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ナツメの猫屋  作者: HIMIKO
14/21

第3章

           5 兄


 猫ができたと連絡が入ったのは、駅の近くにあるいつものパン屋で昼食を購入しているときだった。ベーコンを挟んだベーグルと採れたて野菜のサラダ。この組合せが最近のお気に入りで、かれこれ一週間以上飽きずに食べ続けている。いつものように同じ昼食を買って店から出ようとしたときスマホが鳴り、慌ててバッグから取り出したスマホの着信画面は明人だった。明人は手短にそのことを菱沼に伝えると、「今日は社長命令で有休ね」とぴしゃりと言った。菱沼は「突然困ります」と返したが、明人は「有休を使ってナツメの店に行きなさい」と強く命令口調でそう言いって電話を切った。


 明人とはあのゲリラ豪雨以来、特にギクシャクすることもなく普段通り、社長と秘書の関係を続けている。ただ、少しだけ変わったのは、以前とは違い、明人の菱沼を見る目に慈愛のようなものが滲んでいることだ。それが菱沼の心をきりきりと苛立たせる。そんな目で見つめられながら仕事をするなど、自尊心を激しく傷つけられる。明人からの同情なんていらない。自分は誰からも同情されるような人間ではないのだから。そう心の中で叫びながら、菱沼は降りたばかりの駅に戻るために、取り敢えず勢いを付けて大股で歩いた。


 まだ電車内は混んでいた。流石に朝のラッシュほどではないが、それでも窮屈な気持ちになるぐらいは人が乗っている。菱沼が乗った駅からナツメの店がある駅まで、一回乗り換えて三十分程度だ。菱沼は何でこんなことになったのかを窓の景色を見ながらぼんやりと考えたが、頭が上手く働かなった。ただ、そのことよりも、今から自分はどんな心持ちでナツメに会えば良いのか分からず、困惑している。恋のライバルとして嫉妬剥き出しの心持ちならいっそ楽かもしれない。でも、今の菱沼にはそんな気力などない。どうにかして明人を自分のものにしようとするエネルギーなど、今の菱沼には生まれてこない。明人のあの慈愛に満ちた瞳を見れば分かる。あの目は家族に向けるような目だ。菱沼を優しく包み込むその目は、菱沼を完全に恋愛対象から外している。明人の目に潜んでいるのは、明人の中から溢れ出る、困ってしまうほどに純粋な、汚れのない愛情だ。そんな愛情を向けられてしまったら、菱沼の戦意は戦う前から消失してしまう。


 車内に、菱沼が乗り換える駅の名が響いた。菱沼はつり革をギュッと掴むと、モヤモとする頭を電車の揺れに任せて揺らした。切なさが揺れと共に頭の中でぐるぐると回る。その勢いは目指す駅に近づくにつれて増していった。


 ナツメの店に近い駅に降りると、時刻はまだ九時半を過ぎたばかりだった。こんな時間にいきなり店に来られても、ナツメは迷惑ではないだろうか。そんな不安が頭をよぎるが、どこかで時間を潰す心の余裕もなかった。駅周辺には時間を潰せるカフェが沢山あるらしいが、そこでゆったりまったりとお茶を飲む気分になどなれない。菱沼はしばらく駅出口で突っ立ったまま考えていたが、今日という日が、自分の一生の中で、特別な一日になるという期待を持ってみれば、少しは気持ちが前に動くかもしれない。菱沼は呪文のようにそう自分に言い聞かせながら、ナツメの店まで歩を進めた。


