第八十六話:乱世の『暗雲』~検証㉜~
大変ご無沙汰しております。
オリンピックが開幕いたしましたね。。。。
今期は自宅でテレビ観戦ということですが、スーパーでのビールの売れ行きはどうなんでしょう?
選手の皆さんも健康には十分気を付けて競技することを願います。
※※ 86 ※※
非正規部員たちが去って、俺と灼は二人になった。
室内の中央に位置を占める長机の上へ放り出されていた数種のTシャツを揃え纏めながら、
「安元二年<1176>に平滋子が崩御して以来、時代が大きく変化してくわ。これって歴史を後出しジャンケンみたいに考察する感じでズルい気がするけど、後白河院の寵愛を受け、後白河院に代わって除目や政事について奏聞を受けることもあったぐらいに重要人物だったということよね」
灼は言葉に確認を込めて訊いた。俺もこれまで復習を踏まえて返す。
「ああ。平滋子に長く仕えた藤原定家の姉である、建春門院中納言の日記『たまきはる』には、とにかく才色兼備だったと記されている。しかも上西門院の女房だった頃から几帳面で常に周囲の人に気を配る礼儀正しい女性で、小侍従のマブダチである建礼門院右京大夫もベタ褒めだったというくらいだ。
しかし、滋子はもともと女御にもなれなかったぐらい身分が低い。出来る女性を演じつつ、内面はかなりプライドの高い女だったんだと思う」
言って、どうだろうと思った。関わりのある人に対して気遣いという壁を作り、周囲の人も思いやりという遠慮で距離を置いていたのではないだろうか。
実際、滋子には政敵と呼ばれる殿上人も女房もいなかったが、味方もいなかった。頼みは平家一門のみだった。後白河院と二条天皇が政治の主導権を巡って激しく対立していたため、旧美福門院派閥――二条院派の二代の后・多子をはじめ、小侍従、源頼政、以仁王等は政敵には違いないのだが、直接対決には至っていない。
ともあれ、藤原家氏長者を分裂させ、累代藤原家の荘園までも掌中に収めて全国の荘園の大部分が平家の管理下となった。平家一門は全て公卿へと昇り、息子が天皇として即位し、姪が中宮となって孫が次の天皇となる。その圧倒的な権力と栄華を誇示したという史実は厳然と存在するのだ。
Tシャツを揃え終えた灼は、俺の見解を聞いて微かに表情を曇らせる。
「そうね。『古今著聞集』巻八・孝行恩愛には、
『……仁安三年、<六条天皇から高倉天皇へ>御譲位ありけり。御即位の日、女院<藤原呈子>皇太后宮<建春門院・滋子>立ち給ひて……<中略>……昔肩をならべまゐられたりける上臈女房誰とかや、宮の御そばに参りて、「この御めでたさをば、いかが思召す」と、問ひ参らせられければ、「先の世の事なれば何とも覚えず」とぞ仰せられける。ゆゆしかりける御心なるべし』
かつての同僚が「一門の栄光をどう思う?」と聞いたら「前世から定められた運命みたいなものだから、何と思えばいいのかしら」って答えてる。心に思うことも憚れることだ――ということだけど、キャリアウーマンから社長夫人になったみたいな感じかしら。隙が無く、敵を作らない愛嬌のある人だけど……あたしは好きになれないタイプよね」
声を抑えて思いを吐露する灼に、俺は思わず苦笑を漏らす。
「異母兄妹に清盛の正室となった時子と、あの『平家にあらずんば……』と喧伝した平時忠がいるが、二人とも本来は身分が低く出世は見込めない。実質『平家』の総領姫である滋子が一族の盛衰を背負ってたんだと思う。
