第4章
1 夢
「俺の猫は作らないのか?」
何の前触れもなく明人がナツメにそう尋ねたのは、クリスマスシーズンに突入し始めた、都内では珍しく寒い日だった。明人は仕事を休んで今日は午後からナツメの店に来ていた。週に二回ぐらいのペースで、多い時は三回程度。ナツメの様子を明人は窺いに来る。しかし、今日は一体何を思ってそんな質問をぶつけるのか、ナツメは作業中の手を止めて、しばらくの間フリーズした。
「俺には猫を作ってあげるって言わないんだな」
「え?」
明人は不服そうに、アトリエにある窓から、外の景色を窺いながらそう言った。黄昏時のちょっと寂しい時間帯。外は冷たそうな木枯らしが吹き荒れている。
ナツメは一呼吸置くと、「必要ないからよ」とぼそりと言った。
「本当に? 俺のSOSが届いてないのかな」
「SOS? どんな? ごめんなさい。全く届いてないわ」
少し動揺しながらも、ナツメはぴしゃりとそう言った。
「そうか。じゃあナツメは? 猫を必要としていないのか?」
明人は窓辺から離れると、作業机の前に座っているナツメの背後に近づいた。
「誰しもが心に傷を抱えてるってナツメ言ってたよな? 俺良く覚えてるぞ」
明人はナツメの椅子の背もたれに両手をつくと、背後からナツメの作業を覗き込むようにそう言った。こんな至近距離に明人がいることなど初めてかもしれない。今日の明人はどこかおかしい。ナツメは作業の手を止めると、目の前の猫に集中できない自分を心から謝罪した。
「え、ええ。確かに言ったわ。でも私には猫は必要ないの。だって、明兄自身が私の猫だから」
背もたれを掴む明人の手に、僅かに力が入ったことがナツメには分かった。それが何を意味しているのか。自分の気持ちが遠まわしではあるが、明人に伝わっているということだとナツメは思いたいが、これではまだ足りないということも、もちろん自覚している。
「俺がナツメの猫ってのは、保護者みたいな感じか?」
やっぱり伝わっていない。明人はどんな答をナツメに期待しているのだろうか。ナツメはお腹に力を入れついに覚悟を決めた。
「……違う。どうして? 私にはちゃんと二人の保護者がいるわ。もういらないもの。そうじゃなくて……だから」
何故素直に言葉を紡げないのか。こんなにももどかしい気持ちを味わうなど、ナツメは猛烈な苛立ちで、目の前の猫を台無しにしてしまいそうになる。
「どうした? なんか、いつものナツメらしくないな」
「あ、明兄だって、いつもの明兄らしくない」
「そうか? 俺はいたっていつも通りだよ」
明人はそう言うと、ナツメが創作途中の猫を愛おしそうに撫でた。
「俺がナツメの猫か。俺はどっちかっていうと犬っぽいよな……なあ、ナツメ、辛い時はいつでも俺に言えよ。お前の神経が擦り減っていくのだけはマジで勘弁だからな」
「……じゃあ、ずっと傍にいて」
「え?」
「死ぬまで私の傍にいるって約束して」
「ナツメ?……」
明人は猫を撫でる手を止めると、その手をそっとナツメの肩に乗せた。暖かい明人の手の熱がナツメの肩に伝わる。
「保護者じゃないわ。ちゃんとひとりの男として私の傍にいてほしいの。意味、分かるわよね?」
言えた。ちゃんと言えたと思う。ナツメは今、自分の心臓が機能不全になってしまうくらいの負担を感じている。今立ち上がったら、完全にふらふらと床にへたり込むだろう。
ナツメの肩の上に置かれた明人の手が素早く動いた。次の瞬間、明人は背後からナツメを包み込むように抱きしめた。自分の髪の毛に触れる明人の吐息に全身が粟立つ。こんな感覚生れてはじめてに近い。
「分かるよ。俺も同じだよ。ナツメを死ぬまで守りたい」
本当に? 本当に? その言葉信じていいの?