 ナツメの店は最寄りの駅から歩いて二十分ぐらいのところにある。商店街を抜けた高台にこんもりとしたブロッコリーのような雑木林が見えてきたらそれが目印だ。その雑木林に向かい、道路から坂道を上って行く。黄や赤の色味が加わり、若干熟した感じのブロッコリーに今の時期はなっている。都会の中で秋を感じられるのはとても貴重だ。深まる秋に浸りながら坂道を上ると、太ももやふくらはぎへ負荷が掛かり、それが普段運動不足の菱沼には心地良かった。不思議にナツメの店に向かって歩いていると、自然の空気に癒され、気分が上がっていく。しばらく歩くと、木造のやや年季の入った建物が視界に入った。以前店に来た時は明人の車で横付けだったが、歩いて周りの景色をゆっくり見ながら店に近づくと、以前とは全く違う魅力をナツメの店は放っていた。この店は、明人の祖母が昔仕立屋をしていた建物だと聞いている。良く観察すると、外観は、店の入り口周辺と屋根以外はさほどリフォームされていないように見える。店の壁は板張りで、品の良い古臭さがある。それが上手く活かされ、店全体を優しく温かみのある雰囲気にしている。屋根の色はくすんだ臙脂色。店の入り口は地面より高く、手すりの付いた三段の階段が建物正面の右側に付いている。階段の脇には「シャ・ノワール」と書かれた黒い看板があり、それを取り囲むように、白や黄色の小花を付けたかわいらしい植物が植わっている。菱沼はその植物を見ながら、わざと階段をゆっくりと上ると、ドアの前で深呼吸をひとつした。


「ごめんください」と一声掛けてから、ドアノブに手を掛けた。店の中からは何の物音もしない。菱沼はノブに力を入れると、ゆっくりとドアを開けた。


「お邪魔します。菱沼です」


 そう声を発しながら店内に入ると、正面のカウンターに人らしきものが見えた。でもそれはぴくりとも動かない。見間違いかと訝しがりながら近づくと、そこにいたのはカウンターに突っ伏したまま居眠りをしているナツメだった。漆黒の美しい髪を扇状に広げ、顔を横に向けたままあどけなく寝入っている。この、見てはいけないものを見てしまったようなおかしな感情は何だろう。ナツメの無防備な姿を見てしまったという背徳感に苛まれ、菱沼はどうして良いか分からず、おろおろとその場に佇んだ。その時、ナツメのすぐ脇に置かれた、黒い大きな箱に目が行った。カウンターの上に置かれた箱には、つるっとした黄色いリボンが巻かれ、強い存在感を放っている。菱沼はその箱に釘づけになった。その艶やかなリボンの端を引っ張り、中身を覗いてみたい衝動に駆られる。もしやこれは自分の「猫」なのかもしれない。一度そう思ってしまったら、菱沼はその気持ちを理性で制することができなくなった。


 菱沼はリボンの端を掴むと、するっと一気に引っ張った。リボンはしゅるりと音を立てて、はらりとカウンターの縁に垂れた。菱沼はそれを見届けると、恐る恐る箱の蓋を開けてみた。その時、きらりと光る何かと目が合った。それはまるで意思を宿したかのように鋭く菱沼を見つめて来る。


 猫……。


 菱沼の脳が箱の中の物を認識した時、菱沼は迷わず箱の中に手を突っ込み、それを勢いよく取り上げた。菱沼は、取り上げた猫の脇に手を入れて持ち上げると、まっすぐそれを見つめた。それは、ややシルバーがかった灰色をしていた。毛が短いせいか、まるでプラチナのように輝き、目がチカチカとした。脇に入れた手の感触は本物の猫そのもので、今にも鳴き出しそうなそのリアルさに、緊張で手汗をかきそうになった。


 グレー一色の中に一点、オレンジ色が輝いていた。その色味は炎のようにも見える。菱沼はそっとそれを自分の胸元に引き寄せ抱きしめた。まだ信じられない。これが本当にぬいぐるみだということが。強く抱きしめると、胸を何かにぎゅっと掴まれたような痛みを覚えた。その痛みが合図のように、菱沼の心臓は急にドキドキと暴れ始めた。


