7 カフェでの修羅場
「さて、こんなもんでいいかな。あとは職場でまとめるよ」
フィリオはペンを置いた。店主に渡すレポートの叩き台が完成したらしい。
メニューの分かりやすさやコストパフォーマンス、接客態度について、私以外の意見もたくさん拾えたようだ。見た感じ、良いところの方が圧倒的に多そうだ。このお店の前途は明るいのではないだろうか。
「職場……聞いていいのか分からないけど、フィリオさんはどこに所属しているの?」
紅茶を味わいながら目を細めた後、フィリオは頷いた。
「俺は今、国王陛下直属の私兵部隊に所属している。陛下の手駒だな」
「手駒……」
「簡単に言うと、陛下の采配一つで動いて、法律や軍規にも縛られない集団って感じかな。高階級の超能力者が集められていて、非合法な諜報をすることもあれば、超能力の可能性を広げるという名目で馬鹿な実験をすることもある。軍や騎士団や警備隊とは違ってかなり自由だよ。その分、面倒な仕事が多いんだ」
そして暇な時間も多い。見かねた国王が神殿からの依頼を持ってくるほど。
「高階級の超能力者を遊ばせておくのは勿体ないから、国民のささやかな願いを叶えてやれと仰せだ。まぁ、楽しい仕事だな。今のところは」
「そう。すごいのね……」
超能力は国家のために使うもの。
そういう認識はもちろんあったけど、実際に国王陛下のすぐ近くで働く第一級の超能力者を目の当たりにして、分かりやすく劣等感を持った。
同じ階級なのに、私は全くの役立たずだ。
「ミュゼットは、超能力で国の役に立ちたいんだ?」
「ええ、まぁ……できるものなら上手に使えるようになって、何か意味のあることをしたいわ」
「超能力は使えば使うほど、それを持たない人間に怖がられる。それでも?」
私は迷いながらも頷いた。
「それでも……私にしかできないことが、あるかもしれないから」
どうせ使っていない今でも怖がられている。なら、使って怖がられて、ほんの少しでも自己満足に浸れた方がマシに思える。
数年前、土砂崩れの現場から人命を救ったとき、確かに私は自分の力を誇らしく思えた。
あの瞬間だけは、私は化け物ではなかった。
「それにね、よく考えたら不公平だと思うの。あなたにばかり迷惑をかけてしまう。もし、その……結婚することになったら」
お似合いで、お互い様の関係。
それは私のイメージでは対等ということだ。
彼が力を使いこなしているのなら、私ももっと上手に力を使えるようにならなければ。
助けてもらってばかり、許してもらってばかり、そんな関係は嫌だ。いつか苦しくなる。
「ミュゼット。あなたは意外と――」
何かを言いかけたフィリオだが、弾かれたように立ち上がって何もない壁の方を見た。
「うわ、ヤバい」
「え、何?」
そのとき、半個室のあるスペースから大きな声が聞こえてきた。
「どういうこと!? その女誰よ!」
その一言で店内にいる人間は一斉に察しただろう。
私とフィリオは顔を見合わせ、扉を小さく開いて様子を伺うことにした。お行儀は悪いけど、気になって仕方がない。
一人の女性が、座ったままの男性の胸倉を掴んでいる。同席しているのは、また別の女性。
修羅場。三角関係。痴情のもつれ。
初めて見た。
「ちょ、やめてくれ。こんな場所でみっともないだろう」
「はぁ!?」
「離してくださいっ。彼が可哀想!」
「何よ! あんたは黙ってなさいよ!」
もう大騒ぎだ。
フィリオはうるさそうに顔をしかめている。発せられている感情が大きい分、心の声が強く響くのだろう。
「はぁ、馬鹿な男だな。浮気するなら、行動範囲が被らないようにしろよ……」
「そういう問題かしら」
自分でもびっくりするくらい冷たい声が出た。
鉢合わせしなければいいという問題ではない。浮気そのものが絶対に許されない行為だわ。
それとも何?
フィリオの感覚では、バレなければ何をしても構わないってこと?