豊臣秀吉もそうだが、身分の低い者が成り上がると、人脈と信頼関係が薄い分、一族を頼らざるを得なくなる。つまり平家一門は単に富と権力を独占したかったのではなく、滋子が清盛を時子に婿入りさせ、『平家』の勢力を拡大させ、後白河院をコントロールして権力を獲得したのは一門を守るためだった。『平家』は滋子がいたから栄華を掴めたと言える。だからこそ――」
俺の言葉を灼が後に受けて、もう一度なぞる。
「平滋子が崩御して以来、時代が大きく変化してくのね」
厳しい現実を粛々と受け止めて、
「ああ。滋子という時代の行路を失い、残された者は迷走するようになる。つまり動乱の世が始まる」
俺は軽く咳払いをして『歴史検証』を仕切り直した。
ミルクティーが入った二人分のカップを長机に置き、灼は俺の隣にある椅子に掛けた。
「『平家物語』には安元三年・治承元年<1177>四月・安元の大火は三千人もの僧徒が京内を放火して回ったという噂が流れ、それを信じた後白河院は比叡山を焼き討ちしようと兵を集める。しかし、同年六月・実は清盛を奇襲するための陰謀だったと多田行綱が密告して、後白河院の主だった近臣が一斉に捕縛された、というのが鹿ヶ谷の陰謀だったわよね。
でも、この陰謀は清盛のでっち上げだった。近臣をスケープゴートに仕立てることで後白河院を牽制し、なお且つ騒乱の元凶だった近臣を処罰することで比叡山の動きを封じる策だったというのがあんたの話だったわ」
俺はミルクティーを啜り、大きく頷く。
「ああ、そうだ。近臣を処罰した際、後白河院は終始シラを切り続けたというのは前に話したが、清盛自身も後白河院の責任は追及しなかった。これ以上の対立を避けたためだ。
『山槐記』によると、治承二年<1178>中宮・徳子が高倉天皇の第一皇子を出産し、後の安徳天皇――言仁と命名される。生まれてすぐ親王宣下がなされると、後白河院に立太子を迫ったとある」
「後白河院も嫌とは言えない状況だわね」
率直かつ的確な物言いで、灼は自縄自縛だと言わんばかりに返した。俺も決して好意など抱けようはずもないのだが、同情や斟酌は歴史を検証するためには不必要なものである。俺は平静な声音で再び口を開く。
「近衛基実の死後、摂関家領の大部分を相続してた平盛子が治承三年<1179>に死去し、続けて清盛の嫡子である重盛が死去する。後白河院は除目で近臣の藤原季能に越前守を任じると、越前国にあった重盛の荘園を横領してしまう。しかも近衛基通を差し置いて、関白・松殿基房の子・師家を権中納言に昇らせた。また盛子の管理していた摂関家領は本来基通が相続するはずだったのを倉預にして、事実上その所領の全てを没収してしまった。これが発端となり、清盛は数千騎の大軍を率いて福原から上洛し、後白河院を幽閉してしまう。『治承三年の政変』に至る通説だな」
灼が呆れ顔で困った風に笑う。
「清盛は相当に怒ったはずよね。見逃してあげたにもかかわらず、後ろ足で砂をかけられたんだから」
表情は変わらず、だが声には意趣返しに対する嫌悪がはっきりと滲み出ていた。もし、悪意の為せる業によってのみ歴史が紡がれていくのであれば、世界の運命は余りにも理不尽だろう。人は善も悪も営んで時代を築き、歴史を組み上げていくのだから。
「まあ……後白河院は嫌がらせだけで平家と対立してたわけではないし、清盛も決して後白河院を疎んじてたのではない。お互いに病気になったら見舞いに行ったりと、それなりに大人の付き合いをしてたわけだ。また、後白河院は当初より院による絶対親政を望んだわけでもなく、清盛にしても若侍の頃から野心いっぱいで独裁政権を目指してたわけではない。そう見えるのは当時の置かれた状況を後世の歴史家が様々な見識で検証した結果であって、俺たちはその研究を尊重しつつも盲信してはいけないと思う」