 嫌な感じがする。この胸の動悸は前にも経験したことがあるはずだ。だからこそもの凄く嫌でたまらない。


 菱沼は、今自分が抱きしめている猫を恐る恐る見下ろしてみた。猫は炎のように瞳を輝かせながら菱沼を見上げていた。次の瞬間、菱沼は急に膝から力が抜け、立っていられず床にしゃがみ込んだ。同時に、自分が現実からひどく遠くへ引き離されていくような感覚を覚えた。今、自分が何処にいて何をしているのか。頭がぼんやりとしてしまい全く分からない。そんな状態のまま菱沼は、ぐるぐると眩暈のような感覚を味わいながら、下へ下へと何かに引っ張られるように落ちて行く。そんな地に足が付いていない状態に菱沼は僅かにパニックになったが、ほどなくして、突然白い靄の中を、何故かふらふらと夢遊病者のように自分が歩いていることに気付いた。しばらく歩いていると、まるで場面が切り替わるように、菱沼は見慣れた階段の一段目に腰かけていた。その場所から、ふと気になり視線を上げてみると、二階の廊下の窓から差し込む西日が、部屋のドアを煌々と照らしていた。その部屋は菱沼が一生近づきたくないと思っている場所。今まで自分が必死に避けてきた場所に何故自分が居るのか。その事実に、菱沼からさあっと全身の血の気が引いていく。


 聞こえる。あの部屋から。声が。叫び声が。「うー」と唸るような声も時々混じる。この声を聞くと菱沼は、頭にドロドロのコンクリートを入れられたみたいな気分になる。それはいつかガチガチに固まって、菱沼の脳みそを完全に壊そうとする。


 菱沼には三つ年上の兄がいる。二人兄妹だが、男と女では一人っ子とたいして変わらない。両親は二人の子を溺愛したし、家庭的にも割と裕福な方だったので、小学校を終わるまでは、多少なりとも幸せな少女時代を過ごせていたと思う。しかし、菱沼が中学生になった頃突然異変は起きた。高校に入学した兄は、突然の環境の変化に心のバランスを崩し、不健康な精神状態に陥ってしまったのだ。兄は昔からどこか変わっていた。親とも兄妹とも、まともにコミュニーケーションを取らない、というよりは、取ることができないように菱沼は感じていた。昔を思い返しても、兄とまともな会話をした記憶がない。いつも、心の奥に理由なき恥ずかしさみたいなものを隠していて、それを誤魔化すためなのか、わざとふざけたような、冷たく突き放すような、ひどく素直じゃ無い話し方をする。菱沼は物心が付いた頃から、幼いながらも、それはとても異常なことではないかと感じていた。でも、所詮二人っ子の性別の違う兄妹など、自分の人生に於いてそれほど重要視するほどではないと、菱沼はいつしか、諦めと共にそう冷ややかに兄を受け入れるようになった。だから、菱沼に兄弟など始めからいないのと変わらなかった。お互いの存在を無視し、全く関心を示さない。それは、菱沼がそうしたくても、頑なに兄が拒んだからだ。兄はそういう、自分でもどうすることのできない「頑なさ」を持っていて、それが常に兄を苦しめていたように菱沼には見えた。


 兄は高校一年の夏休み明けから学校に行かなくなった。学校側の言い分では、友人関係のトラブルで、そのトラブルの引き金は兄だということだった。菱沼はそのことにあまり意外性を感じたりはしなかった。高校一年の夏までもったのは、正直奇跡とさえ思った。むしろ、こうなることは必然で、時間の問題ではないかと薄々覚悟をしていたからだ。家族ともまともにコミュニーケーションを取れないような人間が、外でうまく人と関わるなど所詮無理な話なのだと。


 でも、それは想像を絶する地獄だった。菱沼の覚悟など角砂糖十個入れたコーヒーよりも甘かった。


 兄は自分の部屋に引きこもるようになった。トイレと入浴以外は全く部屋から出ようとしなかった。部屋の中では、兄は自分の好きなロリータ趣味のアニメ世界に没頭していた。思春期真只中の菱沼にはそれが何よりも理解できなかった。嫌悪以外の何ものでもなかった。ただ完全に妹に心を閉ざしただけの兄ならまだ我慢ができた。兄の普通ではない性癖など、その当時の菱沼には、人格を完全に否定するほど許し難かった。全くの隙もないほど完全否定してしまえば、兄と同じ血が流れている自分を、少しでも清められると思ったからだ。


 次第に兄の行動はエスカレートしていった。外部から要らぬ情報や家族からの刺激によるストレスが、兄の怒りを増幅させる。そうなると、部屋の中で大声で叫び、物を壊し、時には両親に暴力を振るった。菱沼は恐怖で眠れない夜が続いた。布団の中で丸まって考えることは、自分にとって兄という人間が、全く何の意味も持たない存在であるという耐え難い事実だった。頭の中で、何故、自分には兄がいて、その兄は何故こんなにも菱沼の心を冷え切らすのか。絶望と怒りで菱沼の心は爆発寸前まで膨れ上がった。


