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歴めろ。  作者: 武田 信頼
第二章:学校動乱編
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第九十四話:守るべきもの~検証㊵~

謹賀新年。明けましておめでとうございます。


今年も宜しくお願い致します。






           ※※ 94 ※※



 



 「なるほどね。小侍従の策が打ち負かされたのは分かったけど、この後に一体どんな逆転のトライがあるというのかしら」


 やや緊張を(ふく)ませた灼の問いかけに、


 「ああ。今まで平家が強引に()じ曲げて(ないがし)ろにしてきた、しかし一番大事な()を小侍従は手中(しゅちゅう)に収めた。これによって、政治的優位を()き返したと言っても良い」


  俺は笑みの気配と共に言った。灼が無言の(うなず)きで続きを(うなが)す。


 「平滋子(しげこ)が後白河院の寵愛(ちょうあい)を受けるようになって、平家は滋子(しげこ)が産んだ憲仁親王以外の皇子(みこ)たちを次々と出家させてゆく。

 やがて、報復(ほうふく)を恐れた公卿(くぎょう)は自分の姫を入内(じゅだい)させようとはせず、また皇子(みこ)後見(こうけん)放棄(ほうき)するようになる。唯一、八条院・暲子(あきこ)内親王だけが衣食に困った皇族たちの面倒を見ていたわけだが……とにかく平家は後宮の独占を(ねら)った。

 仁安三年<1168>憲仁親王が八歳で天皇の位につくと、ますます皇族の排斥(はいせき)が激化してゆく。承安二年<1172>高倉天皇が十一歳の時、六歳年上の平徳子(とくこ)のみが中宮(ちゅうぐう)として入内した。

 安元二年<1177>滋子(しげこ)の崩御後は、ほぼ完全に一夫一婦制を()いられることになり……まあ、やっぱり年頃の男子だからな、若い高倉天皇は()()()()で女官たちに手を出し始め――」


 灼が眉を(ひそ)めて瞳を(すが)める仕草に、俺は少し(あせ)って、


 「――徳子に仕えた女房の中で無類の美貌で(そう)の名手だった小督(おごう)局と、典侍(ないしのすけ)兵衛(ひょうえ)督君(かんのきみ)――(のち)の七条院・藤原殖子(たねこ)寵愛(ちょうあい)を受けるようになった」


 と、言い直すが、すでに遅かった。灼の「平良のエッチ」という口調の激しい(つぶや)きに、


 「なな……な、なんというか、深い意味はなくて……これも『歴史検証』の一環だ」


 動揺から立ち直って体裁(ていさい)を取り(つくろ)うとする俺を、灼は赤い顔で(いぶか)し気に(なが)めている。


 「あんただって男子だし……()()()()()()だもんね、分かってるわ」


 灼は高階結衣(ゆい)先輩や山科花桜梨(かおり)元会長を、そして以前に俺が()()をベッドの(おく)へコソコソと(かく)していたことを思い出して、できるだけさりげなく言った。

 その理不尽(りふじん)率直(そっちょく)過ぎる非難に、俺は返答に(きゅう)しながら言葉を()ぐ。 


 「俺の事じゃなくて、高倉天皇の話だろ」


 灼の微妙(びみょう)な不機嫌さを気にしながら、俺は咳払(せきばら)いをした。


 「小督(おごう)局は小督(おごう)とも呼ばれ、平治の乱で討たれた信西<藤原通憲(みちのり)>の孫、桜町(さくらまち)中納言・藤原成範(なりのり)の娘だ。

 藤原成範(なりのり)は当初、成憲(なりのり)と名乗っていたが、平治の乱後、連座で流罪(るざい)となる。

 祖母は待賢門院(たいけんもんいん)に仕えた藤原朝子(ともこ)候名(さぶらいな)紀伊局(きいのつぼね)と言う。後に後白河院の乳母(うば)を務めた関係で、成憲(なりのり)は永暦元年<1160>に早くも赦免(しゃめん)され、後白河院の近臣となり成範と改めた。治承三年<1179>、幽閉(ゆうへい)された後白河院に近づくことを許された一人でもある。

 異母妹は、以仁王を討つ算段をした際に『山槐記(さんかいき)』の中に出て来た、大宰権帥・藤原隆季(たかすえ)の妻だ。『平家物語』では、小督(おごう)局と隆季(たかすえ)の子・四条隆房(たかふさ)は恋人同士だったみたいだな。

