第八十四話:荒ぶる『波』~検証㉛~
大変ご無沙汰しております。
6月もあと少しですね。今年も熱中症対策、万全を期したいですね。。。。
皆様も健康にお気を付けてくださいませ。
※※ 84 ※※
気温は上がらず、墨を流したような曇天のまま朝を迎えた。湖岸に茂る葦の群生を寒風が吹き抜け、遊歩道には登校する学生が首を竦めて歩いている。俺と灼も同様に足を進めていた。
「ねえ、平良」
「なんだ」
寄り添い歩く男女のカップルに、冬季とは異なる情熱的な温度は感じられない。二人はお互い確かめるように言葉を交わした。
「現在でも既得権益者に群がり、利を得ようとする人が後を絶たないけど、院政期から鎌倉幕府前期にかけて、平家に引っ付き、後白河院に傅き、両陣営を渡り歩く殿上人があまりに多いので『朝廷』と『天皇』の存在が完全に霞んでしまってる」
「さすがだな」
俺の能天気な喝采に、灼はただがっくりと頭を垂れる。
「あのねー……って、まあいいけど。
小侍従って女だてらに無類の策謀家だと思うわ。しかも『利』が働くところではなく『正しい』と思う方向に策を用いてる。
まあ、小侍従に限らず『菅原家』には軍略家や策士が多く輩出してるけど、『菅原道真』は『高望王』に坂東武士として生きていく術を教えた。道真の三男・景行は下総守として、坂東で横行してる偽の交通許可証を差し押さえ、国人たちを各個撃破することで短期的に乱を鎮圧した。『菅原孝標』は娘に甘いお父さんというイメージが強い一方、上総介として無法地帯の坂東を平定してる。
今まであんたの『歴史検証』を聞く限り『菅原家』は私利私欲で策を弄してないわ。学問の家柄だからと言えば堅実なのかもしれないけど……小侍従は動乱の時期に、平家でも後白河院でもない、本来、日本の政治中枢は『朝廷』であり、そのトップである『高倉天皇』の女房になった――と、いうことに意味があるのよね」
押しの強い少女の言葉は、確実に的を得ていた。その鋭さに俺は居住まいを正し、
「……そうだな。平家には実質的な権力を奪われ、後白河院には権威を掌握されてる。それでも鯛は腐っても鯛――朝廷は朝廷だ。小侍従は、中立を保ちつつ、政争の渦中から最新情報を得ることが出来る高倉天皇の女房として上がることを決めたんだと思う。
その準備の最中、頼朝や坊門姫、以仁王の対応にも追われた……というのは話したと思うが、さらに別の弔事が起こる」
「本当に多事多難だったのね……」
灼が呆れ顔で白い息を吐いた。俺は少し困った風な笑顔を作る。
「祖父・菅原在良の部下でもあり、弟子でもあった式部少輔・藤原能兼の長子、藤原範兼が永万元年<1165>に急死する。範兼は小侍従にとって『菅家廊下』の兄弟子であり、かけがえのない存在だ。
同じく『菅家廊下』の弟弟子である、範兼の弟・藤原範季が、この時に範兼の子供3人を引き取るが、範季自身は上野介として任地へ赴かねばならず、小侍従が世話をすることになる」
灼も愁眉を開かず、
「だから、頼朝を亀の前に託し、以仁王は源頼政に預けたのね。むしろ範兼の子供たちを殷富門院大輔とかに任せるべきではないかしら」
身も蓋もない事実を言って、俺をさらに困り顔にさせた。神算鬼謀を考え出す才女の小侍従が灼の言葉を聞けば、がっくりと肩を落とすのだろうか。俺は困り顔に気遣いの笑みを加えて言う。
「まあ、範兼の子、藤原範光は甥の在高・為長たちと4歳ぐらいしか変わらない。きっと小侍従の『菅家廊下』で一緒に学問を教えてたのだろう。実際、長寛二年<1164>10歳で文章得業生となってる。
また範季は受領で坂東国司を歴任しており、源義朝の六男・範頼を引き取って一緒に連れて回ってる。さらに安元二年<1176>に陸奥守に任じられ、鎮守府将軍も兼ねると、藤原秀衡の後任として下向してる」
灼が不審げに俺を見上げた。
「……なるほど。頼朝がダメになって、以仁王も使えないとなった時、源範頼が三番目のカードってわけね。そして範兼の子供たちは、その担保だわ。やるわね、小侍従――山科会長のように悪辣だわ」
「山科会――……先輩は、そういう部分はあるけど、小侍従は些か異なる気がするな」
俺は説得力のない言葉と共に、ゲフンッと咳で灼の無作法を窘めた。対して灼は鼻を鳴らして、
「きっと、小侍従が現在に転生して山科会長になったのよ」
頓着なく断言した。
「まあ、それはともかく……として」
力なく答える俺は先に進める。
「久寿二年<1155>に『二代の后』多子と共に近衛河原の大宮御所に移って5年、永暦元年<1160>に再び入内するまでに甥の在高・為長、藤原範光に学問を教えてるので、範兼の急死は完全に予想外だろう。
