第3章
4 ゲリラ豪雨
仕事帰りは憂鬱でたらない。まっすぐ家に帰りたくない。一人暮らしをしている今でも、家にまっすぐ帰ることを脳が刷り込まれたように拒否している。実家にいる時も今も、寄り道したところで何も変わらないことは分かっている。でも、その行動パターンは自分の悪い癖となって染み付き、自分の心にどんよりとした暗雲をたちこまらせる。
自分はいつからこんなことをしているのだろう。アスファルトにぼつぼつと落ちてくる雨跡に目を奪われながら、菱沼はぼんやりと考える。タイミングの悪いことに会社を出た瞬間に雨が降ってきた。慌てて折りたたみ傘をバッグから取り出し、差すと、雨脚はどんどん強くなっていく。思い切って駅に続く道に足を踏み出すと、濡れないことを諦めながら大股で歩き出した。
さて、今日はどこに寄り道しよう。有名どころのホテルのバーはほとんど制覇している。そこで一人で酒を飲んでいると、かなりの確率で男に声を掛けられる。そして、たまたまホテルに宿泊している客の男と意気投合すれば、その男が宿泊している部屋へ直行することもある。そこで、愛はないが、それなりに興奮を伴うセックスをし、心と身体を幾分かリフレッシュさせたりもする。相手に選ぶ男は、明人に背格好が似た男であることが条件だ。そんな娼婦まがいの自分を、自分でも心底嫌になるが、僅かな現実逃避から得られた少しのエネルギーを糧に、家に帰る気力を取り戻している。もちろん毎日そのようなことをしているわけではない。それは、自分の心が途方もなく空虚な時だ。空っぽな心と身体に、他人の熱を取り込めば、自分という本質など始めからなかったことのように思える気がするからだ。
寄り道の殆どが、特に意味の無い時間潰しだ。時期によってはイルミネーションが美しい公園のベンチに座り、ぼーっとしたり、美術館や図書館を宛てもなくうろうろと徘徊したりもする。ファミレスにコーヒー一杯で小一時間いたこともあれば、立ち飲み屋で熱燗一杯と焼き鳥三本程度で、やはり小一時間粘ったこともある。
雨が更に強く降ってくる。歩道はあっという間に小川のように水が増え、菱沼のパンプスの中は雨でぐしょぐしょになった。いっそのことパンプスもパンストも脱ぎ捨てて、素足のまま歩いたら気持ちがいいだろうと思ったが、もちろんそんなことはしない。
その時、菱沼のすぐ左側から躊躇いがちにクラクションが鳴った。自分には関係ないと思いながらも、なんとなく気になって音の鳴った方へ視線を向けると、大雨の中、助手席の窓を半分以上開けた明人が、菱沼が歩いている歩道脇に車を寄せようとしている。
「菱沼君! 乗って!」
菱沼は突然のことに我が目を疑ったが、その声と、白のアウディQ7から明人だと確信すると、まるで吸い寄せられるように車に近づいた。
「社長、私が乗ったらシートが濡れてしまいます!」
菱沼は車に近づいたものの、ずぶ濡れの自分に気づき、助手席に座るのを躊躇った。
「構わないよ! いいから早く乗って!」
有無を言わせぬ強い口調に、菱沼は「はい」と一言返事をすると、素早くドアを開けて、滑り込むように助手席に座った。
「はー、良かった。ちょうど会えて。ゲリラ豪雨だって。下手すりゃ電車も走れないかもしれないよ」
「そんなにですか? 甘く考えてました」
「落雷とかあるみたいだから、気をつけるに越したことはないね」
明人はラジオのボリュームを少し上げると、気象情報に耳を傾ける。
「ありがとうございます。仕事以外で社長の車に乗せていただけるなんて、光栄です」
「光栄なんてオーバーな。大事な秘書がずぶ濡れでいるのを放っておける社長なんて、そんな会社俺は御免だよ」
「はい。十分に承知しております」
「分かればよろしい」
明人はふざけたようにそう言うと、菱沼を横目で見ながら噴き出すように笑った。
菱沼は明人の笑顔に、一瞬で心を高みへと救い上げられたような高揚感を覚えた。
「家まで送るよ。えーと、住所教えて。ナビに入れるから」
菱沼は幸福感の海に溺れ、夢見心地で明人に住所を教えると、明人は慣れた手つきでそれを入力する。そして、菱沼の顔をしみじみと見つめると、明人は複雑な表情をする。
「菱沼君の住んでいる場所、今初めて知ったよ。俺は君のこと何も知らないんだな」
悪気なく呑気に言う明人がとても憎らしい。もし、その無邪気さが一変するようなカウンターパンチを食らわせたら、一体どうなるのだろう。明人の感情を揺さぶり、困惑させたら、明人は自分への感情を引きずり出してくれるだろうか……。
「……じゃあ、もっと知ってください。私のこと」
菱沼は、常々明人に抱いている思いを口からこぼれ落とした。不思議なほど後悔も恥ずかしさもない。
「え?」
明人は驚いたようにそう言うと、菱沼の住所を、ナビに入力する手を止めた。
「うちに着いたら、お礼がしたいので部屋に上がってください。お茶一杯ごちそうするぐらいどうってことないですよね?」
「い、いや……」
情けないほど弱々しく明人はそう言った。戸惑っているのは明らかで、それがむしろ菱沼の心に火を付ける。
「いいよ。お礼なんて。俺は常に君に感謝してるんだから。この程度のことなんて、お礼には値しない」
明人は僅かに声を裏返らせながら、そんないかにも社長ぶったことを言う。どこまでもこの男は理性的な態度を貫き、自分の立場を見失うことはないのだろうか?
