第九十三話:戦いへ~検証㊴~
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そして今年はなかなか更新しない拙作を、お待ち頂きながら読んで下さって大変うれしく思います。
来年も相変わらず不定期更新ですが、気長にお楽しみ頂ければ幸いです。
※※ 93 ※※
「あ、お抹茶見つけた。平良、飲む?」
と、キッチンから首だけ暖簾を潜らせて、灼が語りかけた。
いつもと変わらない語調に安心しきった俺は、ソファーに深く沈んだまま何の考えもなく「いいねぇ」と軽く返す。
再び居間に戻って来た灼は、やや緊張気味に千歳盆をテーブルの上に置いた。そこには白磁の茶碗と中に茶巾、茶筅、茶杓。さらに高台寺蒔絵だろうか、黒漆の棗に緋色の袱紗が添えられている。
「……なんか本格的じゃないか」
思いのほか大仰な一式に、俺は驚きを露わにした。しかし灼は気にも留めずに手馴れた様子で茶道具をテーブルに並べてゆく。特に説明を付け加えることもなく立ち上がると、いそいそとキッチンへ戻って行った。
「『盆略点前』といって、裏千家から始まったの。名前の通り略式のお点前で、『お手軽茶の湯』ってとこかしら。テーブルの上でも気軽に楽しめるから良いわね。本来は鉄瓶と建水を使うけど――まあ、略式だし」
言いながら、お湯の入ったやかんとボールを持ってきた灼は、ぺたんと床に座る。再び白磁茶碗を盆の上に置き、
「あんたの続き、聞かせて」
流れる手つきで袱紗を畳み、棗の蓋を優しく撫でる。その後に袱紗で茶杓を軽く拭う。
「お……、おう」
やや上擦った声で、細い指先の優美な動きに見惚れていた。目線は外さずに続ける。
「以仁王の事件と繋がる、源頼政・父子たちと、小侍従や二代の后多子、更に八条院・暲子内親王が平家と対峙せざるを得ない理由は分かったと思う。それを踏まえて再び『玉葉』に戻ると、事態がより明らかになる」
「あんたの言う『治承四年<1180>五月十五日条:晴天。……今夜、三条高倉宮<以仁王>が配流されるという噂を聞いた。……』まで戻るというわけね」
灼は茶碗にゆっくりと白湯を流し、サラサラと茶筅を大きく何度か回す。そして中身をボールへ入れ、丁寧に茶巾で内側をふき取ると、盆に戻して棗から茶杓でお抹茶を掬い茶碗に入れる。二度ほど繰り返して、その中に白湯を注いだ。その移り変わる挙措の鮮やかさに俺は思わず息を呑む。
「ああ。先ほどから敢えて天候を言ってきたのには大きな理由がある。ここから『玉葉』を時系列に並べていくと――五月十五日、晴天の日に以仁王の配流の噂が流れ、その晩には三条高倉館を平時忠の率いる検非違使が包囲した。つまり平家は、事前に以仁王を捕らえる準備をして噂を流し、体裁を整えたということだ」
灼が思い至ったように手を止めた。
「十五夜ッ! 満月の夜を狙って襲撃したってことね」
俺は大きく頷く。
「『竹取物語』にこんな場面がある。
『……かかるほどに、宵うち過ぎて子の刻ばかりに、家のあたり昼の明かさにも過ぎて光りたり。望月の明かさを十合わせたるばかりにて、在る人の毛の穴さへ見ゆるほどなり。……』
かぐや姫が八月十五日の満月の夜に月へと返る名場面だな。当時は月明りがとても重要だった。いわゆる保元の乱についても『兵範記』によると、
『保元元年<1156>七月十一日条:鶏鳴清盛朝臣、義朝、義康等、軍兵都六百余騎発向白河……』
満月の月明りが残る夜明け前に、軍事行動を起こしてる。満月の夜は『夜討ち・夜駆け』の基本行動なんだ」
灼は軽やかに、しかし素早い音とともにお茶を点てる。最後に大きく回すと、真ん中から抜き取るように茶筅を浮かして盆に置いた。
「はい、どうぞ」
「お、すまん」
促されるままに茶碗を持ち上げた時、手の動きに戸惑った。
「あれ? 左回しだっけ、右回し?」
俺の挙動に灼がくすくすと笑う。
「好きなように飲めば良いのよ。本来、茶の湯はもてなしの心を養うもの。作法は客人がもてなしに感謝の気持ちを込めるものだけど、押し付けるものではないわ。
