第七十八話:菅原家の『諜報員』~検証㉘~
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「……三善康信から心が荒んだ頼朝の報告を受けて、小侍従は大いに危惧した。京では、すでに永万元年<1165>二条天皇は23歳の若さで崩御され、『二代の后』と呼ばれてた藤原多子は出家していた。同年、後白河院の第三皇子である以仁王が多子の近衛河原の御所で元服してる」
灼が俺の言葉を確かめるように訊く。
「以仁王って、治承四年<1180>に源頼政と共に『平家討伐』の旗を上げ、全国の源氏に追討の令旨を飛ばすのよね。それに呼応して頼朝も挙兵するはずだけど……もしかして繋がる?」
俺は全く素直に、笑顔で頷いた。
「その通りだ。『吾妻鑑』だと頼政の息子・行家が修験者の姿で、伊豆の頼朝の下へ訪れ、以仁王の令旨を渡す。しかし、これだけで頼朝を動かすのは難しいだろう。俺の私見ではもっと確実に頼朝を挙兵へと導かせる『外交カード』があったと考える」
「それは?」
灼の促しに、冷めたミルクティーで唇を湿らせて答える。
「藤原多子と小侍従ら女房は、久寿二年<1155>近衛天皇の崩御後に住んでた、近衛河原の荒れ果てた大宮御所に再び戻ってた。そこで小侍従は、かつての『菅家廊下』のように二人の甥で同年齢の菅原在高、菅原為長に学問を教えてる。多分、一緒に以仁王も学んでたと思う。そして小侍従は頼朝の妹で、平治の乱当時6歳だった『坊門姫』を匿ってたと考える」
灼は明らかに驚いた顔を見せた。
「へぇー……。確か、頼朝の兄弟で唯一母親が同じ妹だったわよね。小侍従には恩義があるってわけね。さすがは『菅原家』ね」
敬意と感動の光彩を大きな栗色の瞳に宿らせて語る灼を、
「いや、将来を見据えた上で、頼朝が裏切らない様に必要な担保だったんだと思う」
あっさり俺は打ち消した。少なからず落胆した灼は渋い顔で首を振る。
「せっかくの微笑ましいエピソードが陰険な大人の世界に様変わりね。それはそうと、博学の才女で美人、でもちっこくて謀が大好き。段々と小侍従が山科会長に思えてきたわ」
俺は、思わず会長の底知れぬ瑠璃色に輝く大きな瞳と、薄く浮かべる笑み、そして「クックック」と銀片が鳴るような涼やかな声が頭に過った。正鵠を射た灼の例え話に、奇妙な可笑しみが芽生えた。
「ははは。もし小侍従が『生徒会長』だったら、抜かりがなさそうで恐ろしいだろうな。俺たち『歴史研究部』なんて手も足も出なさそうだ」
俺は呆れついでの溜息で話を戻した。
「小侍従は、グレた頼朝が感情的に暴走しないために京都から『亀の前』という女房を派遣する。『吾妻鑑』によると、正確に何時からという記述はないが、容貌が優れて柔和な性格の女性だった。流刑時代の頃から頼朝に仕えてたらしい」
「『亀の前』って頼朝の妾で、朝廷に通じ、文筆に秀でてた伏見広綱の屋敷に身を置いてた。政子の嫉妬から屋敷を破壊されて、命からがら逃げ出した人よね。でもあんたの考えは違うのでしょ?」
別の色味を示す灼の笑いに、俺はわざとらしく首を竦めた。
「永万元年<1165>後白河院の第一皇子・二条天皇が崩御されると、第二皇子・守覚法親王はすでに出家してるので、母が藤原季成の娘である第三皇子・以仁王が本来、帝位に昇るはずだった。ちなみに季成の弟に徳大寺 実能――藤原多子と実定の祖父がいる。
しかし、権勢を誇った桓武平氏高棟流、つまり『平家』である、建春門院平滋子が生んだ第七皇子・憲仁親王が高倉天皇として即位する。
もはや美福門院も二条天皇も崩御され、没落した『二代の后』多子と女房・小侍従は平家の牽制として頼朝の存在は欠かせなくなる。さらに平治の乱の際、義朝側として従軍し逃れた、坂東の国人たち……後に『十三人の合議制』に入る『三浦義澄』『八田知家』や、有力国人の『上総広常』等、坂東平氏が源氏離れを見せ始めた。
小侍従は、頼朝の介添えと坂東の国人たちの動向、二つの理由から『亀の前』を伊豆に派遣したと考えられる」
灼が「それはそうと……」と別の案件を持ち出し、少なからずの危惧を声に滲ませる。
