第八十八話:小侍従の『刺客』~検証㉞~
大変ご無沙汰しております。
皆様はもうワクチンはお済ですか? 私は今月に予約出来ればいいなと思います。
すでに二回打たれた方も、一回だけの方も、これからの方も。。。。
お体にはお気を付けください。
※※ 88 ※※
県下の大動脈とも言うべき国道を渡り、やや繁華を見せる商店街に入った。その雑踏の中に俺と灼は連れ立って歩く。
「あ、ちょっと買い物してくる」
と、俺を先導しながら灼は一人、連なる店のひとつ、ごくごく平凡な精肉屋に入っていった。
「いらっしゃ……あらーァ、灼ちゃん」
恰幅の良い妙齢な女性が満面の笑みと明るい声を返した。見やりながら俺も灼に連れられ、初めて入った店内は外装同様に平凡な間取り。一番奥の離れた場所に肉塊を削る作業場があり、馬蹄状に配置された什器には牛、豚、鳥といった精肉、あるいはコロッケや唐揚げ等の加工された惣菜が陳列されていた。
「あれ? 特売の豚ロース売り切れたの?」
女性が立つ什器の前に腰を下ろして、灼は空っぽのトレイと虚しく差されたプライスカードを覗き込む。女性は申し訳なさそうに苦笑して別の精肉を指差した。
「ごめんね、さっきまであったんだけどねェー。灼ちゃんはお得意さんだから、牛のコマ肉をグラム67円に負けてあげるよォ」
「ホントォー! やったァッ。お姉さん、大好きッ」
少女から煌くような笑顔を受け取って、女性もニカッと笑う。
「参ったねェー。そう言われちゃあオマケ付けるしかないねェー」
楽し気に言い、女性は牛のコマ肉にトングを伸ばす。視線で何グラムだい、と灼に向けた。
「そうねェ……」
いつもの思考する時の癖、人差し指を唇に当て、灼は頷きを繰り返した。自問自答で検証の末、無関心な態度で傍らに立つ俺に、
「平良。あんた、今晩ハヤシライスでいい?」
「お、おお……」
いきなりの念を押す同意を投げてきた。選択肢があるのか、無いのかも理解できないまま、ほのかに笑って答えた俺を、女性は恰幅の良い腰に手を当てて苦笑を漏らす。その不本意な対応に、苦虫を噛み潰したような表情を僅かに加えると、灼は愉快気な笑みを交わして、声音も明朗に注文する。
「じゃあ、400グラムほど頂戴」
「あいよォー」
すこぶる溌剌とした捌きで経木に肉を盛り、デジタル計量器に載せた。表示は450グラムを差したが、女性は笑みを絶やさず、さらに肉を追加する。俺の驚きに片目を瞑って笑って見せた。
「灼ちゃんが、せっかく美味しい晩御飯を作ってくれるんだから、カレシ君には沢山食べてもらわないとねェー」
不意に矛先を向けられ、戸惑う俺より先に灼が、
「もおォー、お姉さんッ。平良とはそういうのじゃなくて……まあ、いつも一緒にいたい人だけど……」
滅茶苦茶に手を振りながら、嬉し恥ずかしの表情で頬を赤らめた。まるで新妻のような振舞いに、俺は戸惑いが突き抜けて途方に暮れた。当てられた女性は、自分のお腹を満足そうに撫でながら追い打ちを掛ける。
「はいはい、彼氏以上に大事な人なのねェー。羨ましいわァー」
女性の活き活きとした笑みを蕩けたような笑顔で受けながら、灼は金銭の授受が終わると、半ば強引に俺の手を引く。
「毎度ォー、また来てねェ」
満面の笑みで手を振る女性に、俺はぎこちなく会釈を返す。灼は振り向かずに、耳たぶを熟れたトマトのようにして、無言で店の自動ドアを潜った。
その後も赤ワインを求めて酒屋に寄った。精肉店と同様の問答を繰り返し、灼よりも傍らにいる俺の方が狼狽えつつ、極限まで疲労した身体を引きずり店を出た。
「ウチに配達と支払いはお袋か。帰ったらお袋にも弄られそうだな。……他の店にも寄るのか?」
ウンザリ顔になった俺は、灼に訊く。
「そうね。トマトも玉ねぎもマッシュルームも……他はスーパーで問題ないわね」
答えた灼は細い指を順番に折りながら、自分の回答を頻りに勘案していた。確認の頷きを繰り返す灼に、俺は小さく疑念を混ぜて言う。
「肉も料理用ワインもスーパーで良かったんじゃないか?」
「ダメよッ」
指折りでのリストアップを中断し、可愛さも愛嬌も十分な押し出しの強い表情で俺を見た。
「お肉は……売り切れだったけど……特売日だったし。スーパーで売ってる料理用フルボディでは薄いのよ」
「薄い? 水か何かで薄めてるのか?」
意味が分かっていない俺に、灼は怪訝の笑みを零す。