以前、「お茶を点ててあげる」って言ったの覚えてる? あんたが美味しく飲んでくれれば、あたしはそれだけで嬉しいわ」
「そうだった……かも。とりあえず、いただきます」
良かれと思う灼の気持ちを受け止めて、俺は茶碗に口を付ける。柔らかい泡が舌を包み、それらが口の中で溶けていく中で徐々に抹茶の味わいが広がってゆく。
「甘くない抹茶ラテ……みたいだな」
俺の感想に灼がにんまりと笑みを作る。
「その通りよ。裏千家はふんわりな感じかな。逆に表千家は泡は少なめでゴクゴクと液体を飲んでダイレクトに抹茶の味がする感じかしら」
ズズズっと、最後まで啜った俺は「ふうん」と頷きつつ、茶碗を返す。灼はその中に白湯を入れ、先ほどと同じように茶筅でサラリと洗い、茶巾で拭いた。
「今度は表千家のお茶を点ててあげる。その後はあんたの好きな方で点てるわ」
再び、茶杓で抹茶を入れ、白湯を流した。今度は緩やかに茶筅を動かす。その相違に俺は関心を示した。
「同じ茶の湯でも比べてみると全く違うな」
俺の言葉を受けて、視線は俯いたまま、
「そうね。泡は立て過ぎず、三日月の池が覗くくらいが理想と言われてるわ」
最後は大きく『の』の字を描いて抜く。俺は「はい、どうぞ」と置かれた茶碗を見た。
「なるほど……。小さな泡が小石みたいで、三日月の池がある。これはこれで風流だな」
茶碗を持ち、口に含んだ瞬間、抹茶の風味が液体と一緒に流れてくる。まさに飲み物として、ごくりと飲み込み、喉を潤わせた。
「まあ、何というか……イメージ通りのお茶だ。飲み慣れてるお茶に似てるせいかな、ちょっと安心する味だ。でも」
「でも?」
灼は語尾につられて先を求めた。俺は残ったお茶を飲み干す。
「俺はお茶は分からん。もしかしたら後日変わるかもしれないので好みで言うが――表千家の方が後味が薄くて飲んでくうちに水っぽく感じる。喉が渇いてるときは良いな。
裏千家は最初は苦みが強くてふわふわなのでお茶を飲んだ気にならないが、後味はしっかりしてふくよかに感じた。何ていうか、食後のデザートみたいだ。なので、今もう一度飲みたいのは裏千家かな」
灼が満面の笑みで頷いた。
「分かったわ。まかせて」
そして、茶碗一杯、なみなみと点てられたふわふわなお茶が目の前に現れた。
時刻は午後十時を過ぎた。両親はアルコールも入っているせいか完全に寝静まっている。
「灼。今日はもう遅いし、明日は休みだし、泊まってけよ」
俺は当然のように言った。言葉の意味を灼なりに解釈して、やや顔を伏せ気味に声を搾り出す。
「えっ! ――ん、え、と……そ、そうね。そうしようかしら」
何も変わらぬ毎度の事なので、俺はうん、と満足げに頷き、居間の給湯操作パネルの電源を入れた。
「風呂が沸くまで、さっきの続きをするか」
「わかったわ」
無邪気な鈍感さを露わにする俺の横に、純粋過ぎる少女は神妙な顔をして座り直す。真っ赤になった耳をそっとツインテールで隠した。
「十五日の晩、平家の夜討ちが綿密に練られた計画だったという証拠がもう一つある。九条兼実より平家に近い存在だった中山忠親の日記『山槐記・五月十五日条』だ。俺の意訳で申し訳ないが、
『十五日・天晴。……亥の刻<午後十時~深夜二時ごろ>、(東山にいる私の許に)京都から使いがやって来て言うには、高倉宮<以仁王>が配流されることになり、只今検非違使の源兼綱と源光長が向かったとのことだ。後に聞く話では、当日恩賞が与えられるということで、三条大納言実房らは内大臣・平宗盛に呼ばれて参内したらしい。
しかし、実のところ恩賞を賜ったのではなく、高倉宮を討つ密命を受けたというのだ。仍て参内した武官は衣冠から鎧兜に着替え、三条高倉館に夜襲を掛けるべく出陣した。
三条高倉館に到着すると全ての門は閉ざされ、呼びかけに答える者はいない。検非違使・源光長が門を破る命令を下すと、西北小門の間から左衛門尉・長谷部信連の手勢が光長を射かけた。……高倉宮は既に館から逃亡した後だった。しかし検非違使は猶も館を囲み、女房らは裸で逃げ惑っていたらしい。嘆かわしいことだ。
……高倉宮の諱は以仁である。而して『仁』の字は憚りがあると言う理由で『光』に改字する沙汰も下ったという……』