藤原 範季に関しては常陸介として赴任先から帰京した直後だ。しかもその後すぐに上野に赴任してる。恐らく源範頼も一緒だろう。策を用いる暇はなかったと思う。それよりも祖父の代より縁があり、恩顧に報いたのではないかと思う」
「ふーん……まあ、いいわ」
灼は、草に埋もれてる小石を軽く蹴った。何度か跳ねて湖岸の葦の中へ消えていくのを見た俺は、冷たい空気を大きく吸って気持ちを切り替える。
「そんなこんなで、後白河院も平家も、高倉天皇を挟んで表向きには親密ぶりをアピールしてたが、安元二年<1176>に平滋子が35歳で崩御すると、再び政界に動揺が走る。
とはいえ、やはり最初は当時各地で頻発してた所領を巡る紛争の一つだった。後白河院の寵臣・西光の子が加賀国司となり、孫が目代として赴任したが、紛争の挙句に比叡山延暦寺の末寺を焼いてしまった。それが後白河院と延暦寺との対立を生み、京都で前面衝突まで発展する」
灼は肩をすくめて、
「平家物語にある白河法皇の天下三不如意――『……賀茂河の水・雙六の賽・ 山法師。是ぞわが心にかなはぬもの……』っていうやつかしら。後白河院も頭を抱えてたようね」
くるりと身体を返し、俺を覗き込む。思わず微笑みを浮かべた。
「まあ、強訴に悩まされてたのは後白河院だけではない、清盛も同じだ。僧徒は神輿を持ち出して内裏を囲もうとするところ、警備にあたった重盛の兵と衝突が起こり、矢が神輿に当たって死者も出したことから事態は悪化の一途をたどる。結局、一旦は後白河院が僧徒に歩み寄る形で取り成したが、もともと思い通りにならないと我慢が出来ない癇癪持ちだ。平重盛らに延暦寺の焼き討ちを命じる」
「何だか織田信長みたいね」
後ろ向きで歩いていた灼が、石に踵を引っ掛けてつんのめる。慌てて俺は灼の手を取った。
「おいおい、気を付けろ」
「えへへ。ごめん」
灼は舌の先をちょろっと出して、並んで歩き出した。俺の苦笑とため息が同時に漏れる。
「信長とはかなり時代背景が違うが……いつの時代も人のやることに違いはないということか。摂関家の分裂の時もそうだが、俺のターン来たっと感じた後白河院は鎖の切れた犬のように突っ走る。ましてや、飼い主だった平滋子がいなくなったんだ。歯止めが利かなくっても仕方ないだろう」
「奥さんに先立たれた老人が若作りをして、はしゃぎまくるってやつね。その後どうなったの?」
嫌味なく言う灼は、事件の進展を訊いた。俺も拘らず明るく返す。
「重盛らの報告によって清盛は、急遽福原から上京して後白河院を説得するが、聞き入れてもらえず、近隣の武士に総動員することになった。だが、ここでまた事態が急転する」
「知ってるわ。安元三年<1177>鹿ヶ谷の陰謀でしょ。多田源氏の多田行綱が後白河院を裏切って、平家打倒を密告するのよね。『平家物語』にあるわ」
灼の明るさに刹那の翳りが過った。俺はあえて話を続ける。
「『平家物語』の巻二・『……多田蔵人行綱、入道相国<清盛>の西八条の亭に参りて……<中略>……さらばとて、入道自ら中門の廊へ出でられたり。
「夜は遥かに更けぬらむ。ただ今いかに何事ぞや」
と宣えば、
「昼は人目を繁う候ふ間、夜にまぎれて参って候ふ。このほど院中の人々の兵員を調へ、軍兵を召され候ふをば何とか聞こし召され候ふ」
入道、
「それは山<比叡山>攻めらるとこそ聞け」
と、いと事も無げにぞ宣ひける。行綱近う寄り、小声になって申しけるは、
「その儀では候はず。一向御一家の御上とこそ承り候へ」
入道、
「さて、それをば法皇<後白河院>も知ろし召されたるか」
「子細にやおよび候ふ。……院宣にとてこそ召され候へ」……』と、ある。
比叡山延暦寺を攻めるのは口実で、平家に奇襲をかけるのだということだが、密告により西光をはじめ藤原成親ら後白河院の近臣が捕縛される。ここで平家と後白河院が決定的に対立することになり、燻ってた『平家打倒』に火が付くことになる」
灼は不審げに見上げ、
「滋子という箍が外れて、後白河院が政権奪取のために暗躍したが失敗したって感じだけど……『平家物語』はあくまで軍記物語だわ。やっぱり信憑性は低いのよね?」
戸惑いの声を零した。俺は灼の方へと歩を近付ける。
「事件が発覚した後も、次々と近臣が配流される中、後白河院は終始シラを切ってたらしい。『玉葉』や『愚管抄』、『百錬抄』ともに後白河院のもとで近臣が何か企んでいるらしいと記述してるところから、何かを画策してたのは間違いない。
ただ、『愚管抄』によると延暦寺焼き討ち準備の最中、清盛に呼ばれた藤原成親は「何かご用事があるとお召しがあったので参上しました」と挨拶した途端、有無なく平盛俊に捕縛されてる。もし、陰謀が事実ならば成親は相当なお間抜けだろう」
「つまり、あんたは……」
訝る灼に俺は大きく頷く。
