hurt.
――「ぼくを殺すの?」少年は暗がりの中に問いかけた。その先に立つ男は答える。「早く死にたいのか?」だが少年は闇に臆することなく続けて尋ねた。「どうしてぼくを最後にしたの?」「どうしてそんなことを聞く?」男は尋ね返した。「知りたいんだ。ぼくの、生かされているその理由を」まだ幼い少年Noé(ノエ)は、目の前にいる殺人鬼に向かってそう告げた――。
殺人鬼はもともと殺人鬼と呼ばれる男ではなかった。それどころか、この辺りで男の名前を知るのはおそらく彼の家族ぐらいだろう。だが、いまではその家族でさえ河の底で腐敗して口も利けなくなっている。男の認知度はこの国の国王よりは劣っているが、さながらどこかの美しき村娘よりは高いことが予想された。それこそ今週のワースト3位には入る勢いで、今日もちまたで噂に上げられているだろう。それが男には悪い気はしなかったが、ただひとつ許せないのは、そうして騒がれるようになってしまったせいで殺しがやりにくくなっていくことだった。彼は不満を感じていた。たまったストレスは酒や煙草では発散できなかった。昨晩もナイフを研いで夜道をぶらついたが月の下に影を落とすのは男以外にいなかった。この辺りの住人が少しずつ殺人鬼のことを警戒し始めている証拠だと男は悟った。
そうして一ヶ月が過ぎた。男は真っ赤な血だまりが恋しかった。悲鳴はいらなかった。断末魔を聞きたいわけでない男は、その日の夕方、どうしてか孤児園と看板が建て掛けられた場所に立っていた。ナイフは真っ赤な夕日に照らされ煌めいていた。泣き叫んで逃げる園児を後ろから勢いよく斬りつけると綺麗な飛沫が辺りに広がった。手にしているナイフは深紅としか言いようがない健康的な血で濡れて、男の手の中で輝いた。男は笑った。止めようとする大人の腕を振りほどき、逃げる子どもらを何度も斬りつけて斬りつけて、容赦なく斬りつけて、ふと我に帰ると残っていたのはたった一人だった。
一人だけ生き残ったのは男の子だった。その子はじっと男を見ていた。部屋の隅で小さな体を抱くようにしてうずくまり、じっとこちらを見ている。少年にかける言葉が見つからないまま男は刃物を振り上げた。このまま脳天を一撃で殺してやる。男は思ったが、その前に少年の方が口を開いた。「ぼくを殺すの?」少年は震える足で立ち上がった。誰のものか判別できない大量の血で靴底が濡れた。壁にも人の血が飛び散っている。だが少年はそんなこと気にも留めずに男だけを見ていた。男は顔に飛んだ赤い鮮血を拭って言った。「早く殺してほしいのか? 焦らなくてもそうしてやるところだ」男は数秒先の行動を認めた。少年は男がナイフの柄に力を入れるのを横目に見た。だが臆することなく再び尋ねた。「どうしてぼくを最後に残したの?」男はなぜそんなことを聞くのかと疑問に思った。いままでに一度も、誰から手にかけ誰を終わりに取っておこうとなどと考えたことはなかったからだ。「ぼくは知りたいよ。どうしてぼくだけが最後に生かされてしまったのか」「……もっと早く死にたかったと、そう言っているのか?」男は尋ね返していた。少年は「みんなが動かなくなっていくのを見てた」と言った。少年がなにを言いたいのかいまいち男には理解しかねた。そのまま言葉を待った。「友だちが殺された……死んでいくのは、怖いよ…………」「なにが言いたい?」男は欲望を満たす前に誰かとこんなに長く話をしたことはなかった。だから少し、イラついた。「次はぼく、次はぼくが殺されるって思って、ドキドキ……してた」言葉の数を知らない男の子にはそれが精一杯の表現だった。「でも殺されない、死ねない。ドキドキドキドキ友だちが斬りつけられていく度にドキドキドキドキ、ドキドキドキドキしてた」男はやっと理解した。少年は自分がその行為を堪能している間、ずっと部屋の隅で自分がいつ死ぬのかを考えていたんだろう、と男は思った。「いまもしているのか?」「……うん」男はヘンに思った。