「あんた、さっき傷心の頼朝を救ったのは『北条政子』だって言ったわ。それなのに頼朝は小侍従が寄越した女スパイの『亀の前』とも仲良くなるのよね。政子が嫉妬して追い出そうとしたのも分かる気がするわ。男の人って尽くしてくれる人がいながら、美人が現れたらホイホイ靡いちゃうもんなの?」
灼の大きな栗色の瞳で強く睨まれた俺は、
「さ……さあ、どうなんだろうな。靡くかどうかは人それぞれだと思うけど……良くしてくれる女性は大事にするべきだとは思う……かな」
しどろもどろになりながら、自分でも意味不明な疚しさを、恰好悪い言い回しで誤魔化す。灼は眉根を寄せ、瞳を眇めた。
「ふーん……。あたしもあんたが『頼朝』じゃないって思ってるわ。だから、結衣先輩とか、山科会長とか……あと、オザキやめぐみ先輩、有元花散里先輩。
あんたの周りにいる女子とは節度ある態度で接すると信じてるわ」
突然の彼女らしい詰問に、俺はコクコクとぎこちなく頷きを繰り返しながら、
「まあ、その……当然だ」
持てる純情さから戸惑っていると、俺の胸に灼が肩ごと身体を委ね、顔を埋めた。
少女の柔らかさと匂いに、体中に熱が帯びてくる。これがどういう状況なのか、わけが分からないまま困り果てた俺の胸の中で、
「……山科会長が『小侍従』、結衣先輩が『亀の前』だとしたら――」
上目遣いで顔を上げる。年齢よりも幼く見える容貌に僅かな怒りが見え、俺は動揺を隠せなかった。そんな様子を、灼は怒りの半分をおかしみに変えて笑う。
「あたしは『北条政子』よ。あんたの傍から、絶対に離れないんだから覚悟しなさい」
答えられる言葉を探し切れず、俺はただ締まらない顔でへらりと笑った。
●山科会長のうんちく
皆様、お久しぶりです。
お元気でお過ごしでしょうか。
今回は義朝の姫たちについて語りたいと思います。
平治元年<1159>平治の乱を起こした源義朝の敗北が決定的になった時、姫たちの多くが侍女たちと胸を差し合い、あるいは川に飛び込んだりして命を絶っています。年齢は11歳から14歳ぐらいで、捕縛された後の不幸を儚んでのことだと思います。
『平治物語』には何人か姫について記述されてますが、鎌田次郎に預けてた姫についての記述を紹介します。
『……義朝落ちのび給ひしかば、鎌田を召して「汝に預けし姫はいかに」との給へば、
「私の女に申し置きまいらせて候」と申せば、「戦に負て落つると聞き、いかばかりの事か思らん。なかなか殺して帰れ」との給へば……<中略>……持仏堂の中に人音しければ、行きて見るに姫君仏前に経うち読みておはしけるが、
「さては我らも只今敵にさがし出され、是こそ義朝の娘よなど沙汰せられ、恥を見んこそ心憂けれ。あはれ、高きも卑しきも、女の身ほどかなしかりける事はなし。
兵衛佐殿は十三になれども、男なれば戦に出て、御供申給ふぞかし。わらは十四になれども、女の身とて残し置かれ、我身の恥を見るのみならず、父の骸を汚さん事こそかなしけれ。
兵衛、先ず我を殺して頭殿の見参にいれよ」と、くどき給へば「頭殿も此仰にて候」と申せば「さてはうれしき事かな」とて、御経を巻き収め、仏に向かひ手をあはせ、念仏申させ給へば、政家つと参り殺し奉らんとすれども、御産屋のうちよりいだきとり奉りし養君にて、今まで生ふし立て参らせたれば、いかでか哀になかるべき。
涙にくれて刀の立所も覚えずして、泣きゐたりければ姫君、「敵や近づくらん、急く」と進め給へば、力なく三刀刺して御首を取り、御死骸をば深く納めて馳かへり……』
とにかく戦国を生きる女子にとって、家の盛衰と運命共同体だったのだわ。
その中で、頼朝の近習である後藤実基に預けられた、頼朝の同母妹『坊門姫』は、都で密かに匿われてます。後に徳大寺公能の娘を母に持つ一条能保の妻となります。
平家政権下、京都では戒厳令が敷かれ、源氏一門はもちろん縁がある者がどんどん捕縛されてる状況で見事に匿い、さらに摂関家にまで所縁を付けることが出来るのは、そうとうに身分が高い存在、そして密かに平家と敵対してる勢力となります。
これ以降、この一条家から摂関家の九条兼実、道家と繋がり、鎌倉幕府を開く礎となるのです。