「ああ、私見だが清盛の策謀だと考える。延暦寺焼き討ちと暴走する後白河院に釘を刺し、なお且つ僧徒を牽制しながら延暦寺に恩を売る。そのための生贄だった。一見、見事な策だが、後日さらに大きな禍を呼び寄せることになる」
「……内乱がまた起きるのね」
憐憫の情で呟く灼は、湖岸を巡る堤防の上――遊歩道から橋の広い歩道へと足を向ける。俺も追って遊歩道の終点となる歩道に出ると、橋の下に明るい色とりどりの花々が咲き誇っているのが視界に入った。自然に歩みを止め、再び歩む前。
「平良ァー、何してるのッ。早く渡らないと赤になっちゃう」
「……あの花」
手を引き、手を引かれて、赤に変わる横断歩道を渡り切って、灼が振り返った。
「あ……ああ、あの花は寒椿ね。確か花言葉は『愛嬌』『謙譲』――『申し分のない愛らしさ』だったかしら。それよりも、急がないと間に合わなくなるわ」
灼は衒いのない笑いで答え、その身を彩る輝きを俺は眩しげに眺めた。
●灼のうんちく
今回は『嵐の前の……小さな嵐』といったところかしら。
後白河院って社員を見捨てるブラック企業の社長みたいで、絶対に近寄りたくない大人だわね。
ともあれ、比叡山を焼き討ちにするきっかけになった事件は、安元三年<1177>に起きた太郎焼亡とも呼ばれる『安元の大火』と言われています。
京の三分の一が灰燼に帰した大火で、江戸の大半を焼いた『明暦の大火』に匹敵する大火災だったようです。
『玉葉』『愚昧記』『方丈記』等、あらゆる文献にその凄惨さが記述されていますが、『平家物語』巻一にもその状況が書かれています。
『方丈記』の 安元の大火 より。。。。。
『予ものの心を知れりしより、四十あまりの春秋を送れる間に、世の不思議を見ること、ややたびたびになりぬ。
……<中略>……火もとは、樋口富小路とかや。舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに扇を広げたるがごとく末広になりぬ……<中略>……公卿の家十六焼けたり。まして、そのほか数へ知るに及ばず。すべて都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人。馬牛のたぐひ辺際を知らず。
人の営み、みな愚かなる中に、さしも危ふき京中の家を作るとて、財を費やし心を悩ますことは、すぐれてあぢきなくぞはべる。』
物心が付いた頃から40年余り生きて来たけど、世の中の思いもよらないことを見ることが度々あった……火元は、樋口富小路あたりらしいが、どうやら舞妓を宿泊させていた仮小屋から出火したそうだ。吹き乱れる風に、あちらこちらと火が燃え移っていくうちに、まるで扇を広げたかのように火が広がっていった……公卿の家が十六棟焼け、まして身分の低い人の家々については数え知ることはできない。都全体のうち、被災地は三分の一に及んだということだ。男女含めて高貴な方の死者は数十人、馬牛にいたっては、その被害はわからない。人間の行為はみな愚かしいが、あんなにも密集した都の中の家を建てるために、財産を浪費し、心を苦しめることは、どうしょうもないことである。
かなりの意訳ですが、おおむねこんな意味です。まあ、お坊様が書いた書物なので世の無常さで締め括られてますが、そうとうに大きな火事だったみたいですね。
現在の京都市に合わせてみると、火元の『樋口富小路』は麩屋町通りと万寿寺通りの交差点付近で、南東の強風にあおられて北西方向へ燃え広がり、朱雀大路を越え、右京の四条南、朱雀西にあった藤原俊盛邸<現在の京都市立朱雀第七小学校付近>まで火が迫った頃には北側にある内裏の応天門、会昌門、大極殿、豊楽院の順で一時間も経たないうちに次々を燃え上がったそうです。南は六条までということですから、だいたい東大丸児童公園ー名倉公園ー京都島原郵便局ラインより北側まで被災したということが分かります。
本当に大きな火災だったんですね。当時の人にお悔やみを申し上げるわ。
小侍従はこの時、燃えた内裏から高倉天皇と共に正親町東洞院にある藤原邦綱邸に避難しています。しかし、三条南、西洞院西にあった徳大寺実定邸<現在の京都西洞院三条郵便局付近>は焼失してしまったため、処理と援助が大変だったと思います。やっぱり神算鬼謀の策を用いるどころではなかったのかも知れないわね。
最後に『平家物語』巻一に記されてる『安元の大火』について。。。。
冒頭も内容も、ほぼ他の文献と同様ですが、末尾が異なります。
『……これ、ただ事にあらず。山王のお咎めとて、比叡山の大きなる猿どもが二三千おり下り、手々に松明をともひて京中を焼くとぞ、人の夢には見えたりける』
いつの世にも大きな災害の後にはデマが飛び交うものですが――これが真実であったかは、きっと当時の人にも分からないでしょう。
次回もお楽しみ頂ければ嬉しいです。