少年は殺されることをいやだと思ってはいないのだ。「俺が殺せばお前のそれは止まるのか?」「わからないけど、ドキドキしているのはたぶん生かされてるせい……」少年には覚悟する時間が長過ぎた。脈が速まって、止まるのを怖れるどころか徐々に死を待ち望むようになってしまった。男はどうしたものかと頭を抱えた。こんなことはいままで一度たりともなかった。自分に殺されてもいい人間がいるなんて。こんな奴に会うなんて。「……逃げないのか。面白くない」男はナイフをしまった。「殺さないの?」少年はドキドキして尋ねた。「あぁ、逃げない奴を殺すのは面白くない」男は踵を返した。家へ戻ろう。すると少年は帰る男の背中にしがみ付く。「どうして殺さないんだよ!」感情的な瞳が男に向けられた。「面白味がないからだ」放せ、と男はか細い腕を引っぺがした。だが少年は再び男に掴った。両腕には男に殴られて痣が出来た。「ぼくだけを生かすなら、最初からみんなを殺すなよ!」少年は男に理不尽すぎると叫んだ。「お前は殺さない。だがな――」その瞬間、少年は男によって振り上げられた右腕の不意打ちに気絶していた。「気が向いたら殺してやるよ。そのときまでお前を縛ってやる。……本物の恐怖でな」男はぐったりとした少年を肩に担ぎ、その場を立ち去った。
少年は気が付くと柔らかいベッドの上ではなく、雑に敷き詰められた藁の上に寝転がっていた。「まだ生きてる……」起き上がった少年は辺りを見回したがこれといったものはなにもなかった。そこは家畜小屋のようだったが豚や牛の姿はなかった。「どこだろう?」少年は明るい日差しが差す窓ガラスのない窓の側へ歩いた。窓辺からは野原が見えた。少年の住んでいた近くにはない景色だった。野原の向こうには森があるようで、近くには一軒の家がたたずんでいた。「気が付いたか」背後から声がした。よく知った男の声だ。「ぼくまだ生きてるよ?」少年は聞いたが男はその訳を口にしなかった。「ついてこい、飯だ」男が誘うまま少年は藁を踏みつけてついて行った。行った先は先程窓辺から見えた家だった。空き家だと男は言った。「なにもかもあなたのものじゃないんだね」少年は男の顔色を窺いつつも思ったことを言葉にした。「殺しも盗みも同じ頃に覚えた」男が言ったのはそれだけだった。「まだ名前を聞いてないよ。ぼくはNoé(ノエ)」少年は期待ともつかない眼差しで男を見つめた。「……Domingo」男はしかたなく応じた。だが本音は後悔だらけだった。殺そうとする獲物に自分のことを教えてどうするんだと、男は自分を叱咤した。「おじさんはどうして人を殺すの?」「俺にもわからない」差し出されたスープはあまいトマトの味がした。「このスープ、おいしいね」少年は笑って見せた。まるで昨日のことが嘘みたいだった。「Noé(ノエ)とか言ったな? お前、どうして俺から逃げない?」ひょっとしたらそのスープに毒が入っているのかもしれないのに、確かめもせずに口にして……男には考えられない、少年の世間に対する甘さが際立った。少年は口元を拭って話を聞く。「いつ殺されるかもしれない状況で、どうしてそう平然としていられるのか、俺にはさっぱりわからん」男はもっと警戒すべきではないのかと少年に問う。「ドキドキがしなくなった」「どうして?」「わからない……慣れたのかも」笑って見せるその少年は、しばらく自分が男によって殺されないことを知っているみたいだった。「スープが冷めちゃうよ。早く食べよう」少年はまた食事を始めた。