「コクを出す渋みが足りないってこと。ハヤシライスを作るにはトマトベースで煮込むのだけど、他の野菜と一緒にトマトを炒めて煮込むフランスの『ラタトゥイユ』。他の野菜を炒めた後、トマトと赤ワインで煮込むイタリアの『カポナータ』があるわ。あたしの調理は基本的にイタリア流よ」
俺は今まで灼が作ってくれたレパートリーを思い出した。得心の色味を宿す俺の頷きに、灼の顔が明るく晴れ、先を続ける。
「『ハヤシライス』は『ハッシュドビーフ・ウィズ・ライス』というのが有力な説だわ。それがハッシライスとなって日本に伝わり現在に至るわ。
そもそもハッシュドビーフは、古くからあるフランスの牛肉や骨、トマト等の野菜を煮詰めた『煮こごり』――ソース・ドゥミ・グラスが18世紀頃のアメリカで考案されたトマトケチャップを使うことで簡単に作れるようになって、肉汁スープに混ぜたのが最初だと言う説があるわ。それが明治になって日本に伝わったってわけよ」
俺は感心の笑みで大いに頷く。
「なるほど……。現在でもケチャップは万能調味料だからな」
応じて、灼が陶然として笑い、
「トマトケチャップのことを総称としてケチャップって呼んでるけど、もともとは古代中国で作られていた魚醤の『鮭汁』が訛ってヨーロッパに伝わったとも言われてるわ。中華料理での『オイスターソース』なんか想像しやすいかしら。
元来のケチャップはカキ・アンチョビを材料とする魚介類ソースや、マッシュルームや果物といった植物素材のソースのことを言ったのよ」
俺の腕を抱きしめるように、灼は自分の腕を絡める。
「ハヤシライスの起源には他にも説があって、岩村藩・藩医だった丸善創業者の早矢仕有的が病院食として肉と野菜の煮込み料理とご飯を出してたのが最初だとも言われてるわ。
明治期にアメリカから入ってきたケチャップは世界的にトマトケチャップが主流だったので、日本ではすでにトマトケチャップはケチャップなのね。明治四十一年<1908>に海軍で編纂された『海軍割烹術参考書』にも『シチュードビーフ』としてトマトケチャップを使った料理があるわ。これとご飯を合わせたのだと思うわ」
この瞬間を灼は心から満足していた。その込められた心を、俺は腕から伝わる身体の暖かさを確かめつつも狼狽え、
「その文献ならば俺も読んだことがある。確か舞鶴市のホームページで無料公開されてるはずだ」
驚く俺を、灼は唐突に軽やかに顔が近づくほどに腕を引き寄せる。
「ふふふ。今度、日本橋に行って丸善カフェで『早矢仕ライス』を一緒に食べよう。きっと美味しいわ」
からかいでも軽口でもいい。慣れた男性ならば「君が作ったハヤシライスの方が美味しいさ」ぐらいは言うのだろう。しかし、俺はややの仏頂面になって、ただの一言。
「お……おう」
そんな俺の様子を、灼は愉快そうに笑った。
俺は大きな買い物袋を提げて、灼とスーパーから出た。帰宅の時間帯ということもあり、商店街の歩道は行き交う人たちでごった返している。
ごく当たり前の日常風景。車道と区分けされている柵に並んで座り、クレープを持って楽しげに話している女子学生たち。買い忘れでもしたのか、老婦が慌てて走り抜けていく。俺と灼の足は冷たい夕風を人波に揉まれて家路へと歩いていた。
「――でね、めぐみ先輩が言うには、練習試合で相手チームの監督が、やたら怒鳴ってたんだって。あまりにうるさいので主審が注意しても聞かなくて、その時に隣のコートで試合してた男子のサーブが大きく逸れて、ボールがその監督に当たって――ふふふ。その主審、特に選手を厳重注意しなかったらしいわ」
灼は弾む声で楽しく笑った。身体を押し付けられたまま、俺は遣り切れない思いで話題を受ける。
「そういう時は反則にならないのか?」
「当たり所が悪ければ、試合中止になるかもだけど……。後衛のサーブ・ボールが味方の前衛に当たる話はよくあることだし、仮に相手選手に当たってもルール的には反則にならず、むしろポイントになるわ。
相手の身体を狙って打つという『ボディーショット』戦術もあるにはあるけど……マナーとしては問題ね」
密着した腕には、暖かい僅かな膨らみを感じ、半ば困惑顔の俺は誤魔化すように視線を泳がす。
「せ、戦術と言えば……治承三年<1179>に出家し、再び『二代の后』藤原多子の女房として『八条院派』に戻ってきた小侍従だが、翌年の治承四年<1180>二月に高倉天皇が譲位し、中宮徳子の産んだ言仁親王が安徳天皇として即位すると、清盛の高倉上皇・厳島行幸計画に対し、先手を打った。同年三月に起きた園城寺<三井寺>僧兵らによる後白河院・高倉院の誘拐事件だ」
