第八十七話:二人の『平氏』と『以仁王』~検証㉝~
大変ご無沙汰しております。
この度、評価ポイントおよびブックマークを頂きました。遅ればせながら、厚く御礼申し上げます。
執筆に際し、とても励みになります。重ねてお礼申し上げます。
明日は76年目の終戦記念日となります。
高校時代の日本史の先生が旧陸軍の将校でした。南方で終戦を迎えたと聞きました。
とある日の午後休み。その先生と私で雑談をしていた時です。
「終戦記念日じゃのうて、あれは敗戦記念日じゃな……。でも、散った部下の事を思うと、やっぱり終戦記念日と呼ぶ方がいい」
南方で日本の降伏を聞いた先生が、空を見上げてぼやいていたのを覚えています。あまり戦争のことを語らない歴史の先生でしたが、一度だけ、新田義貞が鎌倉を攻めた策にならい、引き潮を狙って背後の岸壁から米軍の食糧庫を襲ったという話を聞きました。皆で笑いながら缶詰を抱えて帰投する時に見た満月が忘れられないと言ってました。
あの時代には様々な思いがある人がいらっしゃることでしょう。
明日、再び8月15日を迎えますが、あの時代に生きた方々、亡くなった方々に国籍関係なく敬意を表し、哀悼の意を捧げます。
冒頭から長くなりまして申し訳ございません。今後とも拙作をお楽しみ頂ければ嬉しいです。
※※ 33 ※※
切れ切れの雲間から彼方へ沈んでいく夕日が、校舎を寂寥の緋色に染める。
部活を終えて、グラウンドを歩いている生徒たちをも染めて長い影を引いていた。
その赤が、俺と灼の歩きつつある部室棟廊下とその空間も満たし、溢れかえる。
「治承三年<1179>清盛のクーデターと言われる『治承三年の政変』が起きた後、いよいよ『源氏』が挙兵するのよね」
俺の傍らを追うように付いてくる小柄な少女が言った。その意味を熟慮した上で返答する。
「まあ、そうなんだがな。そこに至るまでに、もう少し色々ある。クーデターにしろ、戦争終結にしろ、内外に示すための政治的効果――『論功行賞』……いや今回は『信賞必罰』というべきかな。それが大事だ。
クーデターの翌日、関白・松殿基房と嫡子・師家が官位を剥奪されるというのはさっき話したが、同時に平家が後ろ盾となってた近衛基通が関白となり、内大臣・藤原氏長者となった。当然、この後も叙位も含めて解官や配流といった朝議が何度も行われてる。その状況下、俺は二人の『平氏』である平業房と平頼盛が重要人物となり得ると考える」
「えーと……『平家』ではなく『平氏』?」
灼の驚きを持った感想に俺は大きく頷く。
「ああ。業房は高望王流平氏で貞盛の四男・維衡の嫡流だが、庶流の正盛・忠盛が巨利を築き、清盛が『平家』に婿入りし権力を伸ばしてるうちに没落した『平氏』だ。
今様を勉強し、後白河院に近づくことで身分は低いが院の寵臣となる。しかし、事あるごとに清盛と張り合ってたみたいだな。安元三年<1177>6月の『鹿ヶ谷の陰謀』で清盛に捕縛されるが『玉葉』によると後白河院の懇願で処分を免れてる。
しかし、『治承三年の政変』の三日後、十七日の除目では解官の中に『左衛門佐相模守平業房』と記述されており、さらに翌十八日の除目では流人として松殿基房と共に『平業房、伊豆』と、その名前が記載されてる」
灼は細い人差し指を唇に当てた。冷静に思考を巡らせるときの癖である。
「続けて」
不意に口を開き、先を促した。
「業房は配流の途中で逃亡するが、翌12月に逮捕され、『平家』の嫡子・平宗盛の拷問によって獄死してる。なぜ『平家』の嫡子が『伊勢平氏』の嫡流を拷問したのかという理由は後に話すつもりだが、もう一人の『平氏』――実質『平忠盛の嫡男』だった平頼盛は『以仁王』と通じて、小侍従と関係があった可能性がある」
灼は半ば呆れた表情で苦笑し、
「まあ、何処かで再び登場してくるとは思ってたけどね。それより、頼盛は忠盛の正室・藤原宗子――つまり、池禅尼の次男だわ。長男は『頼朝が生き写し』だと言われた家盛だけど若死してる。だから年齢的には異母兄の清盛がいるけど、本来は頼盛が嫡男だった。
あたしは『治承三年の政変』に紛れて、清盛は平氏一門の粛清を狙ったのだと思ったけど……もっと深かったのね。とにかく先ずは、あんたの私見を聞かせてちょうだい」
と、自分自身の解釈と納得を急がず、俺に差し戻した。
「『治承三年の政変』の三日後、十七日の除目――業房と同じく解官に『右衛門督平頼盛』と記述があった。だが、刑の執行はなかったようだな。しかしある意味、業房より深刻だったかもしれない。
