を差し伸べ、道隆に椅子に座るよう促した。
「あ、はい」
道隆は短くそう返事をすると、カウンターの前に置かれた、フェミニンな椅子に腰かけた。
女性はカウンター越しに道隆の前に立つと、軽く自己紹介をした。名前は「ナツメ」といい、その名前の響きが本人と合っているなと道隆は素直に感じた。
ナツメは道隆と向かい合うようにして座ると、特徴的な瞳を、何の躊躇いもなく道隆に向けてきた。ナツメという女性の目は、光の加減で色を変えるビー玉のようだ。見つめられると、まるで自分のすべてを写し取る鏡のように綺麗で、そんな瞳を持つナツメの店に対する好奇心は更に増し、道隆は久し振りに、子供のようなワクワクする気持ちを覚えた。
「まず、お名前と連絡先を教えてください」
ナツメはそう言うと、いつの間にか持っていたボール―ペンをカチッとノックした。
「え? あ、はい、山本道隆と言います。携帯番号は~です」
ナツメは素早く机上の手帳にメモを走らせた。道隆が少し丸みを帯びた几帳面なナツメの字に目を奪われていると、ナツメはふいに顔を上げ、またそのビー玉のような瞳で道隆をじっと見つめた。
「あの、職業は何をされていますか? 差しつかなければ教えていただきたいです」
「あ、はあ……教師です。中学校の」
「中学校の先生なんですね。それは素晴らしいですね」
「そうですか? 大したことないです。今は、採用になっても一カ月も経たずに辞めていく人でいっぱいですよ。ブラックな職業ですからね」
ナツメは道隆への興味を露わにするように、丸い目を更に丸くさせた。
「確かにブラックかもしれませんが、私は、先生という職業ほど素晴らしい職業はないんじゃないかと思っています」
「本当ですか? んーどうなんでしょうね」
「使命です」
「はい?」
「与えられた使命。でも、それを全うする誇りと勇気を持ち続けるのは、とても大変ですよね」
「え?……あ、はあ……」
今の自分の状況を見透かされているようなナツメの言葉に、道隆の心臓はどくりと跳ね上がった。
「さあ、猫。山本様に近づける準備をしなければ」
「え? ああ、あの、ここは一体どんな店なんですか?」
「お客様のイメージに合わせて、私がお客様だけの猫を作ります」
「俺のイメージ?」
「ええ。そう。だから、山本様の髪の毛でも、爪でもいいのでいただけますか?」
突然の注文に道隆はポカンと口を開け、固まった。何か宗教めいた儀式なのではないかと不安に感じるが、自分だけの猫という言葉に強く興味を引かれ、その気持ちの方が遥かに勝っている自分に驚く。
「はい、何か変な儀式だけど、面白そうですね」
道隆は頭の天辺の髪を掴むと、躊躇いなく二、三本まとめて引き抜いた。
「ありかとうございます。お預かりします」
ナツメは両手で丁寧に道隆の髪の毛を受け取ると、カウンターの下から小瓶を取り出し、さっと蓋を開け、そこに髪の毛を器用に入れた。
「さあ、次は、山本様を良く観察して、猫のイメージを膨らませます。猫の土台となる材料を選びたいので、山本様はここに座ってリラックスしていてくださいね」
ナツメは立ち上がると、カウンターの向こうにある棚の方に、ひらりと振り返った。数種の材料が綺麗に並んでいる棚は、まるで絵本の中に迷い込んだような懐かしい気持ちにさせる。道隆はナツメの後姿を見つめながら、自分の好きだった絵本を思い出そうとするが、うまくいかなかった。
「あ、そうだ。私の店の猫は、すべてお客様の言い値で売られていますので、お客様も猫を受け取った時に、価格を決めてくださいね」
ナツメは振り返らず、黙々と材料を選びながら、事も無げにそう言った。
「言い値で? 本当ですか?」
「ええ。いいんです。 私としてもその方が……」
言っている意味が全く分からない。この店に来てからずっと驚きの連続で、流石に頭が混乱してくる。道隆はナツメの背中を、不思議な生き物でも見つめるような気持ちで見つめた。でも、じわじわと湧き上がる、自分だけの猫に対する強い興味が、ナツメという店主の不思議さなどを気にならなくさせる。そのことに、道隆は少し不安を感じた。