ナツメは心の中で最大限に叫んだ……。
「…………ナツメ、おい、ナツメ! こんなところで寝ちゃ風邪ひくぞ!」
誰かに肩を揺り動かされている。自分の体が小刻みに揺れているのを感じながら、ナツメは重い頭を何とか持ち上げて、恐る恐る振り返った。徐々に、自分の背後に明人がいることと、自分が眠ってしまっていたという事実に気付づいていくと、ナツメはそのまま机に突っ伏して、思い切り泣き潰れてしまいたい衝動に駆られた。
夢とか、在り得ない。そんな現実受け入れられない。
「大丈夫か? あんまり根詰めるなよ。体壊したら元も子もないぞ」
明人は優しくナツメの肩に手を置きながらそう言った。
「何でいるの? 今何時?」
ナツメはまだ重たい頭を両手で抱えながら、明人を見ずにそう言った。
「十八時。今日は寒いぞ。外は木枯らしが吹いてるぞ」
嫌味なくらい夢と現実が交錯している。そんな偶然の一致など何も嬉しくない。
「仕事帰りに様子見に来たら、店開けっぱなしで寝てるから焦ったよ……ナツメ、本当に不用心だからやめてくれ」
明人の真面目な命令口調になど、今のナツメは返事をする気にもなれない。コクリと一回頷くと、ため息交じりに目の前の猫に目を落とした。
「今回の依頼人は誰なんだ?」
明人が背後からナツメの手元を覗き込みそう言った。
「気になる?」
「え? まあ、そうだな。気になるな」
「個人情報だから」
「ああ、確かに」
明人は残念そうに声のトーンを下げた。
「あ、そうだ……ずっと聞きたかったこと思い出したよ。努君あの後すぐフランスに戻ったみたいだけど、何か気持ちの変化とかあったのか? ナツメと努君はその……今はどういう、関係なんだ?」
明人は突然言葉を濁しながら、自信なさげにナツメに問いかけた。まさか明人は、自分と努が恋人同士だとでも思っているのだろうか? だとしたら相当鈍感な人間なのかもしれない。ナツメは絶望的な気分のまま、わざと意地悪く返事をした。
「関係って……バカじゃないの? 努君はゲイよ」
「ゲイ?!」
相当驚いたらしく、明人は床の一点を見つめたまましばらく黙り込んだ。
「そうか、そうだったのか……どうりで……あ、俺、今まで努君に失礼な態度取ってなかったかな……」
明人は心配そうに眉根を寄せながらそうナツメに尋ねた。そんな明人の顔を見たら、ナツメは急に空しくなってしまい、作業机から立ち上がると、これでもかと大きく伸びをした。
「うーん、大丈夫よ。努君、明兄のこと大好きだから……さてと、今回も結構大変。疲れ切って寝てしまうことが多くて」
ナツメは気持ちを切り替えるように、わざと大きな声でそう言った。
「少し仕事をセーブできないのか? ずっと休む間もなく働き続けてるだろう? 俺はナツメの体が心配だ」
この会話に既視感を覚える。さっきまで自分が見ていた夢とシンクロし始めていることに気付くが、今のナツメには夢の中の自分になれる気力はないし、残念ながら明人の様子も普段と何も変わらない。
「大丈夫。私は平気。少しでも早く依頼人にこの猫を届けたいから。でも、今回は自分の心を込めるのが大変なの。中々猫に入っていかない」
その理由は簡単だ。菱沼の一件から二人が特別な関係でないことが分かったからだ。明人がフリーだと分かってしまい、ナツメは調子を狂わされている。菱沼を意識することが自分の気持ちを奮い立たせる原動力だったというのに。
「何か悩み事でもあるのか? あるなら俺に何でも言えよ」
「……別にないわ」
あるとしたら自分の勇気の無さくらいだ。事、恋愛に関しては、両手両足を誰かに掴まれているのではないかというくらいうまく立ち回れない。だから自分も、自分で作った猫を抱きしめて、潜在意識に潜水する必要があると時々自虐的に思うが、それでは猫の効力は発揮されないということを、もうずっと前に祖母から聞かされている。
「分かったよ。今日はナツメが納得いくまで俺が付き合ってやるから。頑張れ」
明人はにこやかに笑うと、「適当に晩飯テイクアウトしてくるよ」と言い、財布と車の鍵を掴むと、アトリエを出て行った。