第九十五話:誰がために~検証㊶~
皆様、ご無沙汰しております。
正月太りでダイエットを始めねばと思ってますが、ますます寒くなり、外に出て運動をしようとする気になりません。。。。。
皆様も風邪など引かぬよう、お身体にはお気をつけて下さいませ。
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灼がうーん、と頭を抱えて、
「以仁王が襲撃された十五日を発端として、大江氏による隙のない策と平家軍の迅速な展開に対応できないと判断した小侍従は、以前から画策してた小督局や兵衛の督君と、後に後鳥羽天皇となる皇子を保護下に置こうと実行に移したということなのね。
一見、小侍従が大江氏の策を上手く受け流した感じだけど、代償として以仁王を見捨てた。それでも頼政が加担する動機は見えないわ」
虚々実々の混迷ぶりに閉口した。そして今まで頭を悩ましてきた源頼政・父子の動機について論理的でない、もっと身近な感情なのかも知れないと思い至った。
「もしかしたら……だけどね。ハラグロ小侍従は源氏の駒を『源頼朝』『源範頼』『以仁王』と色々揃えてる人よ。頼政からしても治承三年の政変以降、以仁王が切り捨てられる可能性を察知してたはずだわ。しかも武術のお師匠でもある頼政は――」
既に決まっていた、とでもいうように、灼は心苦しさで重くなった言葉を声で継ぐ。
「――以仁王と運命を共にすると考えても不思議ではないわ」
俺の顔も自然厳しくなる。
「確かにそういう側面も否定できないな。『源平盛衰記・三位入道入寺事』では、
『……廿日、源三位入道嫡子・伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱甥を養子にす。三男頼兼判官代・木曽冠者義仲が兄に六条蔵人仲家、其の子に蔵人太郎……<中略>……此等の一類郎等に渡辺黨に引具して、三位入道の近衛河原の家に火係て焼払い、三井寺こそ参りけれ。』
頼政の血縁関係には諸説あるが<五月>二十日未明、三位入道源頼政の嫡子である仲綱が、頼政の次男――養子の説を取る――兼綱の甥<有綱>を養子にする。
三男――次男の説を取る――頼兼の判官代・木曽義仲の兄、六条蔵人――八条院・暲子内親王の蔵人という説を取る――仲家とその子太郎……これら郎党を渡辺黨が率いて、頼政の近衛河原邸を焼き払い三井寺へ向かった。
また『山槐記・五月二十二日条:……戌剋自大内行幸八条坊門櫛笥二品亭……<中略>……行幸之間、東北方有火、頼政入道家云々、暁逃去、不令為見其跡、自令指火云々、……<中略>……勘将門純友乱例、是大理時忠、内々所仰下也者。』
……<二十一日>午後八時から十二時にかけて、<内裏から建礼門院徳子が>八条亭の清盛邸へ外出している時、東北の方角から火が上がった。後に聞くと、そこは頼政の館で跡形もなく、暁前には逃げた後だった。どうやら自ら火を放ったらしい……検非違使別当・時忠が密かに「将門・純友の乱のようだ」と憤慨してたということだ。
ちなみに近衛河原には二代の后・多子の大宮御所があり、そこには小侍従もいる。
十五日から十九日にかけて頼政の次男・源頼兼と源仲国・仲章兄弟が小督局を大宮御所にて保護し、平頼盛が保護した妊娠八か月の兵衛の督君を暲子内親王の許へ連れていく。
そして密かに暲子内親王の令旨を持った蔵人たちが、全国に散る八条院領の荘官たちに届けるべく京都を発したのが二十日だろう。それを確認した上で『玉葉』や『山槐記』に記されているように二十一日、頼政が挙兵したと考える」
考えを纏めつつ、灼が問いかける。
「武士が館を焼いて出陣するって、やっぱり覚悟の表れだわ。でも、その覚悟って……あんたの話を聞いてると、単純に以仁王と心中するだけじゃないような気がするけど?」
俺は困った顔で頭を掻く。
「小侍従は本当に腹黒で悪役――いや、司馬懿や諸葛亮にも劣らない名軍師だったと思う。