釘を差すと言うほどでもないが、俺の軽い意見に灼が頬を膨らます。
「わかってるわよ。あたしたちの感情や常識で歴史を考察するのがタブーなのは、あんたに言われるまでもないわ。ただ、当時の生きた人の気持ちを代弁してるだけよ」
語調の押しこそ弱いが、プイっとそっぽを向いて消極的に評価を認めた。俺は謝意を込めて灼の頭を優しく撫でる。
「余計なことを言ったな……俺が悪かった。とにかく話を戻そう。
『愚管抄・巻五』にある通り、
『……小松内府<平重盛>ハ八月一日ウセテ後、カレガ年比シリケル越前國ヲ入道<清盛>ニモトカクノ仰モナクテ左右ナクメサレニケリ。又白河殿<平盛子>ウセテ一ノ所ノ家領文書ノ事ナド松殿<関白・松殿基房>申サルル旨有ケリ。院モヤウヤウ御沙汰ドモ有ケリナド聞テ、ヲトトシノ事ドモフカクキザシテノ上ニ、イカナルコノ外ノヤウカアリケン、入道<清盛>福原ヨリ武者ダチテニハカニノボリテ我身モ腹巻ハヅサズナド聞エキ。……』
とあり、これが治承三年<1179>平清盛が軍勢を率いて京都を制圧し、後白河院政を停止した政変――『治承三年の政変』の原因であるといわれてる。そして通説としての解釈なのが、先ほど言った内容だ」
感情を消し去ることで、灼は言葉の違和感を覚えた。どこか無理矢理に結論を手繰り寄せたような強引さ。うーんと唸り声を上げて俺に尋ねる。
「『愚管抄』の内容って……ちょっと平家寄りな感じがするけど。通説にあるような後白河院の嫌味が感じられないわ。松殿基房が「盛子が亡くなったのだから、摂関家の荘園と文書を私が引き継ぎましょう」としゃしゃり出てるのも気になるし」
俺は核心を突いた灼に大きな頷きで返す。
「そこなんだ。まあ……『愚管抄』は時系列がバラバラなので綺麗に整理してみると、
六月十七日:『<山槐記より>子剋、白河殿於白川亭薨去』23時から翌日午前1時までの間に盛子が薨去したとある。
十八日:『<玉葉より>天晴。早旦人傳云、白川准后、去夜薨去云々。重又聞實説……』
九条兼実は翌朝に伝え聞いて、その後に実際に聞いたようだな。ただ、この後に『……天下之人謂、以異姓之身、傳預藤氏之家、明神神悪之、遂致此罸云々……』と記されており、思いっきり反平家だったということが伺える」
俺は一旦、冷めたミルクティーを口に運んだ。灼が俺のカップを覗き込んで肩を竦める。その意味は中身のお茶に対してなのか、言葉に対してなのか。どちらにも取れる態度で、
「乱暴な言い方だと『違う氏の出身者が、摂関家累代の荘園を奪うから神様のバチが当たった』ということかしら」
灼は立ち上がり、部室の隅にある電気ポットとティーバックを持ってくる。俺は残ったミルクティーを飲み干し、空のカップを手渡した。
「まあ、日記だからな。好きなように書けるわけだが……後世の俺たちから見ると興味深い記述だ。しかし、ここからが重要だ。
十九日:『<山槐記より>……可被沙汰、庄園一向被奉附属主上了者……』
つまり、平盛子が管理してた摂関家の荘園は高倉天皇――すなわち朝廷が国庫に入れると決定したという内容だ。
同十九日:『<玉葉より>晴。或人云、白川殿所領已下事、皆悉可為内沙汰云々、愚推相叶了、可悲々々、但春日大明神、定有御計歟』
何というか嘆き悲しむ姿が目に浮かぶな。意訳だが『ある人から伝え聞いた。すでに白川殿――藤原摂関家の荘園は内裏で国庫に収められるという沙汰が下されたと。私の願いは叶わなかった。悲しいかな、悲しいかな。春日大明神様、何か良い策はないでしょうか』ということだ。『愚管抄』だと、この時点で関白・松殿基房が後白河院にお願いしてるように記述されてる」