 優しい兄が欲しかった。自分を温かく見守ってくれ、心の支えになってくれるような兄が。たわいのない話をして笑い合いたかった。心を通わせ合ことの幸せを感じたかった。


「だから、だから……あんたなんか死ねばいい。あんたみたいな人間はこの世から早く消えろ! あんたがいなくなっても誰も悲しまない! 死ね、死ね、死んじまえ!!」


 まだ、中学三年生だった菱沼は、ある夜、兄が寝ている所を起こしてこう言った。


 言っていいことと悪いことの区別ぐらい、もちろん付いている年齢だったはずだ。でも、あの当時の菱沼の兄に対する憎しみと嫌悪は、真っ直ぐ過ぎるぐらい純粋で、怖いくらいシンプルだった。兄の存在がこの世から消えることが、菱沼にとっては善であり希望だった。


 菱沼は今でも、布団の上から見下ろした兄の顔を忘れることができない。菱沼の言葉に凍り付いたように固まり、濁った魚の目のような瞳がキョロキョロと小刻みに揺れていた。兄は何も言わなかった。ただ、瞳だけを大きく見開き、それが暗闇の中で異様に目立っていた。部屋に戻り、自分は間違っていないと思おうとした。あんな兄など生きている価値などないのだからと。でも、悪魔のような言葉を吐いてしまった後悔と罪悪感で、菱沼は朝まで眠れなかった。本当に死ぬわけはない。兄は自分の言葉によってもしかすると目を覚ますかもしれない。そんな考えに菱沼は都合よく縋った。


 西日の眩しさに頭がグラグラする。階段の一段目からの眺めは地獄の入口のように見える。多分あの日も、燦燦と太陽が降り注ぐとても清々しい天気だった。 


 菱沼は何故か自分の意思とは関係なく立ち上がると、一段一段踏みしめるように階段を上らされていく。嫌だ、嫌だと心は叫んでいるのに、体が言うことを聞かない。二階まで上り切り、部屋のドアの前までたどり着く。すると菱沼の手は、菱沼の意思に反してドアノブを掴むと、何の躊躇いもなくドアを勢い良く開けた。


 開けた視界に飛び込んできた光景を、菱沼は今でもありありと覚えている。目の奥に焼き付き一生消えはしない。


 昼下がりの日曜日、ドスンという大きな音に驚いて、母親と共に兄の部屋へ行った。


 兄はぶら下がっていた。窓の桟に引っ掛けたロープを首に巻き付けて。菱沼は腰を抜かしてしまい、何もできなかった。母親はすぐに兄の体を抱いてロープを首から外すと、床に降ろした。発見が早かったことで一命は取り留めたが、兄には重い障害が残った。


 自分が。そこにいる。腰を抜かして、口をあんぐりと開けている自分が。どうすることもできず、呆然と二人の様子を目に映しているだけの自分が。


「私のせいだ……私のせいだ……死ね、なんて、言ったから……」


 譫言のように繰り返し繰り返しそう言う自分を、菱沼は目を反らせず見つめた。


「そうだ。お前のせいだ……」


 菱沼は中学生の自分に向かってそうぽつりと呟いた。


「ううん。違う。あなたのせいじゃない」


 もう一人の自分が反対のことを言う。


 相反する思考が菱沼の頭の中で、洗濯機のようにぐるぐると回る。


 もうずっと長い間苦しんできた後悔と罪悪感も一緒に洗濯機に入れて、全部が揉みくちゃになるまで洗濯したら、それを今みたいな、最高に良い天気の日に干して、気持ちよくそれが乾いたら、兄は私を許してくれるだろうか。