自身の策が気付かれない為に陽動作戦を考えるのだが、これには寺社の軍事力を結集しようと牒状をバラまいてる以仁王を利用した」
「利用? 見捨てたのでなくて?」
灼の呆れの声に、俺は再び苦笑を漏らす。
「ああ、しかもただの陽動ではない。暲子内親王の令旨を持った蔵人たちが確実に畿内から出て行くまでの時間稼ぎだ。そのためには負け戦確定にも拘らず、誰かが軍勢を率いて平家と戦ってもらわなくてはならない」
灼は意図を悟って、思わず息を詰めた。少し間を開けてから俺は続ける。
「これは私見と言うか想像の範疇だろうな。八十歳前の老い先短い頼政は確かに以仁王と運命を共にしようと考えただろう。それを察した嫡男仲綱や木曽義仲の兄・八条院蔵人・仲家が随従することを願い出たはずだ。三条高倉館を攻めた検非違使・兼綱が急に頼政と合流するのは事情を知ったからだと思う。
それ以外の人間は……以仁王も含めて、従軍した渡辺黨ら五十余騎の軍勢は純粋に打倒平家を掲げる頼政を信じて挙兵したんだと考える。
望み、願って、最後は次の時代を担う至宝に託す。これが頼政の動機だと俺は思う」
俺は抹茶を飲もうと手を伸ばした時、とっくに空っぽだったことに気付いて手を止めた。
「今度はミルクティーでも淹れようかしらね」
灼は立ち上がり柔らかく微笑むと、あっさり張り詰めていた空気が解けた。
テーブルに置かれたミルクティーを前に灼が続ける。
「えーと……以仁王と頼政の軍勢は南都・興福寺を目指して南下する撤退防御戦ではなく、京都から平家軍を引き離すための作戦だったというわけね」
俺はティカップを傾けて、その美味しさを笑みに変える。
「『玉葉・五月二十三日条:……南都大衆来廿六日可入京之由風聞……』とあるように、興福寺からの大軍が二十六日に入京するという噂が流れた。兼実は日記の中で馬鹿馬鹿しいと切って捨ててるが、興福寺の僧兵との合流を阻止するために二十五日夜半、平家軍の先発隊三百余騎が園城寺<三井寺>へ向かう。
危機を感じた以仁王・頼政は兵を南へ転進させるのだが、宇治の平等院で追いつかれ戦闘状態に突入する。頼政は宇治橋の橋板を落として防御陣地を構築すると、程なく大将軍・平重衡、維盛が率いる平家軍の本隊が到着する」
「『平家物語』にある橋合戦の場面ね」
灼がやや緊張気味に頷いた。俺はカップを置いて先を続ける。
「ああ。この戦いはかなり凄惨だったようだ。『玉葉・五月二十六日条:……皆以不顧死、敢無乞生之色、……<中略>……其中無廻兼綱之矢前之者、宛如八幡太郎云々……』とにかく頼政軍全員が死兵となって戦い、特に兼綱の獅子奮迅ぶりは八幡太郎義家のようだった……と兼実は記してる。
当然の結果、ここで頼政の軍は全滅するわけだが、この時点で以仁王と頼政は生死不明だ。そこで大将軍・平重衡、維盛は周囲の砦には構わずに、興福寺へ直接南進しようとする。
しかし『山槐記』によると、平忠清ら宿将が『……臨晩着南都之條、可有思慮、若人々不知軍陣之仔細、所被示也……』つまり、『いたずらに戦線を伸ばすことにどんな意味があるのか、青二才は用兵を知らない』と窘めてる。このことから、京都から離れすぎることの危険性を示唆してると見ていい」
灼はおずおずと口にする。
「平家の宿将たちに小侍従の策が読まれてた?」
その問いに俺は首を振って見せる。
「平家軍はそのまま京都へ引き返し、戦後処理に動き出すのだが、宗盛・時忠は事件の根幹である――以仁王を匿った寺社に矛先を向けることになる。見事に小侍従の策が当たり、意識を逸らすことに成功したということだな。
さて、ここから『歴史検証』は八条院・暲子内親王の令旨を受け取った各地の源氏に話が移る」
「いよいよ源頼朝の話になるのね」
灼はわくわくが収まらない、弾んだ気持ちでミルクティーを口にする。俺もその気安さに乗じて、
「ああ、歴史上の大きな舞台の幕開けだな」