灼が二つのカップにお湯を注ぎ、ティーバックを垂らす。
「でも、『朝廷』で決まったことだもんね。本来なら『治天の君』であるはずの後白河院も、関白で一の人とはいえ、松殿基房にも覆すことは出来ないわ」
「ああ、その通りだ。だが、もう少し事態は続く。二十一日には後白河院は重病の平重盛を見舞ったりして、一見世の中が穏やかになったように思えた。
七月二十九日:『<玉葉より>今暁、入道内府<重盛>薨去云々。或説、去夜云々。』どうやら、重盛はひっそりと亡くなったようで、十月九日には除目があり後白河院の近臣、藤原季能が越前国司に任じられてる。この後も当分の間は何事もないのだが、ついに運命の日である十一月十四日を向かえる」
ティーバックを三度ほど泳がせた後、引き上げてからミルクを注ぎ、灼は俺の前に暖かいカップを置いた。芳醇な茶葉の香りと柔らかなミルクの漂いを楽しみながら、
「『玉葉』によると、この日は豊明節会だったらしい。病弱な兼実も流石に参内したらしく華燭の典を楽しんだようだ。しかし、夜も更けた頃に清盛が数千騎を引いて京に入った。
『……今日入道入洛。宗盛卿去十一日首途、令参厳島、而自路呼還、相共入洛。武士数千騎、人不知何事。凡京中騒動無雙、今夜出仕雖非無恐、為勤公事出仕……<中略>……凡洛中之家、運資財於東西、誠以物忩、乱世之至也。』突然の出来事で京は大混乱になり、公家衆も何事なのか全く知らされてなかったらしい。
『十五日:晴。凡世間物忩、無極云々、無聞實説。子刻人傳云、天下大事出来云々。不聞委事之間……<中略>……仰天伏地、猶以不信受、夢歟、不非夢歟……<中略>……法皇收公越前国、並被補白川殿倉預、已下両事、法皇過怠云々……』
翌日になっても今だに世間は物騒の極致だ。実際のところ何も分かってない。夜中になって天下の大事が起きたと伝え聞いたが、委細ははっきりしない。兼実は気が気でなかったようだ。
この後、関白・松殿基房が捕縛され、子の師家も官位を剥奪される。ここで初めて兼実は真実を知ったようだ」
灼は憮然とミルクティーを啜り、
「『仰天伏地、猶もって信じ受けず。夢や、夢非ざるや……』だもんね。相当ショックだったと思うわ。だって後白河院が越前国にあった重盛の荘園を横領し、国庫に収まったと信じてた摂関家の遺領が後白河院の預かりになってた、ということを聞かされたら動転しない方がおかしいわ」
後白河院を快く思わない灼は、相対的に九条兼実に同情の念を強めて断言した。俺は苦笑を漏らし検証を継ぐ。
「『山槐記』には政変の原因については書かれていないが、『……入道大相国怨天下……天下上下如死灰云々。』とあり、周囲が恐れるほど憤慨してたということだな。ところで、さっきおまえが気になるって言ってたことだが――」
「ああ、あれね。『愚管抄』の内容って話ね」
今さらながら、思い出したように灼が声を上げた。俺は頭を掻き、重い同意の声を漏らす。
「何だか周りくどい言い方ばかりですまないな。つまり、俺は清盛は一体何に対して憤慨してたのかを説明したかったんだ。
後白河院は保元の乱から治承三年の政変まで……いや、実はこの後、源義仲や義経、頼朝に対してもそうなのだが、意見や奏聞が上がると、その場のノリで焚き付ける。そして良好な時は我が物顔で、険悪の時は知らんふり、みたいな対応ばかりしてる。
言うなれば、世間に美辞麗句を並べ立てて、人気があるときは大臣になりたがり、不祥事が出たら『記憶にございません』とか『秘書が勝手にやりました』とか言う政治家と一緒だ。