 ふと、そんなことを考えたら、菱沼は、目の前の自分がたまらなく哀れでならなかった。誰かがこの子を守ってあげなければいけないという、強い感情に捕らわれた。


 何故だろう。この感情はどこから生まれて来るのだろう。この自然に湧き上がって来る気持ちは、本当に自分の気持ちなのだろうか。


 菱沼は、説明のできない強い何かに突き動かされるように、背後から自分を包み込むように抱きしめた。まだ大人の女性になり切れていない華奢な体を、痛いくらい強く抱きしめた。抱きしめられている中学生の自分の痛みが、じわじわと自分に返ってくるような気がする。その痛みが募るほど、この得体の知れない感情は膨れ上がり、ぽろぽろと涙と共に零れ落ちる。


 私を、許してほしい。もし、少しでも私を愛してくれているのなら……。


 麻痺の残った兄は、もう何年も車いす生活を余儀なくされている。脳に重い後遺症が残り、言葉を話すこともできない。だからもう、部屋で暴れることはないし、両親に暴力を振るうこともない。大好きなアニメを見ることはできるけど、パソコンは使えないから、見知らぬ誰かと繋がることはできない。菱沼は十年以上実家に戻っていない。時たま交わす母親との会話から、兄の様子を聞くだけだ。兄は良く笑うという。引きこもっていた頃より、今の方が澄んだ目をしていると、依然母親が話していたような気がする。


 兄に関してのすべてのことを、菱沼は、心にバリアを張りながら弾き飛ばしていた。そうしないと生きていけなかった。兄から目を反らすことで、自分は仮初の人生を生きてきた。そのバリアが何かしらによって外れる日を、菱沼は、自分を責め続けながら、本当はずっと待っていた……。


 自分は兄の人生を台無しにしたのだと思う。でも、これも運命なのだと思うことは、とても罪なことなのだろうか? 


 今こうやって自分を抱きしめていると、ずっと忘れていた何かがじわじわと胸を熱くさせていく。この「何か」が自分にとって大切な「何か」なのだとしたら、自分はそれを、決して手放してはいけないのではないだろうか……。


 はっと目が覚めた感覚を覚えた。菱沼は床に座り込んでいた。腕の中には灰色の猫が丸まっている。菱沼はそれを優しく撫でると、現実でも自分の目から涙がぽとぽと落ちていることに気付く。


「ああ……私……今、どこにいるんだっけ……」 


「……私の店ですよ」


「え?!」


 菱沼は驚いて慌てて立ち上がった。そのせいで猫が床に落ち、あっ、と思い拾い上げようとしたが、それよりも先に、ナツメがそれを拾い上げた。


「はい。改めて……これは菱沼さんの猫です。どうぞ大事にしてくださいね」


 ナツメはにこやかにそう言うと、猫の脇を抱えて大事そうに菱沼に差し出した。


「あ、ありがとうございます。でも、勝手に箱を開けてしまって、すみませんでした。私、は、恥ずかしいことしちゃいましたね」


 菱沼は猫を受け取ると、ぎゅっと抱きしめながら下を向いた。


「構いません。そんなこと。お互いに早く会いたくて、強く引かれ合ったんです。恥ずかしいことじゃありません」


「引かれあった?」


「そうです。……菱沼さん。この猫はあなたの分身です。あなたはその猫を抱きしめて、自分を強く愛してください」


 ナツメはわざわざ抱きしめるジェスチャーを菱沼にして見せた。その姿がとても愛らしくて、菱沼の涙腺がまた緩み、涙が零れた。


「ナツメさん、この猫は何ですか? 私に一体何が起こったんですか?」


 ナツメの作る猫とは何なのか。ナツメは自分のことをどこまで知っているのか。菱沼はそれを早く知りたくて、たたみ掛けるようにナツメに尋ねた。


「私には特殊な能力があります。私は、依頼者から発せられる悲しみや苦しみが、依頼者を見つめるだけで分かります。依頼者の心と私の心がシンクロするんです。そして、依頼者から頂いた、爪や髪の毛を使って、依頼者の思いと繋がりながら、私は心を込めて猫を作ります」


「あ、あ、ああ……ナツメさんのしていることは、そういうことだったんですね」


 声を震わせながら、菱沼はやっとの思いでそう言った。


「ええ。この猫は菱沼さんの分身。魂が宿った猫を抱きしめると、その人の心に電流が流れます。その電流は、自分を愛するための『きっかけ』です。もし、また苦しくなったら、その猫をぎゅっと抱きしめて、自分を現実の世界にしっかりと繋ぎ止めてください。菱沼さんが、自分の人生を大切に生きられるように、その猫は菱沼さんを守り続けます」