――俺は、これほど平家の思惑を記した文献はないと思う」
聞き入っていた灼は両人差し指で左右のツインテールを巻きながら、少々唸って、
「高倉天皇が即位する時も平家は随分と圧力をかけて来たわ。ここまで以仁王の排除に固執してたということは、当たり前だけど建礼門院・徳子が産んだ幼帝・安徳天皇の即位後に後白河院と八条院・暲子内親王が源氏の武力で譲位を迫るのではないかという危惧を持ってたはずよ。小侍従の『臣籍降下』による折衷策では全く警戒を解くことが出来なかったってことだわ。
結局、火に油を注ぐ形になって、三条高倉館と八条院御所は検非違使によって荒され、事前に平頼盛から情報を得て以仁王は逃走、その若宮たちは頼盛によって保護され出家することで助命、また八条院・暲子内親王とその女房達は六波羅の頼盛邸に難を逃れる。
『玉葉』にあるように、兼実自身も京都の武士が、諸国の源氏が以仁王の許で結集するのではないか、また近江近辺の国人がこれに同調するのではないか、という全て憶測に基づいた人々の悲観や楽観、曖昧模糊な噂に対して常に不信感を示してた。
事実、以仁王の軍勢は50余騎の頼政・父子と僅かな園城寺の僧兵よ。これって小侍従の策よりも清盛の策が一枚上手だったと見るべきかしら」
懸念する灼に、俺は水を向ける。
「清盛は福原にいるので策は弄してない。直接京都で指揮してたのは宗盛だ。しかし、宗盛・時忠だけで緻密で高度な作戦を立案し実行するのは困難だろう。当然優秀な軍師がいたと見るべきで、それは安元三年<1177>『鹿ヶ谷の陰謀』で美福門院派を裏切って清盛に密告した人物の軍師でもある」
「あッ! 多田行綱ッ。……と、いうことは――」
灼の確信に俺は頷く。
「――ああ。大江匡範・時房だ。今後、宗盛が率いる平家の軍事作戦に大きく影響を及ぼす」
「ここでやっぱり出るのね、『菅原家』のライバル」
灼の呆れ顔に、俺は同意しつつ更に見解を加える。
「源満仲より数えて八代目嫡流の行綱にとって、裏切りに諸説あるが共通するところは傍流の源頼政に対する嫉妬だろうと考える。同じ陣営にいたのでは出世が見込めないので、平家にワンチャン掛けたのかも知れないな。そして満仲以来、源氏の軍師である大江氏も当然一緒だろうと考えても良いと思う。五月十五日の奇襲攻撃は大江氏の献策だったということだな」
灼は渋面のまま微かな溜息を吐いた。生中な表現などない、最初から小侍従の――八条院派の大敗北だったのだ。
俺はとりあえず言葉を継ぐ。
「大江匡範・時房の策はこれで終わりではない。五月十七日以降は『玉葉』の記述に『山槐記』の記述も加えて検証に入るぞ」
「……いいわ。先を続けて」
気を取り直して言いつつ、釈然としない感情と共に灼は追い捲った。俺も灼が抱いている困惑を受けて、微苦笑を見せる。
「『玉葉・五月十七日条』では、以仁王が園城寺<三井寺>に潜んでおり、宇治の平等院を目指すという使者が宗盛・時忠のもとへ来たので兵を送ったところ、当の寺からは不在を理由に門前払いされたと言う話を以前にした。
しかし、以仁王を三条高倉館から逃がしたとされる八条院蔵人・源行家が祈願した『治承五年五月十九日の源行家願文』――太神宮祭文の中に所在を示す一文がある。長いので一部だけだが、俺の意訳で説明する。
『正六位上、源朝臣行家。去る治承四年の折、最勝親王<以仁王>の勅を戴きました。その内容は、入道大相国清盛は平治元年より現在に至るまで無法な威勢を誇り、不当にも高位へと昇り、天下を一門の思うままに従え、……<中略>……よって今日まで親王の勅命に従い、志士の力を結集することを試みて参りました。
振り返ってみれば、平家の思惑は以仁王を帝位の器とみなし、速やかに京都から追放することであり、昨年五月十五日の夜、急に土佐の国に配流するという噂を聞き、一旦難を遁れようとしばらく園城寺に隠れて頂いたところ、左小弁・藤原行隆が、自分勝手に院宣を流し、比叡山が以仁王に支援するのを妨害し、同年十二月、平家は軍勢でもって南都・三井の両寺を焼き討ちにしたのです。……』
