第1章
1 シャ・ノワール
桜の蕾が綻び始めた、まだちょっと肌寒いそんな日に、ナツメは自分の店をオープンさせた。
「シャ・ノワール」
そう名付けた店は、内装をすべてナツメがコーディネートしていて、その拘り方は尋常じゃなく、西野宮明人を辟易とさせた。
明人は朝から、ナツメの店の様子を伺に来ていた。ナツメはせっせと店の掃除をしたり、棚にある生地や部品を丁寧に並べ替えたりしている。
店内を一言で表すなら、少し地味なヨーロピアンテイストといったところだろうか。可愛らしさを強調するような少女趣味さはなく、どの年齢層の客が訪れても落ち着けるようなシックさと、元々木造である、この建物のウッド感を上手く利用している店内は暖かみがあり、三十路の明人でも違和感がなく居られるような優しさがある。悔しいが、明人はナツメのセンスの良さを、心の中でだけで褒めてやる。
ナツメの母の、一番上の兄の二男として生まれた明人は、ナツメと年の離れた従兄だ。二十歳になったばかりのナツメより十五歳年上の三十五歳。お洒落な輸入雑貨や生活用品を扱う会社のオーナー社長である明人は、都内のショッピングモールに「モン ビジュー」という名の雑貨店を展開し、そのセンスの良さから景気は上々だ。
明人は女性が好む雑貨というファンシーな世界観に、物心が付いた時から強く惹かれていた。可愛いキャラクターの文房具やぬいぐるみ、色鮮やかな花柄モチーフの食器類。スタイリッシュなデザインの生活用品などを目にすると、わくわくと胸が高鳴り興奮してしまう。いつしか、その溢れるほどの雑貨への情熱が明人を突き動かし、広告代理店に勤めていた二十代の頃に貯めたお金を資本金に、自分で会社を起業してしまった。
明人は目利きだ。女性の心を惹き付ける物選びのセンスは非常に卓越している。三十五歳にもなる男が、女性が好む雑貨類に限ってのみ目利きなのだが、明人はこの世界を、ためらいも恥じらいもなく愛しているので、会社の人間達は、明人の強烈なパワーに引き寄せられるように、各々の力を出し惜しみすることはない。
明人は、自分のこの女性的な感覚が周りから気持ち悪がられることを知っている。でも、そんなことなどお構いなしの堂々とした態度が、逆にギャップがあるなどと言われ、皮肉なことに女性に良くもててしまう。明人の女性受けする風貌も、オーナー社長という立場も、確かにもてる理由にはなるのだろうが。
店をオープンさせて一週間が過ぎたが、未だナツメの店に訪れる客はいなかった。それは当たり前だ。都心から僅かに外れた場所に建てられた、大型ショッピングモールの一角にある明人の店で、「シャ・ノワール」を大々的にコマーシャルしようとしたが、何故かナツメは、自分の店を強くアピールすることを拒んだのだから。
道路沿いにひっそりと「猫屋・シャ・ノワール」と書かれた看板を立てるだけでいいと、ナツメはそう言い張って聞かない。理由を問い詰めても、「それでいいの」の一点張りで話にならない。
それに、立地条件がイマイチなのか、人の来る気配がまるでない。この、明人の祖母が亡くなるまで仕立屋をしていた家は、駅からほど近い住宅街にある小高い丘の上に建っており、大通りからは分かりづらい。でも、小さな雑木林に囲まれたとても落ち着いたこの場所は、荒んだ都会の中の小さなオアシスのようだと思っている。それに、寂しさとか暗さはなく、心をふっと持って行かれそうな切ない空気を放っていて、不思議とロマチックな気分を味あわせてくれるのだが……。
この店のコンセプト。それは「自分だけの猫作ります」だ。客は、この店にある、ナツメが厳選した素材で作る、文字通りこの世にたった一つしかない自分だけの猫をオーダーする。ナツメは客と、まるでカウンセリングでもするかのように一対一で真剣に注文を取る。でも客は、猫の色も柄も形も何も選べない。猫のデザインは客のイメージに合わせて、ナツメがすべて行うからだ。そして、何より困ったことに、ナツメはこの特注猫を、言い値で売ると言い出したのだ。そのあり得ない申し出に明人は我が耳を疑った。
ナツメは九歳から十二歳まで、明人の祖母と一緒にフランスで暮らしていた。理由は小学校時代のいじめが原因だということを、明人は後から知り、ひどく胸が苦しくなったのを覚えている。
思い切って環境を変えた方が良いと判断したのは、明人の祖母だった。明人の祖母は日本で仕立屋をしていた後、フランスに移住して、そこで余生を送っていた。フランスでもたまに要望があれば仕立屋の仕事をしていたらしいが、フランスに移住してからの殆どは、孫であるナツメの面倒をみていたらしい。
その間、ナツメが明人の祖母からどんな影響を受けたのかは知らないが、ナツメの帰国後、明人は、ナツメの手先が異様に器用なことだけは強く理解した。