お腹がいっぱいになったときにはすでに日は沈みかけていた。少年はこの家の持ち主がすでにいなくなっているのをどこかで感じ取っていた。「ここに独りで暮らしていたの?」少年は男が湧かした風呂に浸かりながら尋ねた。「あぁ。……もう少しそっちに詰めろ」少年はこんな風に大人と風呂に入ったことはなかった。両親はいなかった。覚えのない頃から孤児としてあの園内で暮らしていたからだ。だからこんな星が落ちそうな夜の空を知らないでいた。「キラキラしてるね」少年は夜空に弱々しく輝くそれらを眺めていた。「ドキドキしてるよ、いま」まだ無垢な少年の笑顔がDomingoには、たまらなく卑しかった。彼は違ったからだ。彼も少年と変わらなかった。この世に生まれ落ちた自分のことを、親は悲哀と同情の目でしか見ようとしなかった。同じ屋根の下にいながら、すれ違いの日々が続いた時期があった。それはまるで擦り切れる彼の神経を模していた。男は二人分の鼓動で揺れる湯船を見た。そこに映る自分は虚ろな目をしていて、まるでこれまで殺してきた死人のようだった。「俺はまだ死んじゃいないぞ」少年はいきなり横から首を絞められた。驚愕と信じられない気持ちが溢れた。「みんな殺してやる…………」耳元で囁かれたその一言は、少年に一層の恐怖を教えた。手足をバタつかせてもがく。草が湯を飲んだ。「Do、Domingo !!」一瞬の手の緩みにそう叫んだ。そしてだんだんと絞まり上げられていく彼の手をNoé(ノエ)は爪で引っ掻いた。だが年端もいかない子どもの力が男に敵うはずもなかった。少年は孤児園のことを思い出した。友達が目の前で動かなくなっていくのを見た。誰にも止められないんだと感じた。それは男より力がないから。少年たちは敵う術をまだ知らなかった。少年は薄れる感覚の中、男の頬に手を差し出した。柔らかな指先が冷たい男の頬に触れる。男がそのとき見た少年はほほえんでいた。まるでありがとうと言っているかのようだった。「Noé(ノエ) !!」力なく前にだらけてピクリとも動かなくなった男の子の名前を男は叫んだ。頬に感じた少年の温かさはもうそこにはなかった。「Noé(ノエ)、Noé(ノエ) !!」男は野原に少年を横たえ胸を圧迫した。殺したことはあっても、少年のように生かしたのは初めてだった。それもいまこの手で殺してしまった。それは間違いだと男は思った。この少年は生かすべきだ。殺しならまた別の人間で楽しめばいい。男は何度も何度も胸を圧して、少年が息を吹き返すのを願った。「……ぅ」微かな息をする音が聞こえた気がした。「Noé(ノエ) !」名前をもう一度口にすると少年の目が薄く開いた。「……Domingo、寒い……」湯冷めしたのであろう少年は体を小さく震わせた。「悪かった。悪かった……」少年を抱きかかえ、男は涙を流した。少年の命が助かってよかったと安堵する気持ちと少年を手にかけてしまったことへの罪悪感でいっぱいだった。「ねぇ、空を見て」少なくなった湯の中に二人は体を再び浸けると、少年が言った通りに男は空を見上げた。「きれいだね」少年はそう、何事もなかったかのように振る舞ったが、男は不安で胸がいっぱいだった。男は少年にこちらを見るよう言った。「どうしたの?」少年は見た。男は「すまない」と謝った。少年は首を縦に振り、「いいんだ」とだけ言った。腕の痣に加え、首にも指の跡がくっきりするほど青痣となって残っていた。「眠いよ。そろそろ寝よう?」Noé(ノエ)はDomingoを許してあげた。ぼくたちはたぶん、もうお互いを離れられない。少年はそう確信していた。
朝になって昨夜の隣りの温もりが布団から消えていることに気が付いたDomingoは慌てて飛び起きた。逃げられたかと焦って靴を履こうとした。しかしいつもベッドの脇に脱いでいる靴がない。どこに行ったのかと探していると家の表の方で誰かが鼻歌を歌っているのが聞こえた。「なにをしているんだ?」「Buenos días、Domingo! いい朝だね」そう爽やかな挨拶をした少年はピカピカになった靴を自慢げに男に見せた。「血がこびり付いていたから洗ったよ」と言った。「飯にするぞ」男はひとまず安堵し家の中へ戻った。朝食は二人で作った。少年は慣れた手付きで料理したが男はこれまでそれ相応のことしかしてこなかったために少年の指示で動いた。「この家の元の持ち主はきっと料理好きだったんだね」大抵の調理器具が揃っていると学者になった気分で少年は指摘した。「できたよ。サンドウィッチ」二人は卓に着いて、今し方作ったそれを頬張った。するとパン生地に挟んだ赤いトマトが口いっぱいに広がった。