それはあまりにも不誠実ではないかしら。
「ミュゼット。無言で睨みつけながら、心の中で詰るのは怖い」
「…………」
「ごめん、失言だった。もちろん俺は、ミュゼットと結婚したら浮気なんてしないから」
真っ直ぐ見つめられて、私の心臓が跳ねた。
「べ、別に……私たちの話はしてないわ」
……なんて、戯れていられたのはこの時までだった。
修羅場は着実に悪化の一途を辿っていた。
「お客様、どうか落ち着いてください!」
店の奥から出てきた中年男性が必死で宥めているが、女性二人の耳には何も入っていないようだった。可哀想。
「あんたは遊ばれてるだけよ!」
「遊ばれてるのはそちらでしょう? 私が本命よ!」
「は!? ちょっと、黙ってないで何か言いなさいよ!」
「え、いや、その……」
「どちらか選びなさい! 今ここで!」
浮気男が女性たちを見比べている。そして、自分の胸倉を掴んでいる女性を苦しげに見上げた。
「エミィ、すまない。彼女とは結婚の約束をしている。きみよりずっと優しくて、高貴な女性なんだ。だけどきみがあまりにも可哀想で、言い出せなくて……」
ひどい。
もう少し言い様があるだろうし、せめて場所を変えてから告げてあげて欲しい。
彼女は大恥をかいてしまった。
「あ、まずい、彼女、念動力持ちだ……」
フィリオが呟いた途端、エミィと呼ばれた女性は男から手を離し、ふらつくように後退した。
「なっ、何よ、それ! 許せない!!」
陶磁器が割れる音が響き、店内に悲鳴が上がる。
そして、湯気の立つティーカップやその破片がエミィの周りに浮かんだ。念動力に籠った殺気が私にまで伝わってくるような気がした。
「やめろ!」
フィリオが飛び出したのが見え、私は咄嗟にその背に手を伸ばした。
浮遊物が男とその向かいに座る女性に降り注ぐのと、フィリオが割り込むのはほぼ同時だった。
――ダメ!
フィリオが怪我をするところなんて見たくない。
そのとき、空気が震えた。
「あ、ああ……」
ティーカップも無数の破片も、宙でぴたりと静止していた。
エミィは力尽きたようにその場に座り込んだ。店内も水を打ったように静まり返っている。
――ミュゼットか?
ふいに頭にフィリオの声が響いた。精神感応で心の声を送ってきたらしい。
驚きのあまり浮遊物がブルブルと震えた。
――今は、話しかけないで……割らないように降ろすから。
慎重に浮遊物を机に降ろしたとき、私もまたその場に座り込んだ。
唖然とする店内の隙をついて、フィリオがこっそり戻ってきた。私の念動力だとはバレていないみたいだ。
「大丈夫か?」
「ええ、でも、疲れたわ……」
第一級の大きすぎる念動力で、他人の念動力に支配された繊細な陶磁器を扱った。一瞬でものすごく神経を消耗してしまった。
フィリオの手を借りてなんとか立ち上がる。
「ミュゼット、助けてくれてありがとう。でも、防御壁を張った方が楽だったんじゃないか?」
「あ」
「ふぅん。無意識にティーカップを割りたくないと思ったみたいだな」
このお店の素敵なティーカップを割りたくなかった。だけど、それだけじゃない。すぐに思い浮かんだのは最後にクルトに会ったときのこと。
念動力で物が破壊され、誰かが怖がる。そんな光景をもう見たくなかったのかもしれない。
お店の人が連絡したのか、エミィは警備隊に連行されていった。自分がしたことの恐ろしさに気づいたのか、消沈した様子だった。
私はすっかり彼女に同情してしまっていた。
「少し可哀想だわ」
「ああ。でも、未遂で終わって良かったよ。超能力での傷害や殺人だと、かなり重い罰が下っていただろうし」
そう思ったから、フィリオは身を挺して庇ったのだろうか。エミィが衝突の直前で我に返る可能性に賭けて。
それとももしかして、私の力を期待していたのかしら。そんなわけないわよね?
