第九十四話:守るべきもの~検証㊵~
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「なるほどね。小侍従の策が打ち負かされたのは分かったけど、この後に一体どんな逆転のトライがあるというのかしら」
やや緊張を含ませた灼の問いかけに、
「ああ。今まで平家が強引に捻じ曲げて蔑ろにしてきた、しかし一番大事な肝を小侍従は手中に収めた。これによって、政治的優位を巻き返したと言っても良い」
俺は笑みの気配と共に言った。灼が無言の頷きで続きを促す。
「平滋子が後白河院の寵愛を受けるようになって、平家は滋子が産んだ憲仁親王以外の皇子たちを次々と出家させてゆく。
やがて、報復を恐れた公卿は自分の姫を入内させようとはせず、また皇子の後見も放棄するようになる。唯一、八条院・暲子内親王だけが衣食に困った皇族たちの面倒を見ていたわけだが……とにかく平家は後宮の独占を狙った。
仁安三年<1168>憲仁親王が八歳で天皇の位につくと、ますます皇族の排斥が激化してゆく。承安二年<1172>高倉天皇が十一歳の時、六歳年上の平徳子のみが中宮として入内した。
安元二年<1177>滋子の崩御後は、ほぼ完全に一夫一婦制を強いられることになり……まあ、やっぱり年頃の男子だからな、若い高倉天皇はあちこちで女官たちに手を出し始め――」
灼が眉を顰めて瞳を眇める仕草に、俺は少し焦って、
「――徳子に仕えた女房の中で無類の美貌で箏の名手だった小督局と、典侍・兵衛の督君――後の七条院・藤原殖子が寵愛を受けるようになった」
と、言い直すが、すでに遅かった。灼の「平良のエッチ」という口調の激しい呟きに、
「なな……な、なんというか、深い意味はなくて……これも『歴史検証』の一環だ」
動揺から立ち直って体裁を取り繕うとする俺を、灼は赤い顔で訝し気に眺めている。
「あんただって男子だし……そういうもんだもんね、分かってるわ」
灼は高階結衣先輩や山科花桜梨元会長を、そして以前に俺が何かをベッドの奥へコソコソと隠していたことを思い出して、できるだけさりげなく言った。
その理不尽で率直過ぎる非難に、俺は返答に窮しながら言葉を継ぐ。
「俺の事じゃなくて、高倉天皇の話だろ」
灼の微妙な不機嫌さを気にしながら、俺は咳払いをした。
「小督局は小督とも呼ばれ、平治の乱で討たれた信西<藤原通憲>の孫、桜町中納言・藤原成範の娘だ。
藤原成範は当初、成憲と名乗っていたが、平治の乱後、連座で流罪となる。
祖母は待賢門院に仕えた藤原朝子で候名は紀伊局と言う。後に後白河院の乳母を務めた関係で、成憲は永暦元年<1160>に早くも赦免され、後白河院の近臣となり成範と改めた。治承三年<1179>、幽閉された後白河院に近づくことを許された一人でもある。
異母妹は、以仁王を討つ算段をした際に『山槐記』の中に出て来た、大宰権帥・藤原隆季の妻だ。『平家物語』では、小督局と隆季の子・四条隆房は恋人同士だったみたいだな。
高倉天皇と小督局との蜜月は長くは続かない。治承元年<1177>に範子内親王を産むと、清盛によって無理矢理に出家させられ、内裏から追放される」
灼が顔を強張らせる。
「小督局は出自も立場も、平家にとって都合が悪かったのね。確か能『小督』も悲哀の話だったわ。それにしても八条院派――小侍従と、どう関係するのかしら」
俺はそれに軽く返す。
「小督を保護して、小侍従の許に連れてきたのが、頼政の次男・源頼兼と源仲国・仲章兄弟だ。特に源仲章は後に鶴岡八幡宮の階段で実朝と一緒に斬られる。これについてはもう少し先に説明するかな」
そして声はあっけらかんと、しかし言葉は重く説明を続ける。
「もう一人、兵衛の督君だが……祖母の候名は上西門院一条で、待賢門院女房を経て上西門院・統子内親王の乳母を務めてる。いわば平滋子の上司だな。
高倉天皇の典侍として宮中へ入った兵衛の督君――藤原殖子は、治承三年<1179>に守貞親王を産むが、すぐに平知盛に奪われてしまった。
だが再び妊娠した殖子は、平家に奪われまいと、従兄である持明院基家の伝手で、平頼盛に助力を得て八条院へ逃れる。この妊娠してた子供がその後の歴史に重要な位置を占めることとなる」
灼は何気なく問いかける。
「その子供って誰よ」
「後鳥羽天皇だ」
俺は声だけで笑った。ほんの少し躊躇を経てから、灼はうーん、と唸り、
「後鳥羽天皇って通説では生まれは治承四年<1180>七月だわ。以仁王の乱が起きた五月の段階では皇子か姫宮かどうかなんて分からないじゃないッ。それでも――」
俺は表情を崩して首を振る。
「――それでも平家ではない……この際、性別は関係なく、しかも英邁な以仁王とは違い、幼い皇子が必要だったのだ」
「後白河院はどこまでも『院政』に拘ってたということね」