『玉葉』十九日条によると、
『……午刻許人傳云、法皇御幸鳥羽、是為伐頼盛卿、御所近々之故所渡御也云々……』
……午の刻<昼の12時>に人から伝え聞いたのだが、後白河院は鳥羽へ<幽閉されるため>行幸されたらしいが、頼盛も成敗されるとか。後白河院の御所に度々伺ってたからだということだ……。
『……未刻人来云、已寄六波羅<頼盛邸>合戦云々、凡夢歟、非夢歟、未覚悟、又云、伐頼盛事、諸無実也云々……』
……未の刻<14時頃>、既に六波羅にて合戦があったとか。全く夢なのか、夢ではないのか。未だに信じられない。また伝え聞く、頼盛の成敗は事実無根だったらしい……。
『玉葉』二十二日条だ。
『……傳聞、頼盛卿所領等、併皆以没官云々、又業房配伊豆国之間、於路頭逐電了云々……』
……伝え聞く、頼盛の所領が併せて皆、没収されたということだ。また業房は伊豆に配流される途中で逃亡したらしい……。
現代訳は俺の意訳だが、清盛自身は頼盛討伐を本気で考えてたと思う。それが中止になったのは、例えば六波羅の池殿に住む池禅尼が奔走したのか、それとも何かしらの政治的作用が働いたのか……。俺の私見は続くが、取り敢えず上靴を履き替えてからにするか」
語り合う内に、誰もいない玄関ホールまで辿り着いていた。俺はそのまま二年生用の下駄箱へ歩くと、一旦別れざるを得ない灼が、
「ちょっと待ってて。すぐに戻るから」
と、言い置き、一瞬の名残惜しさを見せて、一年生用下駄箱に向かって駆けて行った。
朱が差し込んでいた校舎やグラウンドは、いつしか宵闇に沈み、時の寂寥を否応なく感じさせられる。深い藍色の空の下、俺と灼は校門を抜け、やたら長い緩やかな坂道を下っていた。
「ここに至って、清盛はどうして、結果的にデマ……ということになったけれど、頼盛討伐という露骨な行動に出たのかしら」
俺は大きく伸びをして答える。
「そうだな。表向きは……今様は抜群でも、政治音痴の後白河院を焚き付けて、好き勝手に政治を乱す近臣の一人だったからだが、裏向きは朝廷における位階の順位だと考える」
「と、いうと?」
隣を歩く灼が、窺うように期待するように短く訊いた。俺は頷いて、しばらく歩いてから口を開く。
「『平家』の叙位は清盛から順に重盛、三番目が頼盛だ。つまり重盛が亡き今、清盛に続くナンバー2は――」
灼は数歩先んじると、閃きの喜びで軽く跳ね、
「頼盛ねッ」
言って、クルリと回る。マドラスチェックのスカートがプリーツを広げて風に流れた。少し癖毛のあるツインテールを躍らせる少女の可憐さに、思わず見惚れてから、
「そうすると、さっきお前が言った通り『平氏一門』――というより頼盛の粛清になってしまうが――覚えてるか? 忠盛は『源平融和』を唱えた清和源氏の棟梁・源義忠から一文字贈られたという話」
目を細めて言った。灼はいつもの幼さに煌きを見せて笑い返す。
「覚えてるわ。でも叔父である源義光の謀略によって暗殺され、その後義朝の代になるまで『源氏』は同族同士で争って足を引っ張り合うのだったわよね」
その光景と会話の径庭に、俺は苦笑を漏らす。
(まあ、俺たちはこんなもんかな……)
二人で積み重ねてきた日々を思い出して、すぐに気持ちを切り替えた。
「その『源平融和』を受け継いだ頼盛は、旧美福門院派閥で二条天皇の准母である暲子内親王――『八条院』と深く関わりがあり、『以仁王』や『源頼政』とも通じてたことが重要だと考える」
俺の言葉を素直に受け取った灼は、疑問の心を湧かせる。
「鳥羽院や美福門院から相続した膨大な荘園を背景に、二条親政派から二条天皇崩御後は『八条院派』と呼ばれる所以ね。『鳥羽院の嫡流皇女』として清盛も手出しが出来ない存在だわ。『治承三年の政変』後は、密かに異母兄である幽閉中の後白河院も支援してたとも言われてるし……頼盛が待賢門院派閥出身の平滋子とも交流がなく、疎遠だったというのも分かるわ。
でも、一番気にしてたのは滋子本人ではなく、その周囲にいる清盛や平時忠、そして嫡子の宗盛だったのね。そして滋子が崩御、重盛が薨去した後、八条院派を恐れて一気に動いたということかしら」
俺は満面の笑みで頷く。
「その通りだ。かつて清盛も参陣してた美福門院派閥――保元・平治の乱で神算鬼謀を打ち出した小侍従の恐ろしさを知ってる。故に時を移さず次の手を打った」
灼は俺へと向き直る。俺はそのまま続けた。