 高倉天皇と小督(おごう)局との蜜月は長くは続かない。治承元年<1177>に範子(のりこ)内親王を産むと、清盛によって無理矢理に出家させられ、内裏(だいり)から追放される」


 灼が顔を強張(こわば)らせる。


 「小督(おごう)局は出自(しゅつじ)も立場も、平家にとって都合(つごう)が悪かったのね。確か能『小督(おごう)』も悲哀(ひあい)の話だったわ。それにしても八条院派――小侍従と、どう関係するのかしら」


 俺はそれに軽く返す。


 「小督(おごう)を保護して、小侍従の(もと)に連れてきたのが、頼政の次男・源頼兼(よりかね)と源仲国(なかくに)仲章(なかあきら)兄弟だ。特に源仲章(なかあきら)は後に鶴岡(つるがおか)八幡宮の階段で実朝(さねとも)と一緒に()られる。これについてはもう少し先に説明するかな」


 そして声はあっけらかんと、しかし言葉は重く説明を続ける。


 「もう一人、兵衛(ひょうえ)督君(かんのきみ)だが……祖母の候名(さぶらいな)上西門院(じょうさいもんいん)一条で、待賢門院(たいけんもんいん)女房を()て上西門院・統子(むねこ)内親王の乳母(うば)を務めてる。いわば平滋子(じげこ)の上司だな。

 高倉天皇の典侍(ないしのすけ)として宮中へ入った兵衛(ひょうえ)督君(かんのきみ)――藤原殖子(たねこ)は、治承三年<1179>に守貞(もりさだ)親王を産むが、すぐに平知盛(とももり)(うば)われてしまった。

 だが再び妊娠した殖子たねこは、平家に()われまいと、従兄(いとこ)である持明院(じみょういん)基家(もといえ)伝手(つて)で、平頼盛(よりもり)に助力を得て八条院へ(のが)れる。この妊娠してた子供がその後の歴史に重要な位置を()めることとなる」


 灼は何気なく問いかける。


 「その子供って誰よ」

 「後鳥羽天皇だ」


 俺は声だけで笑った。ほんの少し躊躇(ちゅうちょ)()てから、灼はうーん、と(うな)り、


 「後鳥羽天皇って通説では生まれは治承四年<1180>七月だわ。以仁王の乱が()きた五月の段階では皇子(みこ)姫宮(ひめみや)かどうかなんて分からないじゃないッ。それでも――」


 俺は表情を(くず)して首を振る。


 「――それでも平家ではない……この際、性別は関係なく、しかも英邁(えいまい)な以仁王とは(ちが)い、幼い皇子(みこ)が必要だったのだ」

 「後白河院はどこまでも『院政』に(こだわ)ってたということね」


 俺は笑みの中に修正を加えて言う。


 「そうではない。後白河院は権力に固執した人のように言われるが――確かにそういった側面もあったかもしれない。だが、武士が勝手に内裏を牛耳る時代だ、俺の私見だが皇室をいかに守るか常に考えてた人だと思う。

 寿永二年<1183>安徳天皇が平家と共に西へ下った際に、後白河院と八条院・暲子(あきこ)内親王が交わした秘密の会話を、定家の同母姉・建春門院中納言が唯一同席を許された女房として残した日記の内容だ。

 後日クシャクシャの反古(ほご)の裏に記されてるのを見つけた定家が、晩年に『たまきはる』へ加筆してる。

 

 『……何となく心さわぎをみせらしに、院渡らせおはしますとて、人々はたちのけど、わきて立てられずば覚束(おぼつか)なきと聞くと、……<中略>……女院、御位は如何にと申させおはします御返事に、高倉の院の四宮(しのみや)<後鳥羽天皇>、と仰言(おおせごと)ありしをうち聞きしに、さほど数あらぬ身の心中に、夜の明けぬる心地こそをかしけれ……』


 ……ふいに辺りが騒然として、後白河院が八条院御所へいらっしゃったと聞いた。女房達は暲子(あきこ)内親王の周りから離れてしまいますが、私はあえて残るように言われます。不安な思いでいると……暲子(あきこ)内親王が後白河院に「次の天皇の位につくのは?」と(うかが)います。後白河院は「高倉院の四宮(しのみや)<後鳥羽天皇>だろう」と(おお)せになりました。私はそれを聞き、身分の低い身でありながらも心中、夜が明けるように未来の(かがや)きを感じました。