帰国後のナツメは、いじめによる心の傷を克服できたからなのか、それとも、それを忘れるためなのか、暇さえあれば指先を動かして、思いのまま気の向くまま、あらゆる表現方法でたくさんの「物」を作り始めた。粘土細工や、折り紙や、手芸。それらによって作られた物たちは、ナツメの手にかかると、まるで命を宿したかのように生き生きとそこに存在した。特にナツメは手芸が得意だった。花や動物などを可愛くデフォルメして作った物には特別な輝きがあった。
明人はナツメを、年の離れた初めての女の従妹ということで、異常なまでに溺愛している。明人は、ナツメのその常軌を逸した創作意欲を、少々不気味に思いながらも、良き理解者として温かく見守ってきた。それは、ナツメが作る「物」とその才能に、心の奥で強く惹かれていたからに他ならない。
この店のコンセプト。それは「自分だけの猫作ります」だ。客は、この店にある、ナツメが厳選した素材で作る、文字通りこの世にたった一つしかない自分だけの猫をオーダーする。ナツメは客と、まるでカウンセリングでもするかのように一対一で真剣に注文を取る。でも客は、猫の色も柄も形も何も選べない。猫のデザインは客のイメージに合わせて、ナツメがすべて行うからだ。そして、何より困ったことに、ナツメはこの特注猫を、言い値で売ると言い出したのだ。そのあり得ない申し出に明人は我が耳を疑った。
ナツメは九歳から十二歳まで、明人の祖母と一緒にフランスで暮らしていた。理由は小学校時代のいじめが原因だということを、明人は後から知り、ひどく胸が苦しくなったのを覚えている。
思い切って環境を変えた方が良いと判断したのは、明人の祖母だった。明人の祖母は日本で仕立屋をしていた後、フランスに移住して、そこで余生を送っていた。フランスでもたまに要望があれば仕立屋の仕事をしていたらしいが、フランスに移住してからの殆どは、孫であるナツメの面倒をみていたらしい。
その間、ナツメが明人の祖母からどんな影響を受けたのかは知らないが、ナツメの帰国後、明人は、ナツメの手先が異様に器用なことだけは強く理解した。
帰国後のナツメは、いじめによる心の傷を克服できたからなのか、それとも、それを忘れるためなのか、暇さえあれば指先を動かして、思いのまま気の向くまま、あらゆる表現方法でたくさんの「物」を作り始めた。粘土細工や、折り紙や、手芸。それらによって作られた物たちは、ナツメの手にかかると、まるで命を宿したかのように生き生きとそこに存在した。特にナツメは手芸が得意だった。花や動物などを可愛くデフォルメして作った物には特別な輝きがあった。
明人はナツメを、年の離れた初めての女の従妹ということで、異常なまでに溺愛している。明人は、ナツメのその常軌を逸した創作意欲を、少々不気味に思いながらも、良き理解者として温かく見守ってきた。それは、ナツメが作る「物」とその才能に、心の奥で強く惹かれていたからに他ならない。
ナツメの色素の薄い茶色の目にじっと見つめられて、明人は年甲斐も無く顔が赤くなるのが分かった。変な動悸と共に喉が詰まり、その先の言葉がなかなか出てこない。
ナツメの見た目は少し危険だ。肌の色も白く、身長体重は標準よりも下。華奢な印象は拭えず、いつも第一印象、周りから必ずと言っていいほど、頼りない儚げな存在として扱われることが多い。
髪型は、混じりけのない漆黒のストレートのロングで、いつも異常に艶めいている。背中まである長い髪で常に頬を隠しているからか、そうでなくても小顔な顔を更に小さく見せている。前髪を眉毛よりちょっと上で綺麗に揃えているせいで、年齢よりも幼く見える効果を、決して意図的ではないが発揮していた。
明人はいつも思っている。お願いだから夜道を一人で歩くことだけはしないでくれと。
「明兄……」
「うん? 何だ? どうした?」
「猫」
「は?」
「猫よ」
「猫? 何だいきなり……あっ、そうだ。猫と言えばだな、今まで不思議に思ってたんだが、どうしてナツメは猫のキャラクターを作らないんだ? 猫といったら古今東西、老若男女のハートをがっちり掴むキャラだろう?」
「作ってないわけじゃないの。むしろ作りすぎるくらい作ったわ。やっとね、なんとか納得のいく「猫」を作れたってことよ。それも……たった今ね」
「たった今?」
「そう。たった今」
「え? じゃあ、それはどこにある……」
明人がそう言いかけたとき、ナツメは膝の上に置かれた塊を両手で掬い上げた。
「これ」
「……うわっ、それ本物じゃないのか?」
ナツメの膝の上にいたのは、本物と見紛うほどリアルな黒猫のぬいぐるみだった。しかし、ぬいぐるみという表現は、この目の前の物に対してあまり相応しくないと感じた。それぐらいそれは、背筋がぞっとするほど黒々とした艶びく毛並みを、鮮やかに輝かせながら、くすんだ黄色い瞳で明人をじっと見つめているのだから。
「そ、それ、ナツメが作ったのか?」
「そうよ。やっとイメージは完成したの。ただ、これでもまだ完璧じゃない……」
「どういう意味だ?」