「怖がらないでください。社長。私はただ社長とお茶を飲みたいだけです」
菱沼は濡れた手でそっと明人の腕を掴むと、わざとゆっくりとそう言った。
「いや、だから……」
そう言ったきり明人は黙り込んだまま運転を始めた。ナビに案内されながら、菱沼の住むマンションまで無言でハンドルを握る。車内は静かになり、ワイパーが高速運転をしている音が僅かに聞こえる。強い雨に対抗できるようワイパーを動かさなければ窓の視界は遮られてしまう。菱沼は雨を弾きながら左右に動くワイパーを、縋るようにずっと見つめていた。
「着いたよ」
明人の声に、菱沼は緊張で体を強張らせた。自分が今からしようとしていることを客観視してしまったら、ただ素早く礼を言って立ち去るだけだ。
「外はまだ大雨だよ。少し落ち着くまで車の中で待っていよう。天気予報だと、もうすぐ止むらしいから」
それはどの程度確かな情報なのだろうか。菱沼は少しだけ落ち着きを取り戻した明人を苦々しく感じ、横目で睨むように明人を見つめた。
「社長。ずっと止まなかったらどうします? 車中泊ですか?」
「あはは。それもいいね」
気の抜けた明人の笑い声に、途端に菱沼の心は屈辱的な惨めさに襲われる。
「困ってますよね?」
「え?」
「社長は今、私を早く降ろしたくてしょうがないですよね?」
わざと語尾を強めにして菱沼は言った。
「菱沼君……俺は勘違いしてないと非常に良いのだけど、君はその、僕のことが……もしや」
「ええ。そうです。好きです!」
「はぁ? ほんとに?」
運転席側の窓に背中を押し付けるようにして、明人はあからさまに菱沼から遠のいた。そんな明人の姿に、菱沼の惨めな感情の川は勢いよく氾濫し、その濁流に飲み込まれた菱沼は、藁をもつかむ思いで明人の胸に勢いよく飛び込んだ。
「菱沼君!」
「お願いです。あんまり私を惨めにさせないでください。雨が止むまで、このままでいさせてください」
明人の心臓の音が耳に伝わる。女性慣れしているはずなのに、自分が想像するより遥か、明人はドキドキと心臓を鳴らしている。
「……正直、光栄だよ。君みたいな女性に好きになってもらえて。君はいつも冷ややかに俺を見てて、全く俺なんか眼中にないような態度だっただろう?」
「そう、ですね。自分の感情を素直に表すのが、私は苦手ですから」
「ふっ、どっかの誰かとおんなじだな」
明人は微かに笑みを浮かべると、視線を彷徨ながら誰かを思い描いている。
「ナツメさん、ですか?」
「え? ああ、そうかな。あいつはもう本当に素直じゃない」
「好きなんですか? ナツメさんのこと。恋愛感情を持っているんですか?」
菱沼は胸を抉られるような気持ちで尋ねた。もうずっと前から、菱沼は明人のナツメへの気持を疑っている。今が絶好のチャンスで、これを逃したら二度と尋ねる自信など自分にはない。
「……分からないんだ。自分のこの気持ちが何なのか。ただ、どうしようもなく愛おしいんだよ。妹のようなとか、そんなのとも違う……この感情のこと、実はあんまり考えたくないんだよ。考えるのが、怖いんだ……」
「怖いって……何言っているんですか? そんなの迷うことなく恋愛感情ですよ!」
菱沼の問いかけへの答えの明確さに、おかしなくらい明人自身が気づいていない。むしろ、菱沼を相手に明人は自分の気持ちを整理しようとしている。その残酷さに、菱沼は明人の胸に顔を突っ伏して、思い切り泣いてしまいたくなる。
「ごめんよ。もしそうなんだとしても、多分何も変わらないと思う。俺はこの感情をナツメに向けることはないし、多分ナツメ以外の女性にも、向けることはない」
「何故? 従妹同士とか? 社会的立場とかですか? そんなの社長らしくありません!」
「俺らしさなんて、それは君が勝手に作った妄想だよ。君が好きな俺は幻想かもしれない。もっと本質を見極めなくちゃだめだよ」
幻想などではない。自分には明人が必要なのだ。明人でなくてはならないのだ。明人の魂でなければ自分は沈み込んでしまう。地底深くに埋もれ、二度と這い上がれなくなってしまう。
「幻想なんかじゃありません。社長は……ご自分が考えている以上に、人に良い影響を与えます」
「それって、癒しとか……そういうたぐい?」
「ええ。そうです。癒しです。社長は人の心を綺麗にしてくれます。不純物を取り除いてくれるんです」
「そんなの、本当に何の根拠もないことだよ。俺はそんなこと言われても、全然うれしくない」
そうきっぱりと言い切る明人の言葉にハッとし、菱沼は素早く体を離すと、明人の瞳の奥を覗き込んだ。
「……ごめんなさい。でも、私は社長のことが、本当に好きなんです」
縋るように明人を見つめながら、菱沼は心を込めてそう言った。
「……駄目だよ。今の君には、他にやるべきことがあるはずだ」
「え?」
「君には猫が必要なんだよ」
「猫?」
菱沼はナツメと強引に交わされた売買契約を思い出した。でも、それとこの会話にはどんな繋がりがあるというのだろうか。
「どういう意味ですか?」
「いずれ分かるよ……あ、見て、小雨になってきた……菱沼君。また明日会社で会おう。くれぐれも風邪などひかぬように」
明人はひどく優しくそう言うと、菱沼の体を助手席にさりげなく戻した。菱沼はしばらく無言で助手席に座っていたが、素早くドア開けると、明人を振り返らず、マンションのエントランスまで一気に走った……。