朝食を終えて一息ついたところで、男は厳しい口調で少年に告げた。それは彼自身の過去に関わることで、少年の将来に対する忠告でもあった。「どうして?」なにも知らない少年は聞き返した。「現実を知るとお前もいつか、そうなるんだ」どうなるというのか、少年にはそれがわからなかった。でもまだ幼い彼にはそれでよかったのかもしれない。男はもう一度言った。「Noé(ノエ)にもいつかわかる日が来るさ」彼らしい曖昧な表現だった。「ところで、今日はどうするの?」毎日毎日なにをしているの? と訊いた。「好きなことを」と男は言う。「それじゃあ今日はなにをする?」「好きなことをすればいい」「ぼくはもう逃げないって信じてくれてるの?」少年のその問いに男はすぐには答えなかった。少年はまだ疑われているのだと思って、違う質問をした。「ぼくのこと嫌い?」「嫌いじゃない」男は返事をした。でもそれ以上なにも言わない。「ぼくはDomingoのこと好きだよ。……この傷も消えていってる」首元を指差し言った。「すまない……」Domingoはそう言って目を伏せた。「そうじゃないんだ。もうあなたは謝ったから、ちゃんとぼくに謝ることができたから……ぼくのことも、信じてみて?」男は少年の真摯な眼差しに打たれた。そうしてから心の中で、信じてみたいと思った。「そうだ、今日は散歩に行こうよ」少年は家を囲む緑の丘を男と二人で歩いてみたいと言った。「なにもないぞ?」Noé(ノエ)はミルクをすする。作りたての白い髭を残したまま「なにかあるよ! ぼくはDomingoと見たいんだ!!」瞳を輝かせた。
少年は野原を駆け抜けた。その先には森があり、緑の草が深緑の色へと変わっていた。空は真っ青で、日差しがきつかった。けれど少年は丘の上に寝転がり、東方の森と東西南北に広がる青天を見て、それから男を見た。「とってもいい天気だね」と言った。男は不思議な気持ちに打たれた。なんだか少年のことを殺さなくてもいいかもしれないと思った。でもすぐにその考えは打ち消された。なにを血迷ったことを……。男は人殺しが好きだった。これからもその性癖は変わらないつもりだ。銃口から香る硝煙やナイフの刃をつたう人の血は、世界を鮮やかにしてくれる。男はそれらから遠ざかれない。これは運命だ。だが、少しくらい少年を後に残していてもいいかもしれない。男は、少年を手にかけるのを最後の楽しみに取っておくことにした。
彼は時々、どうしてだか砂漠か水溜まりの上に立っているような気分だった。孤独な苦しみがじわじわと、胸の内から傷め付けていた。風に吹かれればあっという間に倒れそうだった。同時に心は折れて、二度と温もりなんか感じられなくなりそうで怖くなった。恐怖だけはまだ彼の中から消え去っていない。しかし快楽は彼の内に静まって満たされているようだった。埋まったままのそれは、いまは風化しているのではないかとさえ錯覚できる程に。
二人は森へ入った。そこら中の草木が鬱蒼と茂り、分け入るのには苦労がいった。けれどもNoé(ノエ)は聞かなかった。さっささっさと自分を置いて前を行く少年の背中を見つめながら男は思った。確かこの先に死体を埋めたはずだ、と。そう思い出して、男は急に少年を止めたくなった。少年の足取りは軽く、まだまだへたばる様子はない。「Noé(ノエ)!」男は厳しい顔で小さな純白の背中を止める。「そっちは危ない……帰ろう」向かい合わせになって互いの眼を見た。「ぼく、こっちの方が見たいんだよ。もう少し……ね? もう少しだけ、いいでしょう?」男は考える。死体を埋めたのは事実だ。だがそれを見つけるのは、この茂りようでは困難だろうと。「……わかった」少年はまた彼に背を向けた。