俺は笑みの中に修正を加えて言う。
「そうではない。後白河院は権力に固執した人のように言われるが――確かにそういった側面もあったかもしれない。だが、武士が勝手に内裏を牛耳る時代だ、俺の私見だが皇室をいかに守るか常に考えてた人だと思う。
寿永二年<1183>安徳天皇が平家と共に西へ下った際に、後白河院と八条院・暲子内親王が交わした秘密の会話を、定家の同母姉・建春門院中納言が唯一同席を許された女房として残した日記の内容だ。
後日クシャクシャの反古の裏に記されてるのを見つけた定家が、晩年に『たまきはる』へ加筆してる。
『……何となく心さわぎをみせらしに、院渡らせおはしますとて、人々はたちのけど、わきて立てられずば覚束なきと聞くと、……<中略>……女院、御位は如何にと申させおはします御返事に、高倉の院の四宮<後鳥羽天皇>、と仰言ありしをうち聞きしに、さほど数あらぬ身の心中に、夜の明けぬる心地こそをかしけれ……』
……ふいに辺りが騒然として、後白河院が八条院御所へいらっしゃったと聞いた。女房達は暲子内親王の周りから離れてしまいますが、私はあえて残るように言われます。不安な思いでいると……暲子内親王が後白河院に「次の天皇の位につくのは?」と伺います。後白河院は「高倉院の四宮<後鳥羽天皇>だろう」と仰せになりました。私はそれを聞き、身分の低い身でありながらも心中、夜が明けるように未来の輝きを感じました。
八条院派が平家に対し一歩抜きん出た瞬間だろうな。しかし、後白河院は条件と言うか、判断基準というか、遠回しに制限を示す。
『……女院、木曽は腹立ち候ふまじきか、と申せおはします。木曽は何とか知らむ、あれはすぢの絶えにしかば、これは絶えぬ上によき事の三つありて、と仰言あり。三つとは何事、と申せおはします。
四つにならせ給ふ、朔旦の年の位、この二つは鳥羽の院、四ノ宮は朕の例、と仰言ありしを聞きて……』
『木曽』は木曽義仲のことだ。上洛する際に、木曽へ逃げて来た以仁王の若宮である『北陸宮』を旗印にしてたのだが……これについても後で説明する。今は俺の意訳だが――
――暲子内親王は「木曽(義仲)が不満を言わないだろうか」と申します。しかし後白河院は「木曽の事は知らぬ。皇族として、あれ<以仁王>の血縁は絶えた。しかし、これ<後鳥羽天皇>は高倉院の皇子として保護されており、何より三つほど利点がある」と仰いました。
暲子内親王は「三つとは何なのです」と問われます。後白河院は「尊成親王は四つにおなりになった。そして朔旦<※古代中国では、11月の月初めと冬至とをそれぞれ年始とする考え方があり、この両日が重なったときを吉日とする>の年に天皇の位につく。この二つが鳥羽院の御位に登られた時と同じ状況だ。最後に私も四男だった」と仰せになったのだった……。
この文献で何が分かるかと言えば、小侍従が保護した二人の女性を八条院・暲子内親王が平家から守り、密かに産まれた尊成親王<後鳥羽天皇>を匿ってたことが分かる。そして政治工作の末、後白河院から同意を得たと言う事なのだが。
つまり、治承四年五月十五日から頼政・父子が以仁王に合流する二十日の間に、小侍従は後の後鳥羽天皇を手中に収め、後白河院との交渉カードを得るため、八条院領の国人たちに暲子内親王の『令旨』を出す」
「え……と、令旨?」
聞き捨てならない言葉を、灼が咄嗟に拾い上げた。
「ああ、令旨だ。仮に暲子内親王の名で発せられた文書であれば公文書となり、それは『院宣』だ。しかし、私用であれば名を明かす必要はなく『令旨』となる。『……畏きあたり』と言えば、八条院領の国人は察するというわけだ。
通説による『以仁王の令旨』が間違いであるという理由の一つに、わざわざ発信者を明文化してるというところだな。あの時代ではあり得ないだろう」
灼は真剣な眼差しで俺と向き合う。
「園城寺<三井寺>で書いた以仁王の牒状が、後の時代に八条院・暲子内親王の令旨と重なって、さらに以仁王の牒状を配って回った行家が、いつ間にか令旨を配ってたということになった……ということなのね」
「あくまで、俺の私見だ。それを立証する証拠はない。ただ、『歴史検証』でいくと以仁王は――」
灼は嘆息と共に俺の言葉を継ぐ。
「――以仁王は小侍従によって、最初から見捨てられてたということなのね」
何も言えない、一つの思いを秘めて俺は頷いた。
●灼と平良のうんちく
いつも読んで下さる皆様、明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。。。。。
今回はうんちくはありませんが、次回まで『歴』が続きます。その後はちょっとだけ『めろ。』が来るかもです。。。。
次回もお楽しみにしてくださいませ。。。。