第九十二話:闘争の渦~検証㊳~
大変ご無沙汰しております。
11月もあと僅か。年の瀬が近づいて参りましたね。。。。
今年の忘年会は、コロナの解除後ということもあり、多少は盛り上がるのではないでしょうか。
お身体には気を付けつつ、お酒をお楽しみ下さいませ。。。。
※※ 92 ※※
思いのほか豪勢だった夕食を終え、腹も心も満たされた俺は、ボフンッと居間のソファーに身を沈めた。片付けを終え、キッチンから暖簾を潜って居間へと入ってきた灼はテーブルの上に盆を置く。その上に載っているのは熱々の緑茶が入った湯飲みが二つ。俺は、その一つを指先に沁みる熱さを感じながら取り上げた。
「あんたの話を聞いて、気になったことがあるわ」
灼が、ゆっくりと緑茶を啜る俺の隣に、ストンと腰を下ろした。そして食器洗いで冷たくなった掌を湯飲みでホコホコと温めつつ、
「『平家物語』では、以仁王の三条高倉邸に向かった検非違使の中に頼政の養子・兼綱が加わってるわ。同時に知らせを受けた長男・仲綱は以仁王を逃亡させてる。騒乱に参加する理由は『木下』事件によって源氏の面目を潰された私怨ではないか、という通説には疑問が残るという事は、さっき話したけど……。
でも『玉葉』の内容は、八条院御所に検非違使が殺到する前に、頼盛の妻が八条院・暲子内親王を始め女房達を避難させてるし、その後、のこのこ出て来た以仁王の若宮も、検非違使にしょっぴかれそうなところを頼盛が保護してるわ。
つまり、平家に近い情報を持ってた頼盛が、以仁王も事前に逃がしたように聞こえるのよね。それだと、ますます頼政たちの動機が分からなくなるわ」
同じように緑茶を啜り、熱々の湯気の中に表情を隠した。八方塞がりな思いに道を示すため、俺は出来るだけ悟られないよう気を付けて言う。
「……まあ、挙兵に至る経緯と動機には諸説あるが、私怨以外では以仁王を捕らえ切れなかった仲綱に対し、宗盛が大いに非難したこと。三井寺の焼き討ちを命ぜられて頼政が難色を示したことに、宗盛は頼政親子にまで謀反の容疑を掛けたことが挙げられる。
特に源氏の信仰が篤く、源頼義が戦勝祈願をしたり、源義光が新羅善神堂の前で元服して『新羅三郎』と呼ばれたりと歴代の尊崇も深い。止む無く以仁王の味方をしたという説が有力だが……突発的な事件を動機にするには弱いかなと思う。しかし――」
目指しつつある答えに一歩踏み出して、
「――俺の私見は、建久四年<1193>に起きた『曾我兄弟の仇討ち』に頼政親子を含めた清和源氏、ひいては小侍従や以仁王まで巻き込んだ平家討伐の意思と覚悟が隠されてると考える」
俺は感得を言葉に変えた。しかし、その明確な一歩が、思いもよらない踏み出しに灼は激しく動揺する。
「え……と、『曾我兄弟の仇討ち』って、『赤穂浪士の討ち入り』『伊賀越えの仇討ち』と数えられる日本三大仇討ちの一つで、『曽我物語』は謡曲・浄瑠璃・歌舞伎などで上演されてるわ。
確か、源頼朝と共に富士の巻狩りに行った工藤祐経が、伊東祐親の嫡男である父・河津祐泰の仇として曾我祐成と曾我時致の兄弟に討たれた話よね。どうしてそれが関係するの?」
灼の生真面目な問いに、俺は他愛なく笑う。
「工藤祐経と伊東祐親の人間関係だな」
俺の口ぶりや態度から話を盛っていると感じたのだろう。急に灼は落ち着きを取り戻し、冷めた瞳を眇める。それに気付いて、
「た、確かに『歴史検証』ではあるが、これまで軍記物語など創作物は参考程度で、極力排除してきたのに、今さら『曽我物語』の内容を検証材料にするつもりはない。歴史背景が重要で、特に伊豆国の荘園に関係することだ」
慌てて弁明の声を上げた。しばらくジト目の灼が、沈黙に耐え切れなくなったように嘆息する。
「まあ、いいわ。頼政や以仁王だけでなく、小侍従までも平家と対抗しなければならない動機が伊豆にあるというわけね」
向けられた灼の言葉に、とりあえず安堵を得て、俺は先を続ける。