森を深く分け入ったとある場所。その近くには小川が流れているだけで、周囲はどこもかしこも同じ風景だった。だけれども覚えている。かつてこの場所に、男は死体を二体……自ら手に掛けた老夫婦を埋めた。固い土を掘り返して木の幹に寝かせていたそれらを担いで乱暴に穴に落とすと、また土を被せる。すべての作業を終える頃には日暮れになっていた。「これでいい」男は二つの命を奪って、その命が住んでいた家に住みついた。いまいる家がそうだった。大丈夫、こいつは俺の過去を知るわけがない。死体はこの手で完全に埋めたんだから……。Domingoは手に汗握る思いで少年の後を追う。そんな男をよそに、少年は小鳥のさえずりを聴いていた。……少年はこれっぽっちも知らないのだ。彼の生きた、過去を。
二人は大きな樹の幹に腰掛けた。「ちょっと疲れちゃった」「休んだら、うちに帰ろう。雲行きも心配だ」少年は鼻歌を歌い始めた。「それ、なんていうんだ?」Domingoは少年の静かさに優しさが感じられる曲の名を訊いた。「Amazing graceって言うんだ。みんなでコーラスするんだ」もうできないけれど。少年は視線を落とした。「だったら、歌えるんじゃないのか?」少年は首を振る。「歌えない。ぼく歌下手だから」「そんなことないさ。聴かせてくれよ、お前の歌声を聴いてみたい」そう押されて、少年は恥ずかしさにまた俯いて押し黙った。その様子を男はじっと見ていた。少年がどう返事を返してくるのか、男にはわかっていた気もした。「じゃあ………ちょっとだけなら……」少年は咳払いをして、その場にすっくと立ち上がる。それからDomingoをちらっと見て、すぐに視線を逸らした。「ヘタだって、先に言ったからね」そう言ってNoé(ノエ)は大きく息を吐いた。彼らの周りには他の誰もいない。二人だけの空間が広がっていた。小川のせせらぎ、小鳥のさえずりもこのときばかりは少年の声を優先して、慎んでいるようだった。「――A-me-zing gra-ce……ho-w swee-t the sound…………」神の恩恵を知る少年はその身体に天からの光を浴びて、さながら天使の様だった。自信なさげだった声も、歌い終える頃には自信に満ち溢れていて少年は笑顔だった。「すごいじゃないか」男は照れて笑う少年に拍手した。「ぁ――……」男のその姿に少年は記憶の底に眠る父親を見た気がした。「…………パパ」男は聞き間違いかと思った。「パパ。ママ……」少年Noé(ノエ)に笑顔はなくなっていた。Domingoは己の耳を疑いながらも、確かに少年が口にしたその言葉に嫉妬した。だから殴り付けたのだ。少年の瞳には男など映っていなかった。「パパっ……!」男は気に食わなくて。Noé(ノエ)がほほえまないのが悲しいのと、彼の瞳が虚空を映しているのが寂しいのと、また独りになってしまいそうで不安なのとが混ざって、八つ当たりした。彼は綻びをどう結び付けるか、その手段を問わない人間だ。「どうしてだ……どうしてっ……!」どうしてこの子は俺だけを見ない!? どうして俺がこんな気持ちにならなくちゃいけないんだ! 「Noé(ノエ)! Noé(ノエ)!! 俺を見ろ! 恐怖しろ! 俺に縋り付くなりなんなりして俺にだけほほえめよ!! なぁNoé(ノエ)!!」しかし男の声は彼に届かない。彼は人形のように男に殴られているだけ。微かに開いた口からは「パパ……ママ……」男の気を引くような言葉は紡がれなかった。そうしているうちに、ぽつぽつと雨が降り始めた。カラカラに晴れていた青空は男のこころをそのまま現実にしていた。男はまたしても拡がる闇を、己の内に見た。そうして、闇に浮かんでいるのはいまも昔も変わらない――Domingoは苦笑した。雨の中、ずぶ濡れの二人。少年は男の玩具だ。なすがままされるがまま、その姿に抵抗する気持ちも宿していないようだった。そうだ、初めから少年は男に人生を求めていなかった。