確かめるように言葉を声にした。嬉しさに似た安らぎが突如、軽快な電子音によって掻き消される。テーブルの上で音と共に振動するスマートフォンを拾い上げた。
「茂木先生からのメールだ」
操作すると予想外の人からのメールだった。不意に放った俺の言葉に灼は、
「えッ!? 茂木センセェッ」
朗らかな笑顔で、興味も好意も憚らない足取りで、俺に身体を摺り寄せて肩越しに覗き込む。
「センセ、何て言ってきたの?」
「……ちょっと、待ってろ。今開いて読むから」
灼が抱く喜びを、なんとなく同意できずに重い語気で返した。そんな自分の態度に微妙な後ろめたさを感じて、わざとらしい咳払いで誤魔化す。
「ごほんッ、えーと……。
『谷君へ。ご元気ですか? 約一か月前に行った研修旅行、とても有意義でしたね。あの時に灼ちゃんが採取した土壌の検査結果が出ましたのでお知らせしました。
しかし、ただ報告するだけでは面白くないので、もし可能なら私のゼミ主催の歴史研究旅行にまた参加しませんか。以前のように東葛山高校『歴史研究部』の皆さんや友人も誘っても構いません。
期間は12月24日~27日の三泊四日・最終目的地は静岡県静岡市です。是非参加していただけることを願います。詳細は後ほど。先ずはご連絡ください』……だって、さ」
俺は苦く笑って答えた。それに、灼が声にならない歓喜をあげ、
「ぜぇーたい、行くッ! 行きたいッ」
融けたような笑顔で叫んだ。
●灼のうんちく
今回は以仁王の首についてお話ししたいと思います。
『平家物語巻四・宮御最期』によると、
宇治の平等院にて仲綱・兼綱、八条院蔵人仲家が次々を討死していきます。源頼政は
埋もれ木の花咲くことも無かりしにみのなる果てぞ悲しかりける
という歌を残して郎党の渡辺長七唱に介錯させて果てます。
以仁王は平等院を抜け、興福寺を目指しますが光明山寺の鳥居の前で平家方に追いつかれ、首を取られます。
これがお二人の最期なのですが。。。。やはり『物語』と『史実』は若干異なるようです。
『玉葉・五月二十六日条:……<平等院>殿内廊内、自殺之者三人相残、其中具有無首之者一人、疑者宮歟云々、王化猶不堕地……』
『山槐記・五月二十六日条:……平等院廊自害者有三人、其人一人着浄衣無頸、有疑、頼政男伊豆守仲綱死生不詳……』
どうやら頼政軍が崩壊した後、平家の軍勢が平等院に押し寄せた時は既に三人の遺体があり、うち一つ首無し遺体が以仁王ではないかという疑惑があったことが分かる記述です。ちなみに仲綱も行方不明です。
さらに『玉葉・五月二十七日条』によると、
高倉院御所にて、戦後処理と今後について、九条兼実と藤原隆季が謀反を起こした園城寺・興福寺に対する措置を議論していた最中に、正式に以仁王斬首の報告が入ります。
また『山槐記』には詳細な記述があり、議論中に藤原行隆が奏聞した内容が、
……以仁王を加幡河原にて討ち取りました。藍摺の水干に小袴姿で変装しておりましたが、<以仁王が>元服の折、見知った人がいたので判明したのです……
元服の折、と言う事は二代の后・多子の大宮御所を出入りしていた人なのでしょうか。。。小侍従が絡んでいるのか。。。。この記述はとても怖いです。。。。
『愚管抄』によると、
『……ヤガテ仲綱ハ平等院ノ殿上ノ廊ニ入テ自害シテケリ。……追ツキテ宮ヲバ打トリマイラセテケリ。頼政モウタレヌ。宮ノ御事ハタシカナラズトテ御頸ヲ萬ノ人ニ見セケル。御学問ノ御師ニテ宗業アリケレバ。召テ見セラレナンドシテ一定ナリケレバ。』
宇治の平等院で自害した三人のうち、一人が仲綱ということになるわ。でも仲綱を見知った人は沢山いると思うから、首のない一人が仲綱で以仁王の身代わりになった可能性があるわね。
以仁王は仮にも皇族なので、ご尊顔を拝する人はそんなにいないはずです。首は『萬ノ人』である高倉院が見て、学問の師匠だった宗業が確認したと言うけれど。。。。現在でも未だに闇の中なのです。。。。
次回は『歴』から少し離れます。。。。お楽しみにお待ちくださいませ。