視線の先にあるのは夕闇を照らす様々なネオン灯のイルミネーション。俺は声音に照れを交えて言った。その態度に灼は少しだけ口を尖らせる。
(平良の馬鹿……)
こうして久しぶりの買い物、二人きりの楽しい時間に水を差されて、罵倒ではない不満を胸の内で抗議する。
(あたしも、あんたとの歴史の話は好きだけど……こういう時はやっぱり……生真面目な平良の馬鹿)
早熟な少女は預けていた身体を起こし、未熟な少年から少しだけ離れてほのかに笑った。
「園城寺僧侶が発案し、延暦寺・興福寺の一部が加担した『誘拐』計画ね。結局、未遂で終わったけど……しかし、いきなり穏やかではない作戦ね」
俺も困った顔のまま笑い、
「そうだな。清盛にとって幼帝の安徳天皇を補佐するため、コントロール出来る院政が必要だ。そのためには後白河院は幽閉したまま高倉院を手中に入れておかねばならない。
『玉葉:治承四年三月十七日条』によると、夜中に兼実の家司でもある検非違使・源光長がやってきて高倉院の御幸延期を伝える。理由は園城寺大衆に延暦寺・興福寺の大衆が加担した両院の誘拐事件が発覚したからだ。実は検非違使庁に密告があったという。別当は清盛のいる福原に検非違使・季貞を使いに出したが、俄かに信じられなかった。しかし、後白河院直筆の文が検非違使・別当のもとへ届き、事実と判明したということだ。
だが、小侍従にとって、この『誘拐』は失敗しても良かったんだ。その理由は後で分かるが……厳重に幽閉されて出入りする人間まで監視されてる後白河院が、どうして文を届けることが出来たと思う?」
灼は驚いた顔を見せる。
「そ、そりゃあ……幽閉先の誰かを買収した、とか。でも、相当信用できる人間でないと直筆の文なんか預けること出来ないよね」
「『治承三年の政変』で流人となり、配流の途中で逃亡するが、逮捕され『平家』の嫡子・平宗盛の拷問によって獄死する平業房を覚えてるか?」
俺が言う、その楽しげな声音を感じた灼は、わざとらしい口調で尋ねる。
「覚えてるわ。あの時、あんたは言ったわ。なぜ『平家』の嫡子が『伊勢平氏』の嫡流を拷問したのか――その理由を教えてくれるのかしら?」
俺は大きく頷く。
「小侍従は業房の妻子を保護してる。妻は高階栄子、母は平正盛の娘の子という説もある。後に『丹後局』と呼ばれ、平滋子の崩御後に後白河院の寵愛を受け、その後の政治に大きく関わる女性だ。また遺児は『八条院派』藤原実教の養子となり、山科家の祖・山科教成となる。
その妻子を幽閉先の後白河院の元へ、異母妹の八条院・暲子内親王の伝手を使って送り出したということだ」
灼が、その答えに深く何度も頷き、感想を漏らす。
「平正盛の軍師は菅原在良だし……小侍従にとっても決して縁がないわけではないのよね。つまり、平宗盛は業房を拷問して、『八条院派』あるいは小侍従の弱みを探ろうとしてたのね」
俺は明るく笑って見せ、
「そういうことだ。その後の出来事から、きっと業房は口を割らずに死んだんだろうな。丹後局も平家には大きな恨みがあるというわけだ。
『玉葉:三月十八日条』によると、後白河院は僧兵に襲われる可能性があるということで洛中の五条大宮の為行邸に移されてる。つまり、小侍従の策は後白河院を幽閉先の鳥羽から京に連れ戻す事だったんだ」
無邪気に言う俺とは逆に、その先にある何かを予感した灼が、自分では認めたくない苦しい笑いで顔を青ざめる。
「……小侍従って、絶対に敵にしちゃあダメな女ね」
空は、完全に夕を置いた夜になっていた。
●山科花桜梨のうんちく
随分とお久しぶりな気がします。皆様、お元気でしたでしょうか。
今回は私のルーツである山科家についてお話します。
山科家は徳大寺公親の養子となった藤原実教が祖となりますが、実際に山科を名乗るのは、実教の養子で業房の子・教成が、母である丹後局の遺領――現在の京都市山科区――山科荘を相続してからだと言われてます。
実際、山科家で有名な方は『言継卿記』を著した戦国時代の山科言継ではないかしら。とにかく多くの戦国大名と繋がりがあったようだわね。
今回の本編が長いので、うんちくはこのくらいにしておこうかしら。長すぎるのも問題だと思うわ。
クックック。。。。