「わかりきっていたことじゃないか!」男は大声で笑った。男の中では歓喜と狂気が一体化していた。雨のせいで森に響きもしないその歓びは、男を一層寂しくさせた。殴られて倒れた少年は雨に打たれながら、泥塗れになってかすかに息をしていた。へばり付いた服は気持ち悪くて、でもそれより体温を奪っていた。冷たいのは体なのか、それとも身体の内側が寒いのか。男はもう少年を殴る気にはなれず、少年はただ冷たい雨に身体を震わせていた。男は空を見上げる。木々の間から覗かせるそれは暗い色をしていた。はぁ……と、男はため息をついた。そうして「帰るか」無口な少年に言った。少年から返事はなく、その場から立ち上がろうともしない。「帰るぞ」今度は命令口調で言った。「おいてくぞ」呆れた声で言う。「…………」地面に跳ねる雨の音だけが辺りに響いていた。
どこで狂ってしまったんだろう……。少年はこころの奥で考えていた。脳だけを動かして、呼吸している生き物だった。誰かが側で何かを言ってる。こんな風にしか男のことを認知できないでいた。“おいてかないで……パパ”寒さで声にならなかった。視界に映るのは自分ではない誰かの靴と、泥だらけの自分の身体。それとあとはずぶ濡れた世界。徐々に眩んで行く視界をおかしく思いながらも少年はこころだけを動かして思い続けた。“独りきりはいやだよ。ぼくをおいていかないで”。……悲しい中で思い出すのはいつも園内での楽しい出来事。それはいまの自分を救ってくれたり励ましてくれたりした。友だちが好きだった。一緒にはしゃいで一緒に怒って、一緒に泣いたんだから。わからない部分も見えない部分も、みんなで考えれば答えは出る、そう教えてくれた先生たちがいた。毎日が楽しくて、決められた一日じゃ足りないときもあった。パパやママの顔は覚えていなくとも、先生たちの自分に対する愛情で日々を埋めていった。だからちっとも寂しくも悲しくもなかったんだ。世界が理不尽だって難しいこと言う子もいたけど、ぼくにとって世界は広くてキラキラしてた。そんなものだったはずなのに、いつの間にかぼくは世界を疑るようになっちゃった……大切な人を奪う世界は、ぼくは嫌いだ。
男は人形になりきる少年のことを放っておこうかと思った。しかしこのままここへ残していけば、間違いなく彼は風邪を引くだろう。殴ったのは自分だ。こいつが生きている限り俺は責任を取らなくちゃならない。男にはそんな気がした。だからぐったりとしてダレた腕を掴んで、担ごうと抱き上げにかかったときだ。膝を付いて地面に視線を落としたとき、少年の倒れていたところの、ちょうど背中の部分にあたるところに白いものを見た。あぁ、これは、と思った。白くて細い何本もの突起は地面から生えていた。先へいく程に細くなっているそれは、磨り減ったのか獣に食われたのか、途中で不自然になくなっている箇所もあった。それらはかつてここに埋めた肢体の指先だった。見知った骨だ。きっと雨で土が流れて出てきちまったんだな。男は構わずに少年を抱き上げた。ここへ来るまでは訪れてはならない禁忌の場所みたく思っていた男も、このときにはどうでもよくなってしまっていた。もうこいつは気付いている。俺は殺しを止められない。
覚えている限り、父親は飲んだくれのクズだった。酒癖が悪く、彼が寝付くまで自分は殴られていた。身体中痣だらけ。ひどいときには骨折だっていくらかあった。けれど、母親は昔はたぶん優しい人だった。途中で、どこかで別人に変わってしまったけれど。優しく頭を撫でてくれた母親はいつしか喚くようになっていた。父親に対してか息子に対してかはわからない。社会の不満が積もりに積もって本音だけを晒すようになった親。自分が生まれたことに意味もない、そんな気がしてならなかった。殴られるより、罵声を浴びる方がよっぽど堪えた。優しい手は厳しい手に、優しい言葉は罵声に。昼も夜も構わず、自分が息をしているのかさえあいまいになるくらいの不安と居心地の悪さに吐き気を覚えた。あぁ……。これほど苦しい思いをするくらいなら、もういっそ。それは、彼にとって初めての深い夜。本性を曝け出すことがとてつもなく快感に思えたその瞬間。青年は唯一の血の繋がりを持つ人間を滅多刺しに刺殺した。――Domingo、青年にそう名付けたのは、皮肉にも彼らだった。