 八条院派が平家に対し一歩()きん出た瞬間だろうな。しかし、後白河院は条件と言うか、判断基準というか、遠回しに制限を示す。


 『……女院、木曽は腹立ち(さぶら)ふまじきか、と申せおはします。木曽は何とか知らむ、あれはすぢの()えにしかば、これは絶えぬ上によき事の三つありて、と仰言(おおせごと)あり。三つとは何事、と申せおはします。

 四つにならせ(たま)ふ、朔旦(さくたん)の年の位、この二つは鳥羽の院、四ノ宮は(ちん)の例、と仰言(おおせごと)ありしを聞きて……』


 『木曽』は木曽義仲(よしなか)のことだ。上洛する際に、木曽へ逃げて来た以仁王の若宮である『北陸宮(ほくろくのみや)』を旗印(はたじるし)にしてたのだが……これについても後で説明する。今は俺の意訳だが――


 ――暲子あきこ内親王は「木曽(義仲)が不満を言わないだろうか」と申します。しかし後白河院は「木曽の事は知らぬ。皇族として、あれ<以仁王>の血縁は絶えた。しかし、これ<後鳥羽天皇>は高倉院の皇子として保護されており、何より三つほど利点がある」と(おっしゃ)いました。

 暲子あきこ内親王は「三つとは何なのです」と問われます。後白河院は「尊成(たかひら)親王は四つにおなりになった。そして朔旦(さくたん)<※古代中国では、11月の月初めと冬至とをそれぞれ年始とする考え方があり、この両日が重なったときを吉日とする>の年に天皇の位につく。この二つが鳥羽院の御位(みくらい)(のぼ)られた時と同じ状況だ。最後に私も四男だった」と(おお)せになったのだった……。


 この文献で何が分かるかと言えば、小侍従が保護した二人の女性を八条院・暲子(あきこ)内親王が平家から守り、(ひそ)かに産まれた尊成(たかひら)親王<後鳥羽天皇>を(かくま)ってたことが分かる。そして政治工作の末、後白河院から同意を()たと言う事なのだが。

 つまり、治承四年五月十五日から頼政・父子(おやこ)が以仁王に合流する二十日の間に、小侍従は(のち)の後鳥羽天皇を手中(しゅちゅう)(おさ)め、後白河院との交渉カードを得るため、八条院領の国人(こくじん)たちに暲子(あきこ)内親王の『令旨(りょうじ)』を出す」

 「え……と、令旨(りょうじ)?」


 聞き捨てならない言葉を、灼が咄嗟(とっさ)に拾い上げた。


 「ああ、令旨(りょうじ)だ。仮に暲子(あきこ)内親王の名で(はっ)せられた文書であれば公文書となり、それは『院宣(いんぜん)』だ。しかし、私用であれば名を()かす必要はなく『令旨(りょうじ)』となる。『……(かしこ)きあたり』と言えば、八条院領の国人は(さっ)するというわけだ。

 通説による『以仁王の令旨(りょうじ)』が間違いであるという理由の一つに、わざわざ発信者を明文化してるというところだな。あの時代ではあり()ないだろう」


 灼は真剣な眼差(まなざ)しで俺と向き合う。


 「園城寺<三井寺>で書いた以仁王の牒状(ちょうじょう)が、(のち)の時代に八条院・暲子(あきこ)内親王の令旨(りょうじ)と重なって、さらに以仁王の牒状(ちょうじょう)(くば)って回った行家が、いつ間にか令旨(りょうじ)(くば)ってたということになった……ということなのね」

 「あくまで、俺の私見だ。それを立証(りっしょう)する証拠(しょうこ)はない。ただ、『歴史検証(ゲーム)』でいくと以仁王は――」


 灼は嘆息(たんそく)と共に俺の言葉を()ぐ。


 「――以仁王は小侍従によって、最初から見捨(みす)てられてたということなのね」


 何も言えない、一つの思いを()めて俺は(うなず)いた。

●灼と平良のうんちく


いつも読んで下さる皆様、明けましておめでとうございます。

本年も宜しくお願い致します。。。。。


今回はうんちくはありませんが、次回まで『歴』が続きます。その後はちょっとだけ『めろ。』が来るかもです。。。。


次回もお楽しみにしてくださいませ。。。。

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[良い点] 微妙に灼が嫉妬?してる? [一言] あけましておめでとうございます 本年もおもろいやつお願いします
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