つまり、園城寺は平家に対し嘘を吐いてたということだが、十五日以降、以仁王は支援要請するために園城寺で文を書き、八条院の蔵人・源行家が勅を持って比叡山や熊野、南都・興福寺まで走ったのは事実だろう。これを踏まえて――
『山槐記・五月十七日条:天気は曇ったり晴れたり。夕方に東山から洛中三条へ帰る。途中、法勝寺を過ぎ、西大路と中御門の突き当りで雑兵らが三条高倉館の残党を追っていた。
……<中略>……関白・近衞基通、大宰権帥・藤原隆季、検非違使別当・平時忠、新宰相中将・源通親が高倉院の御所で以仁王の件で話し合っていた。寝殿の東廂簾中に座っている関白・基通に右大弁兼勧学院弁別当・藤原兼光が報告した。
その内容は、興福寺別当権僧正・玄縁、権別当権少僧正・俊許から園城寺<三井寺>衆徒より勅命に背く内容の牒状が届いた。延暦寺の衆徒も同調するという風聞もあり、他の寺にも似たような回し文が送られているらしい。とても承服しかねる、と。……』
この『牒状』――つまり、以仁王が書いて行家が配って回った手紙のことだろうと推察される。実はこの密告は関白・近衞基通が指示したとされてる。それと、もう一つある」
「まだ、あるの?」
今さらのように灼が尋ねた。俺はバツの悪い思いで頭を掻く。
「大江匡範・時房も必死だからな……。
で、もう一つは新宰相中将・源通親の事だ。通親は10歳で氏爵に叙されており、父・雅通は氏長者だ。故に源氏一族の祭祀・召集・裁判・氏爵の推挙などの諸権利を持つ氏長者の権威と影響は大きいと言える。また、同じく親平家派閥の多田行綱は清和源氏嫡流で動かない。源頼政の力だけでは到底源氏を招集するのは不可能で、寺社の武力に頼らざるを得なかったということだが、それすらも完全に封じられてたということだな」
なにもかもが終わってる、灼はそう感じた。感じてもなお、言わずにはいられない。
「伊豆の荘園問題――源頼政・仲綱ら父子が平家に対し、大きな敵意を持ってたということは分かったわ。でも、何故このタイミングで呼応するように軍事行動に出たのかしら。
こんな勝ち目のない戦に身を投じる意味がわからない。ここは以仁王を見捨てて、他の皇子を担いで時期を見た方が賢い選択だと思うわ」
(さすがだな)
痛いところを突く小柄な少女に、内心感嘆の声を上げた。灼となら一緒に、もっと踏み込んだ議論や検証が出来る、そんな喜びが欲望を駆り立てる。
「平家の最終目的は八条院領の解体だ。これは間違いないだろう。確かにこのまま『歴史検証』を積み重ねていくと、どうやっても源頼政・父子や以仁王は勿論、八条院派――二代の后・多子や小侍従に勝機はない。
しかし、源頼政がどうしても覚悟を決めなければならない瞬間、小侍従によって命を賭す価値が示される瞬間――勝利を決める逆転劇が始まる」
●平良のうんちく
今回は作中でも紹介致しました『治承五年五月十九日の源行家願書』――いわゆる蔵人行家の太神宮祭文についてお話いたします。
『源平盛衰記:於巻第二十七』によると八条院蔵人・行家は治承五年<1181>の墨俣川の戦いで敗退し、矢作川まで撤退戦を繰り広げながら敗走し続けてました。そのまま三河の国府まで退く途中に奉った祭文だと言われています。
ご紹介した部分は前半で、以仁王の挙兵についての内容ですが、この祭文は以仁王の為ではなく、自分自身の武運長久を願ったものなのです。
中盤は自分の先祖である源氏の武勲を語り、父・為義は清盛のように私利私欲に走って謀反を起こしたのではなく、崇徳上皇の勅によって兵を挙げたのだと正当化する内容から、頼朝と共に自分<行家>は上洛して朝敵を討つのは神の意思によるものだ。。。。と締め括っています。
私のかなりの意訳で申し訳ないのです。。。。
しかし、実際は頼朝の指揮下に入ることを好まず、三河・尾張で独立勢力を築いていたようです。上記で申し上げた墨俣川の戦いも結局、源義朝の八男で園城寺の僧侶・義円と先陣争いをした挙句、味方の指揮系統が混乱し、平家軍に敗退しています。
源行家も乱世の波に乗って、立身出世を夢見た武士の一人だったのでしょうね。。。。。