「『山槐記』の治承三年<1179>十一月二十五日条、クーデターから約十日ほど経ってからだ。
『……或人云、高倉宮<以仁王>知行之常興寺、被付天台座主明雲云々、彼宮故天台座主<※ウ冠に取>雲親王弟子、被付属件寺、座主入滅後加元服、猶知行彼寺、有庄園等、而當寺座主為彼<※ウ冠に取>雲親王弟子、仍被付法家歟』
……ある人が言うには、以仁王が知行する常興寺の寺領を――現在、京都市南区にある城興寺――天台座主・明雲に与えたらしい。この宮は今は亡き天台座主・最雲法親王の弟子であり、その座主が亡くなった後も、<出家せずに>元服した以仁王は寺領を継承したということだ。そういう事で天台座主・最雲法親王の弟子である現在の天台座主、明雲に与えたという。
かなりの意訳で悪いが、当然与えたのは清盛だ。まあ、最初にこういう訴訟があって清盛が利用したのか、それとも以仁王の隙をワザと突いたのか、そこは不明だが……経済基盤を崩すことで八条院派に揺さぶりを掛けたのではと考える」
果たして灼は、『歴史検証』が大きな分岐点にぶつかることを予感して言う。
「通説では、この件で以仁王は源頼政の献策によって、全国の源氏に令旨を発し、平家討伐を決意して挙兵するのよね。でも――」
その緊張を露わにする声を中途で切るように、俺は話を続ける。
「ああ。小侍従はとにかく保元・平治の乱後は多忙の極みだった。安元の大火や摂関家の分裂、『菅家廊下』の兄弟子である藤原範兼の急死と子・範光の保護、源義朝の六男・範頼の引き取り先……。高倉天皇の女房として静観してたが、清盛の手が自分の足元にまで伸びてることを悟ったのだろうな。
この年、治承三年<1179>に出家すると、再び『二代の后』藤原多子の女房として『八条院派』に戻ってくる。――ここから小侍従の反撃が始まる」
●灼のうんちく
いよいよ源平合戦へと突入するのかしら。
今回は平頼盛の実母である池禅尼についてお話をします。
池禅尼は『平治物語』にあるように、頼朝が捕らえられると清盛に「死んだ家盛に生き写しだ」と言って助命したという逸話が有名です。まあ、この辺は平良の私見だとちょっと疑問だってことは既に言ってると思うわ。本文ではあまり詳しく言ってなかったけれど、全くのフィクションではない可能性もあります。
池禅尼は名は藤原宗子といい、平忠盛の正室です。清盛にとって継母に当たりますね。崇徳上皇の皇子・重仁親王の乳母にも任ぜられたこともあり、恐らく待賢門院派閥の女房だったのではと考えられます。『愚管抄』には、
『……イヒシラヌ程ノ女房ニテアリケルガ。夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者ナリケルガ……』
意訳ですが『…あまりよく知られてない女性ですが、夫の忠盛を『持耐えたる』人……』だったらしいわ。良く尽くす女性だったのね。また『愚管抄』には、保元の乱の際、子の頼盛に「本来は崇徳院<待賢門院>側に付くべきだろうけど、必ず負けてしまいます。あなたは兄の清盛に従って後白河天皇<美福門院>に行きなさい」と言ったと聡明な女性として伝わってます。しかし、『愚管抄』は歴史書とは言われているものの、作者・慈円の複雑な事情背景が見え隠れしてて客観性が欠く部分もあるような気がするわ。
しかし、平良の私見だと、実際に待賢門院側から美福門院側に引き込んだのは平忠盛の四男で異母兄である平教盛と考えてるようね。教盛は清盛とは表面上は従っていたが、裏では二条親政派の藤原 成親と繋がっていた。成親の子・成経が教盛の娘婿であり、成親が『鹿ケ谷の陰謀』で捕縛されると、頼盛・重盛とともに助命嘆願に走る。ちなみに藤原成親は『愚管抄』による『……何事ニカメシノ候ヘバ見参ハセン……』と清盛に挨拶した途端、捕縛された人ね。平良の私見で、政治の生贄にされた可哀そうな人よ。
ちなみに成親の父・家成の従妹は美福門院であり、弟の藤原実教は伊豆に配流される途中で逃亡し獄死した平業房の子・教成を養子にしてる。また妹が徳大寺公親の妻であり、小侍従の夫である徳大寺実定とは従兄弟にあたります。
キリがないのでここまでにしますが、本当のところ、池禅尼は頼盛に「教盛を頼りなさい」と言ったのだと思うわ。その方がその先の歴史の事件の数々が腑に落ちるもの。
頼盛と教盛。。。。『平氏』でありながら『平家』の中で生きていく二人の人生は大きく分かれていきます。
池禅尼は二人の息子を本当に大切に思ってたのだと感じるエピソードでした。。。