「入れ」男は少年を風呂へ入れた。少年は終始うつむいたままで、なにも言わなかった。「皮肉の一つくらい言ってみせろ」少年には飽きがきていた。殺しどきを考える頃か、男は髪を洗いながら思った。それから、ぼそっと「挽肉のスープがいいかもな」そう言って、我ながら絶好の調理法を思いついたものだとニヤついた。すると、少年の身体がビクッと跳ねた。そうしてNoé(ノエ)は顔を上げてこう言う。「……ぼくを殺すの?」瞳から涙が溢れていた。それから涙を止めずにしゃくりあげて続けた。「ぼくを、とうとう殺してくれるの?」希望か絶望か、瞳の色は濃い藍色で、男をしっかり捉えていた。しかし根本的に違った。この男に人肉を食べる趣味などなかった。挽肉にすると言ったのは本当だが、少年を殺して食べるという意味ではなかった。以前から取って置いた羊の肉をどう調理するか、という意味だった。それを少年ははき違えて、勝手に男を解釈して、男は迷惑だと思うと同時に嫉妬した。お前は俺のものだ。なのに、どうしてお前は断りもなく死にたがるんだ。「そんなに死にたいんなら、俺が殺してやる。だがそれは、いまじゃない」さっきのは昼飯の話だ、と付け加えた。「ははっ……」少年はかすかに笑った。「……?」「なんだ。まだ死ねないんだね、ぼく」まるで廃人になったかのような言葉を少年が口にして、男はまたムッときた。「生きているのに……せっかくこうして生きてるってのに、どうしてお前は喜ばないんだっ!!」その言葉を言った途端、男はかつて自分がそうだったことを思い出す。あ――そうだった。前は俺もこんな感じだったんだ。世界が悪いんじゃない。生きている俺が悪い。そうしてたどり着いた答え。――――生まれてきて……「ごめんなさい……」運命と割り切るのは至極簡単なことだ。だけれど俺たち人間は弱くて脆いから。だからこそ他人とのいい関係ってのを好むんだ。……そう、俺たちが殺し合うような関係なんてのを、俺は望む。「だったら、Noé(ノエ)、お前が俺を殺してくれるか」「ぇ……?」少年は顔を上げた。男の次の言葉を待つ彼。「お前に殺してほしい。俺がもう誰かを傷つけなくて済むように」言葉の奥に裏返しの愛情。「ぼ、ぼくに人は殺せないよ……」「殺せるさ。簡単なことだから」男は自分を見てくる少年の頭を撫でながら言った。「やるんだ、Noé(ノエ)。もう俺は、過去を背負って生かされるのはまっぴらだ」男は裸のまま、心臓を指さした。「ここだ。ナイフでもいい。一瞬で終えるのには銃でもいい。扱い方が難しいと思うなら、最後に教えてやるから。どんな方法がいいか選べ」そう言いながらも男は滑稽だと思っている。殺人鬼が子どもに殺し方を教えてるって? 冗談にも程があるぞ。「やだ。できないよ、そんなの」Noé(ノエ)は首を横に振っていやがるが男は聞かなかった。だからナイフを軽く胸に当てて少しだけ皮膚を裂いた。「ぁ……だ、だめっ!」少年は彼を切り裂くナイフを、彼の両腕から切り離そうとした。しかし、それこそ男の狙い。少年が男の手に触れた途端、男はその小さな手を握ってナイフの柄を持たせ、続いてその上から男自身も強くナイフを握った。「あっ――――……」ほんの一瞬の出来事。「これでもう、怖くない……だろ?」男の口元は笑っていた。刃は男の胸を数センチ貫いていた。少年は「いやだ。こんなのはいやだ……」くり返しくり返し、涙を溢して悔しがった。しかし時間は残されてはいなかった。刃から滴り落ちる黒い血は少年の手から腕へとつたって草にぽたりと男は視界が狭まり、ついに暗転したのを覚えた。それは幸せへの近道。もうこの先、Noé(ノエ)が世界に不安を覚えなくて済むように。殺人鬼の最期の願いはそんなことだった。