「伊豆国は律令制下では、坂東における島々の一つ――現在の伊豆諸島の一部――と考えられていて遠流の地であり、交通の便も悪く辺境の下国だ。また天城山を始め火山半島で平地が少なく作物がなかなか実らない。ただし鉱物資源が豊富で、硫黄や水晶、特に砂金が多く産出した。
天慶三年<940>平貞盛・藤原秀郷連合軍に参陣した藤原南家の藤原為憲は将門征伐の勲功として従五位下・木工助に叙爵され、工藤氏の祖として伊豆を中心に繁衍していく。
ちなみに為憲の母は高望王の娘であり、将門や貞盛とは従兄弟にあたる。叔父の国香・良兼と共に源護に味方し、一度は将門との戦に敗れてる。
工藤為憲は豊かな土地と共に海運に恵まれた東伊豆の狩野を開墾し、木工助という職掌から特に造船用の木材を朝廷に収めてたようだ。
応徳ニ年<1085>伊東氏の祖・工藤祐隆は久須見郷を更に開発した。祐隆の四男で、狩野氏の祖と言われる工藤茂光が狩野郷を含めた『加納荘』を継ぎ、後白河院に荘園を寄進することで検断権を得て、伊豆での勢力を盤石なものにした。
やがて、京都では平清盛の勢力が台頭してきており、久須見郷に本領である伊東郷・宇佐美郷・河津郷を併せて『楠美荘』を重盛に寄進した。そして重盛はその『楠美荘』を二代の后・藤原多子に寄進してる。
ここに祐隆<下司>→重盛<領家>→多子<本家>の構造が出来上がる」
灼は動揺の中で驚きを隠さず、
「重盛が寄進したのッ!? しかし、まあ……よりによって二代の后だなんて。
でも、時期的に美福門院の知行だった越前国を継いだ多子から、年期によって重盛に移譲された頃ね。重盛としては配慮の一端だったのでしょうけど……越前国のことも含めて清盛・宗盛・時忠が重盛と激しく対立した理由がここにもあったってわけね」
だが、なるほど、と核心へ思い至る。
「……平家の分裂が伊豆にも影響を与え、工藤氏にも内輪揉めが起きる。それが最終的に『仇討ち』に発展するということなのかしら」
その問いに俺は強く頷いて見せる。
「そうだ。祐隆の嫡男・伊東祐家が早世した時、その嫡男である伊東祐親は幼子であったため、祐隆は分家からの養子・祐継に本領の伊東郷・宇佐美郷を継がせ、祐親には河津郷を継がせた。つまり嫡流から外されたということだな。
祐隆亡き後、久須見郷と工藤本家を継いだ祐継は久寿二年<1155>に起きた大蔵合戦の矢傷により43歳で病死すると、叔父の伊東祐親が9歳の金石<祐経の幼名>の後見人となる。永暦二年<1161>14歳で工藤祐経は元服すると同時に伊東祐親に伴われて京に上り重盛に拝謁、その後は滝口武者として多子の近衛河原・大宮御所と暲子内親王の八条院御所、以仁王の三条高倉館や後白河院の旧・基盛邸を警護することとなる。
当然、警護の責任者は源頼政であり、平治の乱以降、伊豆の知行国主でもあった」
今度は明確な感情以上の確信に変えて、
「続けて」
短く言い置き、強く灼が促した。俺は笑みを含めて言葉を継ぐ。
「一方、祐経を京都へ追いやった祐親は、本領の伊東郷・宇佐美郷を奪い、河津郷を嫡男の祐泰に与える。また重盛よりも宗盛・時忠の陣営が優勢だと見るや、時忠に河津郷を寄進して関係を強めていく。
親平家派閥へ鞍替えした祐親は、清盛の命令で――名目上は重盛・頼盛だが、実質では小侍従が裏で多子から二条天皇へ嘆願――長年預かってきた流罪人の源頼朝が徐々に邪魔になっていく。時忠にも水晶や砂金が献納されるようになると、次第に下国である伊豆の知行を所望し始めてきた。
安元元年<1175>京都から帰郷した祐親は、娘の八重姫と頼朝の間に出来た嫡子・千鶴丸を殺害し、頼朝も狙われたので祐親の次男・祐清が北条時政邸に逃がしたという話は以前にした通りだ」
灼は大きく伸びをして、ソファーに深く腰かけ直す。
「異説や通説、物語……あるいは政治史や土地史など、それぞれの視点で歴史を眺めると、異なった形に変わってしまう時があるわ。でもそれらを重ね合わせてみると、異なる因果関係が同じ形として一本のトンネルを作ってしまう。そうすることで歴史がより深く見えてくるものなのね。あんたが前に話した頼朝の愛息が殺された恨みの背景も鮮明になってくわ」
