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ナツメの猫屋  作者: HIMIKO
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第3章

          1 秘書

 

「秘書」という言葉はどことなく淫靡だから困る。「秘」という言葉が謎めいた印象を与えるため、自分にもそのイメージを重ねられてしまう。そのせいで、今まで付き合ってきた男達は皆、菱沼悠里ひしぬまゆうりに勝手にミステリアスな魅力を植え付けて、それを楽しんでいるようなところがあった。でも、菱沼のミステリアスな魅力はまんざら嘘ではない。気付かぬうちに内面から漏れ出ていたのだろうから。


 誰しも、隠し事のひとつやふたつあるだろう。菱沼の場合、その隠し事による陰りがアンニュイな色気に結び付き、男達の好奇心を強く刺激してくるらしい。でも、しばらく付き合うと、菱沼が何を考えているか分からないと不安がられ、男達の方から菱沼の元を去って行く。


 相手が自分に興味を持ち、好意を寄せてくれた場合、菱沼は殆どそれを拒んだことがない。自分の方から好きになるという弱い立場では、自分の「秘密」の陰りに押しつぶされてしまいそうになるからだ。「好かれている。魅力的に思われている」という、相手よりも上の立場にいれば、その陰りを一時的にでも忘れることができる。でも、結局長くは続かない。菱沼は相手に不安しか与えない。謎めいた女など所詮、男に安らぎなど与えないのだから。


 菱沼が勤務する会社社長の西野宮明人は、どこか不思議な男だ。菱沼が今まで付き合ってきた男の中に、明人のような男は一人もいない。明人の秘書になってから三年が経つが、明人から一度も誘いを受けたことがない。顔もスタイルも上クラスな菱沼だからこそ、同じ会社の社員達は、社長と秘書が男女の関係になるのは時間の問題、暗黙の了解みたいな感覚でいる。二人が並ぶと、太刀打ちできないゴージャスなオーラが漂い、そのお似合いぶりに、社員達は溜息しか出ないらしい。でも、当の本人達は、社員の期待を余所に、仕事の関係を貫いている。早い話、明人から菱沼に対して全くモーションがないからだ。菱沼は自分からは行かないし、行けないのだから、二人の仲が進展することはまずない。


 明人は、決して女好きではない。女にだらしない男でもない。彼女がいたのはもう一年ぐらい前だ。多忙すぎる明人に、彼女が寂しさに耐えられなくなり別れを切り出したというのが専らの噂だ。付き合ったきっかけも、明人にぞっこんな彼女に強く押し切られるような形だったらしい。明人は恋愛に対してとても受身だ。自分からがつがつ行く肉食系ではない。それでも女性にモテるから、明人を良く知らない人間からは、遊び人の軽い男と思われてしまう可哀想な男なのだ。


 そんな明人はそわそわと朝から落ち着きなくて、スマホを持ちメールか何かを隠れるように確認している。誰にも気づかれていないと思っているようだが、傍から見たら、喧嘩した恋人と、仲直りのきっかけを考えあぐねている気の弱い男にしか見えない。明人は、まさか自分がそんな風に菱沼に見られているなど露ほども思っていないだろう。明人という男は周りにどう思われようが気にしない。そんなことで傷つき思い悩むなど、この男にとってはこの上なくナンセンスなことなのだから。


 自分も明人のように生きられたらと思うことがある。秘書として明人と一緒に仕事をしているとそんな思いに捕らわれることが多々ある。自分の陰りに光を当て、構わずさらけ出すことに躊躇うなど、とてもバカらしく時間の無駄ではないかと。でも、それができる人間が日本中にどのくらいいるか。多分五分の一もいないだろう。明人のような人間のほうがとても稀有で、尚且つ変人じみているのだから。


 今日明人は、噂の従妹がデザインした、我社オリジナルのキャラクター商品を開発する工程の、最終打合せという大事な局面を迎えようとしている。何種類ものナツメが作ったぬいぐるみを基に作られたそれらのキャラクターたちは、従妹の際立った才能を感じさせるとても愛らしい物で、ヒット作になるのは間違いないだろう。めったに人を褒めない菱沼ですらそう確信しているぐらいなのだから。だからこそ明人はその魅力を存分に活かせるよう、今日まで、この仕事に精魂込めて取り組んできたのだ。そして、その打ち合わせに従妹を同席させるつもりでいたが、どうやら朝の慌てようから察するに、その気まぐれで我儘な従妹と、さっきから連絡が取れないでいるのではないかと、菱沼はひどく呆れながらそう感じていた。


「社長。もしやと思いますが、ナツメさんと連絡が取れないのですか?」


 菱沼はわざと柔らかな声音でそう言った。さも、心配しているのだというように。


「え?……ああ、まあ、そう、だな。そんな感じかな……」


 弱々しい覇気のない声で言う明人は、彼にだけ二倍の重力が肩にのしかかっているのではないかと思ってしまうほど、ひどく落胆している。その姿は、常に自信に満ち溢れている明人を軽々と消滅させてしまう。ここまで明人を別人格にしてしまうナツメという人物のことを、菱沼はもうずっと前から気になっている。正直に言えば、今すぐにでも会ってみたいと思う。


「社長。会議までにはまだ時間があります。今から一緒にナツメさんの家に向かいましょう」 


「え? 今から?」


「ええ。きっとナツメさんは会議への参加に気が乗らないのだと思います。うちの会社の商品などまったく興味がなさそうですし」


「そうだよ。それは良く分かってる。俺の方が十分。ただ、どうしてもナツメの意見が聞きたいんだよ。物づくりのプロとしてのナツメの意見がさ。俺はね、ナツメが納得した物じゃないと商品にしたくないんだよ。俺が懇意に委託してる製造会社がさ、ナツメの作ったぬいぐるみのサンプルを基に、熱意を込めて商品化にしてくれたんだよ。それをどうしても見てもらいたんだよ。ナツメの目で、しっかりと」


 明人は身振り手振りを加えながら熱のこもった声でそう語る。菱沼に向かって言っているというよりは、ナツメの作るキャラクターたちへの思いが強すぎて、その溢れる感情をコントロールできない、コアな一ファンの独り言にしか聞こえない。


「じゃあ、なおさら会いに行きましょう。大丈夫です。今日がだめなら、また別の機会に会議を持てばいいじゃありませんか」


「そうだけど、ナツメは忙しいやつなんだよ。製造会社だってそうさ。やっとお互いの日程を調整できたのに」


 ぶつぶつと子供のように口をとがらせながら嘆く明人が異様に可愛い。


「……分かったよ。できるなら君からも説得してくれ。また、いつものように仕事に没頭し過ぎて、俺の会社の商品どころじゃないんだろうからな」


 明人は諦めたように深いため息をひとつつくと、自分のデスクから車の鍵を無造作に取り出した。


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