短編
「彼はね、食べるという行為ができないんだよ。」
彼を指差して、彼の友人が言った。
「入社してから半年ぐらい経つ頃にね、彼は食道をストレスで壊しているんだ。」
友人の話によると、彼は入社後その環境に適応するために多くのことを学ぼうとしたという。その過程で飲み会などもあったそうだ。その時はまだ彼は大食らいで、なんでも好き嫌いなく食べることができたそうだ。ただその大食らいはどちらかと暴飲暴食気味だったという。自棄気味に飯を喰らい、翌日にはケロッとした顔で出社してきたのだとか。そのおかげで周囲の人間はみんな彼を強い人間だと思ったそうだ。
「3ヶ月経った頃だったかなぁ。彼、上司にパワハラを受けるようになったんだよ。仕事ぶりは別に問題なかったし、大きなミスとかはなかったんだ。ただいつももう少し頑張れよって言われ続けてたんだ。」
『頑張れよ』という言葉は凶器だ。頑張っている人間に使えば、それは人を殺すのに十分な威力を持っている。おそらくその上司は彼に期待したんだろう。彼を強い人間だと勘違いして叱咤激励したつもりだったんだろう。
「そして半年経った頃にちょっとした宴会があったんだ。その時の彼少しおかしかったんだ。一口も料理を食べていなかったんだ。実際はそれ以前からだったのかもしれない。いつも持ってた大きな弁当箱がちょっとずつサイズダウンしてたし、俺たち同期と飲みに行くことも少なくなった。ただ、残業する時間だけは増えていってね。なのに顔色ひとつ変わってなくてさ。」
そして彼はその宴会の帰りに倒れた。会場の出口の近くの電柱で突然嘔吐したかと思うとそのまま道路に倒れ込んでしまったのだ。
「顔は血の気が引いていて、蒼白どころか真っ青だった。吐瀉物は料理のかけらどころか酒の一滴、油の一滴すら無い胃液と血液の混じったものだった。急いで救急車を呼んだよ。」
病院に搬送された彼を待っていたのは緊急治療室だったそうだ。
「栄養失調による食道全域にわたる損傷と本人から聞いているが、それ以上話してくれないのでね。詳しいことはなんとも言えないよ。」
手術を受け、丸2日眠っていた彼を待っていたのは、食を楽しみにしている彼にとっては最悪な味覚障害だった。
「一時的なものだって医者は言っていたそうだ。まあ味のない食事なんて俺のわかるものじゃないが、食べることが生き甲斐のようなあいつにとっては地獄だったろう。」
味のない食事、もし私がそうなったらおそらく耐えきれないだろう。ただ美味しくもないものを咀嚼し、飲み込まなくてはならない。そんなこと考えられるわけがない。
「そこからだ。彼は食事に恐怖を覚えるようになった。前に彼に相談されたよ。『昔食べたものの味を忘れるにはどうしたらいい』って、今にも泣きそうな顔でさ。」
以来、彼は料理に手を伸ばせなくなった。昔の味を思い出してしまうのと、今食べているものが同じようなものである認識ができなくて吐き戻してしまうとのことだ。
「ゼリーとサプリメントで1日を過ごすなんていう、彩もクソもない食事を2週間前までずっと繰り返してきた。料理らしい料理なんてキンキンに冷えたアイスとメチャクチャ辛い麻婆豆腐くらいしか食ってない。それも味というより痛みと熱を感じているんだそうだ。」
アイスは冷たいものだ。冷たさは舌の上で痛みへと変わるのだとか。だから夏場にかき氷やアイスを急いで食べると頭がキーンとするらしい。同じように辛味は味覚というより痛覚に近いらしい。激辛料理は目や鼻にも刺激が来るのは痛覚が刺激されているのだそうだ。
「…実はな、あいつの味覚障害はもうとっくの昔に治っているはずなんだ。けど一度ついた癖というものはなかなか抜けないものでね。味を認識するとどうにも体が受け付けなくなってしまったんだ。簡単に言うと美味しいものを食べることを体が恐れてしまっているんだ。」
美味しいものを食べる。その行為が悪いことなのでないかと体が思い込んでしまっている。
長期のサプリメント生活と味覚障害がもたらした大きすぎる後遺症が未だに彼を苦しめていた。
「そんなあいつでも、最近は君の話題を出せば食事ができるようになってきたんだ。」
「私の、ですか?」
「ああ、なんでも『たくさんの料理を美味しそうに食べる彼女をを見ていると、僕も自然と料理に手が伸ばせるようになったんだ。』って、嬉しそうに何度も俺に言うんだ。食事中も君のことを思い出して料理を食べているらしい。」
そう言って友人は彼に視線を戻す。
「…さて、俺はそろそろ行くよ。これからもあいつのことをよろしくな。」
静かに廊下へ向かっていく友人の後ろ姿は、どこか嬉しさがあったように見えた。