男は目が覚めた。光に包まれた穏やかな風がよく通る、爽やかな午後。身体は不思議と軽かった。こころはこれまでの重みを失くし、優しく波打ちながら彼の中にあった。「……ここは……」身を包む柔らかなシーツからそっと起き上がった。辺りを見回し、ハッとする。そこは自分が幼い頃にいた部屋だった。「まさか……」男はこの部屋唯一の扉の取っ手を回した。ガチャリ、鍵の掛かっていないその戸を開けると、その先には父親の姿があった。母親の姿もあった。二人はこちらへほほえみかけ、母親は「ご飯よ」と言った。男はその言葉に従って父親と向かい合うように食卓に着いた。「父さん……?」彼がそう言うと、父親は「なんだ?」と一言だけを優しく返した。「今日は……お酒……飲まないの?」恐る恐るそう訊いた彼に父親はハハッと笑ってこう返す。「父さんは、お酒は飲めないよ? お前知らなかったのか?」すると母親も、ぐつぐつと煮込んだトマトスープをテーブルに置くなり「ところで、Domingo。あなた、こんなところにいていいの?」出かける時間よ、と言った。「え? どこへ?」そう訊き返す彼に母親はただほほえんでいるだけだった。男はおかしいと思った。慌てて立ち上がって、こんなことがあるはずないとも思った。「ほら、さっさと行きなさい。ここにはいつでも戻ってこれるでしょう?」背中を押されて、男は姿勢を崩した。視線が下を向いたと思えば、次に顔を上げて見たのは、天上の隅に蜘蛛の巣が張ってある見慣れたところ。そうしてすぐにここは自分の家だと気付いた。身体の痛みを目覚めて知って、その激痛に眉を寄せた。それが少し収まると男は首だけを動かしていま自分がベッドの上にいて、少し考えてから答えを出した。「……死ねなかったのか」ぼそり、そう言った彼はふぅと息を吐いた。「Domingo!!」ふと、横から顔を出したのは見間違うはずもない、Noé(ノエ)の顔だった。「Noé(ノエ)……」あぁ、泣いているのか? 結局自分は死にきれなかったな、と思うと同時に、まぁ……それも悪くないか、と思った。「Domingo……?」「ん……少し、疲れた……」「ん、寝てていいよ。ぼくがずっと側にいるよ」少年は自分の手を彼の手に重ねた。「傷は少しずつだけど、癒えていってる」「そうか……」Domingoは少年の優しい響きのする声を聞きながら瞳を閉じる。「あなたを、ぼくは死なせたりなんかしない」耳元でそう囁かれて再び瞳を開く。「あなたは言った。“殺していいのはぼくだけ”。だけど、ぼくはDomingoと一緒にいたい。ずっと……一緒にいたいんだ……」少年は泣き出した。丸い頬を涙がつたって、薄黄色のシーツを濡らした。「泣くな、Noé(ノエ)」重い腕を持ち上げ男は少年の頭を撫でてやった。「……なぁ、Noé(ノエ)」「……ん?」ぐすぐすと止まらない涙と鼻水をすすって、少年は男の目を見た。この大きな碧い目に見つめられるのはいいな、と男は思い、そして「一曲、歌ってくれないか?」そう頼んだ。「うん、いいよ」Noé(ノエ)はその場に立って、けれども繋いだ手は離さずに強くに握ったまま、お気に入りの曲を口ずさんだ。男はそれを隣で聞きながら、まぶたを閉じた。そうして精神が沈むのを感じ、暖かい陽だまりを肌で感じて眠った。
「――――Domingo……!?」歌い終えたNoé(ノエ)はいままでにない穏やかな顔で眠る男に焦り、声をかけた。「………………Noé(ノエ)…………」夢の中で名前を呼んだ男に少年はほほえむと、握っていた手を解き、彼がいつ起きてもいいように少年Noé(ノエ)は夕飯の支度を始めるのだった。そしてその晩、男が目を覚ますと、どこからか香るのはいつかの我が家のにおい――人里離れた緑の丘の一軒家には、トマトのあまい香りが漂っていた。
おしまい