灼の笑顔に軽い感嘆が込められていた。その幾分かの感情にある喜びを見つけて俺も大きく頷く。
「そうだな。それでも俺たちは歴史の断片ですら触れぬまま、知ってるつもりでいるのかもな」
物見高くも気恥ずかしい台詞を吐く俺の額を、灼が指で小突き、大きな瞳で優しく睨む。
「ふふふ。カッコイイこと言って、あんたらしくないわ。まあ……あたしから振った話題だし、そうやって歴史に没頭してる平良は好きよ」
言った灼は、互いの息も混じるほどに近くなった俺の顔を見て、大胆な自分と油断した言葉に気付く。途端に頬を上気させ、座ったままの姿勢で器用に跳ねて離れた。母親からもらったメモの内容が、頭に過ぎる刹那を打ち消しながら、
「い、今のは……、あんたと歴史の話をするのが好きという意味で……。そ、そそ、そういう意味ではなくて――ぶどうジュースなのに『モスト・ドゥーヴァ』飲み過ぎちゃった……のかな」
灼は必死な言い訳で声を繋ぐ。驚き絶句していた俺も、どういう状況なのか本気で分からなかった一瞬を置いて、答え通りの純良さをそのまま口にする。
「えーと、……俺もお前との歴史の話は楽しいぞ」
おかしみを持ってもう一度、
「お前、設楽原の実験考古の時も似たようなこと言ってたし、な」
「え?」
落ち着きを取り戻した灼は、ぽかんとなって、その意味を探した。俺の勘違いだけでなく、鈍感を通り越した無知に気付いた時、急に呆れと怒りが半分ずつ芽生えた。
(あたしの気持ち、全然分かってないッ)
反射的に激昂の声に変わる。
「そんなことより先を続けてちょーだいッ!」
「り、りょ了解……」
そんな不条理な声に、俺は困り果てた不思議な思いで『歴史検証』を続けた。
「祐親は本領の伊東郷・宇佐美郷を奪った後、祐経の妻であり、娘でもある万劫御前を勝手に離縁させ、土肥遠平に嫁がせてる。
『曽我物語』では、京で御所警護に勤しんでた祐経の許へ伊豆の母から手紙が届く。祖父・祐隆から父・祐継に相続する譲り状や地券文書が同封されており、祐親の横領と妻との離縁を知る。
祐親にとって、本来は自分が継承すべき本領であったと恨みを持ち、機会を伺ってたというわけだな。
祐経は伊豆に下って決着を着けようとするが、事態の悪化を恐れて祐親を都に召し出し上裁を仰ごうとする。しかし事前に祐親が宗盛・時忠に根回ししてた為、失敗に終わる。
ここだけ考えてみると、俺の私見では、土地の所有権に関する公的証明書である『公験』が祐経の手元にあるにも関わらず、敗訴あるいは不起訴になった理由として、祐経が『刈田狼藉』に対する確かな証拠を提示できなかったのか、平家が『刈田狼藉』の嫌疑不十分としたのか……多分、後者だろう」
灼が人差し指を唇に添えて小首を傾げる。灼の思考する時の癖だ。
「中世では一つの荘園に対して、多方面に及んで権利を持ってる人たちが重なり合ってるわ。『刈田狼藉』は権利を主張するために田んぼの稲を刈り取ってしまう実力行使だけど……。とにかく、『公験』はないが、平家によって、祐親の実効支配が認められた、ということなのね」
俺はその答えを強く受け止め、口を開く。
「ああ。実はこの時期、全国の荘園で同じような事件があったのでは類推する。それは源義仲の上京で話すとして……。
安元二年<1176>祐経の事情を知った知行国主の頼政は、嫡男・仲綱が伊豆守の任期を終え帰京してたので、次男・源頼兼を伊豆守として調査に下した。祐経の家臣、大見小藤太成家と八幡三郎行氏も同行し、祐経の密命で祐親を暗殺しようと試みるが、祐親を討ち洩らした挙句、傍にいた嫡男・河津祐泰に矢が当たってしまう」
仕方ない、という仕草を露わにして、灼は声を返す。
「これが原因で祐泰の子・曽我祐成と時致は祐経に仇討ちをするってことね」
「そうだな。しかし、祐親と平家――特に時忠が別当である検非違使庁――が完全に癒着してる以上、暗殺はやむを得ない手段だったのかもしれない」
灼の正答に俺は納得の色を見せた。