 ナツメの話はとても現実味に欠けているのに、その突拍子もない話が、まるで、スポンジが液体を吸収するように自分の心に染み渡っていくのを感じた。それが、さっきまで、自分の脳内で起きていたフラッシュバックと関係していることを、菱沼は既に気づいている。そして同時に、今、自分の肩から力が抜け、自分の心がナツメの前で裸にされているという事実に気づき、菱沼は急に、目の前のナツメを直視できなくなった。 


「ナツメさん……あなたは私のことをどこまで知って……」


「どこまで?……いいえ。何も知りません」


「はい?」


「菱沼さんはあの辛い体験から止まっています。本来の菱沼さんはこれからです。だから私は菱沼さんをまだ良く知りません」


「ナツメさん……」


「自分を許すということが、菱沼さんが自分を愛し、自分を大切にすることなんです。でも、それには勇気が必要だし、迷いも生じます。そんな時はいつでも、その猫を強く抱きしめてくださいね」


 そう優しく菱沼に伝えるナツメの笑顔に、菱沼は顔を激しく顰めた。嗚咽が自然と漏れ、今まで抱えていた苦しみを吐き出すかのように、菱沼は猫を抱えたまま肩を揺らして泣いた。


「私は、私は……兄を……」


「ええ。分かっています。今からでも十分間に合います。これからは、お兄さんに会いに行ってあげてください。お兄さん、すごく喜ぶと思いますよ」


 嗚咽に邪魔をされて頷くこともできない。菱沼はナツメにゆっくり近づくと、ナツメの手を取って強く握った。ナツメの手は想像以上に冷たく、そして小さかった。この手には驚くべき力が宿っている。ナツメが作った恐ろしく精巧な猫のぬいぐるみを通して、人の心を救うことができるのだから。でも、きっとこの猫は完全ではないはずだ。自分自身を見失わぬよう「電流」という名のきっかけを与えてくれるだけの物だ。後はその「きっかけ」を頼りに、菱沼に生きることを諦めるなとナツメは教えてくれているのだろう。不思議とその考えは、もうずっと前から分かっていたように、ストンと菱沼の腑に優しく落ちた。 


 菱沼は抱きしめている猫をもう一度まじまじと見つめた。ただそうしているだけなのに、心の奥がじんわりと熱くなっていくのが分かる。ナツメの思いが、自分の心に温かく滲んでいくのが、トクトクと脈打つ血管の動きから分かる。


「この猫……本当に言い値でいいんですか?」


 菱沼は眉間に皺を寄せると、申し訳なさそうにそう言った。


「はい。そうです」


 ナツメは迷うことなく、きっぱりとそう言い切る。


「明人社長の秘書としては複雑ですね」


 菱沼は少しだけ明人が気の毒になりそう言った。


「ああ、確かに。これじゃ、商売じゃなくて、慈善事業みたいなものですものね」


 ナツメは悪びれることなく、あっけらかんとそう言った


「でも、ナツメさんの作ったキャラクター、社内でとても好評です。みんな可愛い、癒されるって言ってます。もうすぐ商品化されますよ。絶対ヒット商品になりますから、楽しみしていてくださいね」


 菱沼はしゃべりながらどんどん興奮してきて、自分が「モン ビジュー」の社員であることを、これほど強く実感したのは初めてかもしれないと感じた。 


「ええ。少しでもお役に立てれば、安心です。私、あの人にたくさん迷惑をかけてますから」


 あの人とはもちろん明人のことなのだろう。ナツメの言葉の響きや間から、明人に対する特別な感情がどうしても漏れ出てしまうのを隠せるほど、ナツメという女性はあまり器用ではないらしい。


「ええ。あの人は、ナツメさんのためなら何でもしますよ。残念ですが、私はあなたに一生敵いません」


「はい?」


 キョトンとするナツメの表情がすこぶる愛くるしい。菱沼は、その顔をじっと見つめると、もう一度兄を思いながら、自分の猫をギュッと抱きしめた。




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