通説では、近臣を使って好き勝手に政治を乱す後白河院が清盛の怒りを買ったとされてるが、俺の私見では、結果責任が伴ってないくせに、好き勝手に政治を乱す近臣を焚き付けて放置してるため、清盛の怒りを買ったと考えるべきだと思う。
前にも言ったが保元の乱から承久の乱までの間は、日本史でも大きなターニングポイントとなる重要な時代だ。取り分け院政と朝廷の並立政府の上、摂関家や公家、武家まで絡んでくる。因果関係はしっかりと検証しないとな」
灼は感嘆以上に呆れ顔を見せて、細い腕を組む。
「史実として結果が同じでも、過程が異なれば当然『歴史検証』は異なるというわけね。日本の歴史授業は多分にして過程よりも結果から事象を学ぶわ。だから学生の多くが日本史を暗記科目と軽視したり忌避したりするのよね」
俺は灼に諭されて、覚めるような顔で笑う。
「お、流石は灼先生ッ! お前なら立派な歴史の先生になれるよ」
「もう! 平良、あたしを馬鹿にしてるッ」
灼はあどけなく頬を赤らめ、小さな拳で俺の背中をポカポカと叩いた。叩きながら、
(平良は将来、どんな職業に就くのだろう。あたしも一緒に……)
早くも日が傾き、部室が夕の赤に染まる中、こんな時間がずっと続くことを願った。
●平良のうんちく
今回は迂遠な内容で申し訳ございません。
この院政時代は色々な勢力が絡み合い、単純に敵味方に分かれないところがややこしくしてますね。特にキーパーソンの後白河院がとにかく掻き乱すので始末に負えません。。。。。
後白河院は簡単にいうと『大企業の御曹司ですが、経営者向きではないので芸能人を目指します』……そんな人です。
大治二年<1127>に鳥羽上皇の第四皇子として生まれます。親王宣下を受けて『雅仁』と命名され、父・鳥羽上皇を挟んで二人の兄である崇徳上皇と近衛天皇が政争を繰り返してる中、全く無縁で気楽な生活を送っています。『愚管抄』には今様に明け暮れる毎日を送り、鳥羽上皇も天皇の器ではないと見放していたようです。
実際、本文にも書いた通り、政治家としては全く暗愚ですが、アーティストとしては秀逸でした。
後年、後白河院が記した『梁塵秘抄口伝集』には、
『……そのかみ十余歳の時より今に至るまで、今様を好みて怠ることなし。……<中略>……四季につけて折を嫌はず、晝はひねもす唄ひ暮らし、夜はよもすがら唄ひ明かさぬ夜はなかりき。……<中略>……声を割ること三ヶ度なり。二度は法の如く唄ひかはして声の出るまで唄ひ出したりき。あまりせめしかば、喉腫れて湯水通ひしもすぢなかりしかど、かまえてうたひ出しき……』
……十歳を過ぎた頃から今まで今様が好きで、怠けたことがない。……時節を問わず、昼は一日中歌い暮らし、夜を徹して歌い明かさぬ日はなかった。……声を潰したことが三度ある。二度は、誦経のように歌い続けて、声が出るまで歌いまくった。あまりムチャをしたので、喉ががらがらになって、湯水を飲むにも苦労したが、しっかり声を出して歌った……
大まかな意訳で申し訳ございません。しかし、現在のアーティストもビックリするくらいの執心ぶりですね。しかも、何処かに秘伝の歌があると言えば取り寄せ、何処かに唄い上手があれば身分関係なく呼び寄せたそうです。やがて近臣の中にも今様を習い歌うようになって夜な夜な大合唱をしてたそうですよ。
後白河院は作詞はもちろん、催馬楽や管楽も研究し、作曲までしているのです。
現在に生きていたら、数多くのヒット曲を世に出していたかも知れませんね。