「ほんの少しだけ期待はしていた。やろうと思えば、ちゃんと制御できるんだな」
「たまたまよ、多分……危なかったわ」
もう一度同じことができるか自信がない。念動力が暴発して店を壊さなかったことが奇跡のように思える。今更ながら寒気がした。
「全く、なんて女だ。恐ろしい……」
「本当に災難だったわねぇ」
浮気男と残った女性が、憤慨した様子で連行されていったエミィを睨んでいた。私を含めて店内の人間全てが冷ややかな目をしているのに気づかずに。
店主と思しき男性が割れたカップを集めて、涙目になっていた。とても可哀想。
「さて、俺も超能力で人助けをしてこようかな」
フィリオが爽やかな笑顔を浮かべて二人に近づいていった。そして女性を呼び出して、憐れみに満ちた表情で何かを話していた。
最初は戸惑っていた女性の表情が見る見るうちに青ざめ、そして――。
「最低ね!」
女性は席に戻って男性の頬を平手で打った。小気味よい音が店内に響く。
その表情には静かな怒りが滲んでいた。
「名前も経歴も全部嘘なんですってね? 借金まみれで前科まであるなんて信じられない。私の家のお金が目当てだったのね。こんな三流詐欺師に引っかかるなんて……結婚のお話はなかったことにさせていただくわ。パパにも言いつけてやるんだから」
女性は店主に向かって頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。お店の損害は、我が家が支払います。いくら請求していただいても構いません。この男にたっぷりと慰謝料を請求いたしますので」
そして連絡先をメモして店主に渡し、女性は颯爽と去っていった。
その場には放心状態の浮気男だけが残った。
「…………!」
店中で拍手が沸き起こった。みんな悪い笑顔をしている。
「さぁ、俺たちもそろそろ出ようか。送っていくよ」
私が呆気にとられていると、フィリオが涼しい顔をして戻ってきた。
たった数分で女性を信頼させ、浮気男の悪事をばらし、お店へのフォローまでさせるなんて……いろんな意味で恐ろしい人。
超能力を使うことを一切恐れないその姿が、私には眩しかった。
辻馬車を拾って、ファラデール公爵家の屋敷の近くまで送ってもらった。
「今日はいろいろありがとう。本当に助かった」
「こちらこそご馳走になってしまって」
それは当たり前だろ、とフィリオは笑った。
「あのね、私、念動力を抑えるだけじゃなくて、使う訓練もしてみようと思うの。小さい頃にやっていたことの反復だけど、今ならもう少し上手くできるかもしれないし」
「ああ、いいんじゃないか。俺も最新の研究について調べておくよ」
「いいの? 忙しくは……」
「この国が平和なうちは大丈夫。俺がやりたいんだ。気にしなくていい」
「ありがとう」
門の前まで来たものの、妙に別れ難かった。
あっという間に時間が過ぎてしまった気がする。
フィリオの仕事や精神感応について教えてもらえて良かったけれど、まだ彼については知らないことだらけだ。
物足りない。今度はいつ会えるか分からないのに。
私たちの距離は少しは縮まったのだろうか。
「ミュゼ」
唐突に彼が私の愛称を呼んだ。
「これからはそう呼んでいいよな? クルトもそう呼んでいたし。俺のことはフィーって呼んでくれ」
「え、でも」
どうして急に、と問いかける間もなかった。
「それから……今度はちゃんとデートに誘うよ。俺も少し恥ずかしくて、仕事を口実にしてしまった。反省してる」
彼は、随分とポーカーフェイスが上手いらしい。先ほどまでは、全然そんな素振りはなかった。でも今は居心地悪そうに目を逸らしている。私までどぎまぎしてしまう。
「また近いうちに会いに来るから、待っていて。じゃあ、おやすみ」
私の顔は真っ赤だったと思う。
フィリオは、フィーは、私の返事を待たずに逃げるように背を向けた。
私は慌てた。
遠ざかっていく背に届くように、願いを込める。まだ言葉にする勇気はないから。
――待ってる。楽しみにしているから。おやすみなさい、フィー。