「私と契約するって言ったわよね?」
「ああ。言ったよ。本気だよ。俺は」
「……そう。でも、それには条件があるの」
「条件? って何だ?」
「明兄は、昔おばあさんが仕立屋をしていたあの丘の上の家を改装して、私だけの小さなお店を作って欲しいの。いつでもオープンできるように」
ナツメは、やや上目づかいで明人を見上げた。そんな顔で見つめられると、明人の脳内は一瞬でナツメ色に染まり、半ば無意識に頷きそうになるのを、頭を振ってなんとか食い止めた。
「駄目だな。ナツメが言ってることは全く支離滅裂だよ」
「……はあ。全然分かってないのね。明兄。私がこれからしようとしていることの意味が」
「ああ。さっぱりね。ばあさんのあの家で店を開くだって? どんな店なんだ? それに対するコストは? 全部俺に負担しろってか?」
「そう。だっていいの? この条件を呑んでくれさえすれば私は明兄と契約するのよ? というか、私は始めから明兄としか契約するつもりはないって言い換えた方がいいかしら? 私の才能を他の誰かに奪われたら嫌でしょ?」
その潔いナツメの顔に、明人は自分を納得させるだけの強い自信が宿っているのを感じた。そして同時に、ナツメがやろうとしていることが吉と出ても凶と出ても、明人がそれに強く興味を惹かれないわけなどやはりないのだ。
「ナツメ……お前の自信は一体どこから来るんだ?」
「分からない。これは自信と言うより、使命かな。やらなきゃならないって感じ」
「何をやらなきゃならないんだ?」
「店をオープンさせれば分かるわ。でも、先に謝っておくわね。私、会社経営のことは何も分からないから、一切ノータッチよ。ただ、この猿みたいな、私がデザインしたキャラクターのサンプルだけは作ってあげる。忘れないで。私がするのはそれだけよ。私はこれを作る仕事に没頭したいから」
そう言うとナツメは、自分の意志の固さを知らしめるように、もう一度黒猫を掬い上げて、明人をまっすぐ見つめた。
「猫か……」
「そう」
「何で猫なのかな……」
「さっき明兄言ったじゃない。古今東西。老若男女に愛されてるって」
「でも、世の中犬好きの方が多くないか? ちなみに俺は犬派だ」
「猫派は寂しいの。傷つきやすくて繊細で……」
明人はナツメの口元をぼんやり見つめた。その無垢な桜色の唇から発せられる意味深な言葉は、明人の脳をまるで洗脳するかのように、ぴりりと僅かな電気を引き起こした……。
あの時の記憶が明人の脳裏にまざまざと蘇る。あの時の自分は、確かにナツメがしようとしていることに興味が湧いた。そして、徐々に、やることなすこと、すべてが常識を越えている、この理解に苦しむ行動にはどれだけの意味があるのか。明人にはそれを見届ける義務、または使命感みたいな感情が、ついつい沸き上がってきてしまったことが、この店をオープンさせてしまった結果に繋がっている。
しかし、――会社経営のノウハウを知らない小娘にいいように振り回されている。あの娘は明人の若い愛人か何かだろう―― などと、何も知らない外野に陰口を叩かれながらも、明人は、取り敢えずナツメの店をオープンさせるために尽力してみたが、不安は拭えず、それが少々態度に出てしまっても許されるはずだと思いながら、可愛がっている従妹を、不本意ながらも不機嫌に見つめる日々は正直かなりしんどい。
「おい、ナツメ、しつこいかもしれないが、本当にこの店を赤字にしない自信があるって信じていいんだな? 今日も、お客一人も来ないぞ」
しんとした店内で、明人は半ば諦めの気持ちでそう尋ねた。
「あれ? その話前にもしたと思うけど? 私は最初からこの店を営利目的で始めた訳じゃないから。ごめんなさいね。明兄」
「ごめんなさいってな……ナツメは本当に我が儘な子だな。俺だからこうやって店をやれるんだぞ?」
「分かってる。これでも、すごく感謝してるのよ。ありがとう。明兄」
めったに見せない天使のような笑顔で、ナツメは明人にそう言った。
「珍しいな。こんなに素直なナツメは……」
明らかに動揺を隠しきれない自分に苛立ちながら、明人は今感じた胸の疼きを忘れるために、店の窓へと視線を移した。
雑木林の中に、一本だけ大きな桜の木がある。可憐な花びらが、風のせいではらはらと舞い散っている。それをじっと眺めていると、あの満開の桜の木が、やや神がかり的な輝きを放ちながら、この店を神秘的に演出してくれているように見えてしまうのは、自分の目の錯覚だと明人は思いたかった。でなければ、この家が、土地が、ナツメのせいで生気を取り戻しているように思えて、明人はそんな風に考えてしまう自分は、ただ少し疲れているだけなのだと、そう思うことにした。そして、カウンター奥の、壁の半分を覆うガラス戸付きの棚に綺麗に並べられた、多分採算が取れないであろうフランス製の高価な生地や部品類を恨めしく見つめながら、明人は今日何度目かの深いため息を吐いた。