前編 「音楽室で語り合った将来」
二学期最後のホームルームを終えた堺市立土居川小学校は、普段の賑わいが嘘みたいに静まり返っていた。
生徒の大半は通信簿をランドセルを背負って三々五々と下校し、先生達も職員室に引き上げてしまっている。
もぬけの殻となった廊下の壁や天井に、私達二人分の上履きの足音が反響する音を聞いていると、何とも寂しくなってくるよ。
この心淋しい雰囲気、正直言って居た堪れないなぁ…
「こないだのピアノコンテスト、優勝おめでとう!」
だから一緒に廊下を歩いているクラスメートに対して、つい饒舌になっちゃう私なんだ。
「音楽室を借りた放課後の自主練、千恵子ちゃんは本当に頑張っていたもんね。」
「ありがとう、万里ちゃん。私、万里ちゃんが自主練を見守ってくれて心強かったよ。」
黄色い通学帽からはみ出した長い黒髪を揺らしながら、千恵子ちゃんは上品に笑った。
ピアニスト志望の笛荷千恵子ちゃんは、堺市立東文化会館で開催された小学生向けのピアノコンテストで優勝を収め、ピアノ界の若き神童として注目を集めているんだ。
ここ最近は、地方新聞や音楽雑誌などの取材でメイクをする機会が増えたからなのか、急に大人っぽくなったんだよね。
「終業式の日も練習を欠かさないなんて、千恵子ちゃんは立派だよね。部外者の私がピアノ教室に同席するのはマズいけど、音楽室への付き添いならお安い御用だよ…」
「音楽室へ付き合って欲しいとは言ったけど、今日は練習じゃないんだよ、万里ちゃん…」
職員室から借りた鍵を回しながら応じる千恵子ちゃんは、何とも不思議な笑みを浮かべていたんだ。
校舎の廊下を歩いていた時に感じた寂寥の思いは、音楽室に足を踏み入れるや、不思議な程にピタリと収まっちゃったんだ。
音楽室にいるのも私と千恵子ちゃんの二人きりだけど、放課後の自主練で音楽室に二人きりになるのは慣れているからね。
だけど今日の音楽室には、普段の自主練とは別ベクトルの緊張が張り詰めていたんだ。
「本題に入るけど…万里ちゃんが登校の時に言ってた話、あれは本当なの?」
その緊張感の根源とも言える少女が問い掛けてくる声は、事更に慎重な口調だったの。
まるで、自分の口から出た一字一句の全てに責任を負うみたいにね。
「登校の時に言ってた話…?ああ、人類防衛機構への志願入隊の事ね!勿論、本当だよ!」
そんな千恵子ちゃんとは対照的に、私の方は至って気楽に答えたんだ。
「冬休み中には手続きが済むから、本格的に訓練が始まるのは新学期からかな。」
聞かれてもいない事までペラペラと喋っちゃったけど、別にやましい事なんて何もないからね。
だけど、余りにもあっけらかんとした私の返答は、却って千恵子ちゃんを刺激してしまったみたい。
「分かってるの、万里ちゃん?人類防衛機構に入隊するって事は、軍人さんになるって事だよ!何か起きたら、銃を持って戦わなくちゃいけないんだよ。」
「ちょ、ちょっと…千恵子ちゃん…」
いささか声のトーンが上がった千恵子ちゃんに、改めて言われるまでも無かった。
これから私が願書を提出する人類防衛機構は、女性だけで構成された国際的軍事組織で、その活動目的は、警察や各国軍隊の手に余る様々な脅威から人類社会を守る事なの。
前身となった大日本帝国陸軍女子特務戦隊の時代から、その崇高な理念と志は脈々と受け継がれているんだ。
「分かっているつもりだよ、私なりに。除隊したお母さんから、ある程度は聞いているからね。」
私の母である吹田栄喜穂は、今でこそ中学の音楽教師を生業にしているけど、若い頃は人類防衛機構の音楽隊に配属されていて、地域イベント等で演奏を披露していたんだ。
「危険と隣り合わせだし、楽しい事ばかりじゃない。だけど、『管轄地域の笑顔と平和を守れる』って遣り甲斐の大きさは間違い無し。お母さん、そう太鼓判を押してくれたよ。」
人類防衛機構に所属していた若き日の母の姿は、洋室に飾られた写真で幼い頃から見慣れている。
ビシッとした軍装に身を包み、秋の堺祭りでフルートを奏でている娘時代の母は、眩いばかりに溌剌としていたんだ。
その輝かしい青春の肖像は、母の言葉を裏付ける何よりの証だったよ。
とはいえ、千恵子ちゃんはまだ納得してくれなかったみたい。
「怖くはないの、万里ちゃん?テロリストや特定外来生物だって、死にもの狂いで攻撃してくるんだよ!怪我するかも知れないし、悪くしたら死んじゃうかも…」
どうやら千恵子ちゃん、私の身を案じてくれているみたいだね。
友達冥利に尽きるとは、まさにこの事だよ。
だからこそ、変なゴマカシはせず、正直に伝えなくちゃね!
「負傷や戦死が怖くないと言ったら嘘になるよ、千恵子ちゃん…」
幾ら強がっても、私だって人の子だよ。
死なずに済むなら、それに越した事はないじゃない。
しかし人間には、敢えて我が身を危険に晒さなきゃいけない時があるんだよね。
「私が本当に怖いのは、自分の大切な人の身に危険が降り掛かっているのに、何も出来ずに手を拱くしか無いって事だよ。」
「…っ!」
私を真っ直ぐ見据えた千恵子ちゃんは、言葉も無かったね。
ハッと息を飲む音が、音楽室の壁面に小さく響くばかりだったよ。
「北野田の東文化会館で披露してくれた千恵子ちゃんの演奏、素敵だったよ!千恵子ちゃんには、恐怖や心配なんかに煩わされずに、ピアノに打ち込んで貰いたいんだ。そのためなら私、どんな危険も怖くはないよ!勿論、他の友達や家族だって、大切だけどね…」
少し照れ臭かったけど、それ以上に爽やかな気分だった。
嘘偽りなしに思いの丈を口にするのって、こんなにも清々しくなれるんだね。