「だが、祐親の暗殺未遂が最悪の事態を招く。時忠はこの事件を伊豆守・頼兼の監督不行届として非難し、加えて伊豆介・工藤茂光に『楠美荘』『加納荘』を含めた預所<領家に代わり荘務を執り、租税の徴収権を持つ>と武者所<伊豆の武士団統括・指揮権>を祐親に譲渡するよう強要する。
さらに宗盛が伊豆・知行国の国司推薦権に介入しようとすると、源頼政が猛反発した。これらの争いも重盛が何とか仲裁してきたが、治承三年<1179>に病没すると、一気に表面化した」
嫌な予感が胸に過り、灼は声に溜息を混ぜる。
「……そして、以仁王の皇嗣問題に関与してる恐れがある、源頼政や八条院・暲子内親王、二代の后・多子に小侍従が平家に敵視され、その間に重盛・頼盛が立ってる、という構図が出来上がるのね。だいたい……動機は理解したわ」
「『楠美荘』の預所が平家に移ってしまったら、ただでさえ貧乏な近衛河原・大宮御所は飢えてしまう。小侍従にとっても死活問題だな」
そう言い合ってから、俺は一呼吸置き、
「この時代、清盛よりも重盛の方が歴史的意義は大きいと俺は考える。
治承三年<1179>七月に重盛が薨去して、十一月には治承三年の変が起き、後白河院は鳥羽に幽閉される。さらに十日後には以仁王が知行する荘園が清盛によって召し上げられ、伊豆では宗盛・時忠の介入が激しくなり、工藤家は親平家派と頼政・多子派に分裂した。
治承四年<1180>三月、小侍従は後白河院を鳥羽から脱出させることに成功し、頼政の警護の許で八条院・暲子内親王を中心として平家勢力に対抗する。しかし、暲子内親王には政治的野心はなく、小侍従は以仁王を『臣籍降下』させて融和を図ろうとする。
小侍従の理想は、源氏となった以仁王が頼政と共に大内警護として後白河院の傍に伺候することだったが、平家が先手を打って強硬手段に訴えてきた――と、ここから再度『玉葉』に戻るが……いいか?」
確認の声を付け加えた。少し間を置いて灼は、跳ねるように両足を揃えて立ち上がる。
「お茶、もう一杯飲むでしょ?」
視線を落とし、いつの間にか湯飲みが空になっていたことに気付いた俺は笑って頷く。
「ああ。頼む」
「ふふふ。ちょっと休憩入れましょう」
明朗闊達に答えた灼は、軽やかな足取りで、居間から暖簾を潜ってキッチンへ入っていった。
●新庄めぐみのうんちく
皆様、お久しぶりです。お元気でしたでしょうか?
日本史が苦手な奴が何でこのコーナーに? とか思ってるでしょ。確かに暗記は苦手でテストの点数は最悪だけど。。。。歴史は嫌いではないわよ、多分。。。。
今回は以仁王が逃亡する時間を稼ぐため、三条高倉館を死守した長谷部信連についてお話ししたいと思います。
長谷部信連は遠江<現:静岡県>の国人で滝口武士です。本文でも出た工藤祐経と同僚ですね。『山槐記』によると、
『……皆閇門、無答之人、仍光長令踏開高倉面小門之間、左衛門尉信連射之、被庇者有両三人……』
意訳すると、……門は全て閉められており、応じる者はいない。源光長が屋敷に押し入る命令を下し、門を壊している時、長谷部信連が光長に射掛けた。それを庇い倒れたものが二・三人いた……
ということで、完全に籠城戦ですよね。大いに奮戦しますが、結局多勢に無勢で検非違使の兵が高倉邸に攻め入ります。その様子が、
『……宮不御坐、早以遁出給畢云々。今夜猶武士圍之、女房等裸形東西馳走、可悲々々……』
以仁王のお姿はなく、既に逃げ去った後だった。それでも一晩中武士は館を荒し、女房達は裸で逃げ回っていた。悲しいことだ……
ゆ、許せないわッ!!……でも、そういう時代だったということなのね。恐らく八条院御所でも同じようなことが起きる可能性があったので、頼盛の妻が機転を利かせて、暲子内親王と女房達を逃がしたのね。
長谷部信連はその後、平家に捕まり伯耆国<現:鳥取県中部>に流罪になりますが、平家滅亡後は源頼朝より恩賞を頂き、能登国の国人となります。
現在でも、ゆかりの地・石川県穴水町では信連を偲び、『長谷部まつり』が行われているのです。
次回も『歴』メガ続行です。。。。お楽しみにッ!