第七十六話:頼朝の真意と菅原家の『才媛』~検証㉖~
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大通りの歩道から住宅地の細道に入った俺と灼は、塀と街灯だけ、という寂しい辻を抜ける。
「保元元年<1156>保元の乱は、後白河天皇と崇徳上皇との朝廷内の内紛が、源氏と平氏の武力衝突という形で勃発した政争であり、いわば、天武天皇元年<672>『壬申の乱』同様の国家を揺るがす大事件だ。
しかし、平治元年<1159>平治の乱は、藤原信頼の信西に対する政治的な妬み、源義朝の平清盛に対する出世の闘争心から来た私的なクーデターに過ぎない。このことに頼朝は薄々気付いてたのではないかと思う節がある」
やがて十字路に差し掛かり、二人一緒に道を折れたところで、
「どうして、そう思うの?」
灼は視線で続きを促した。
「毎度のことだが……あくまで俺の私見だ。保元の乱後、勝利した後白河陣営は後白河天皇の名で『保元新制』と呼ばれる新制を発令する。これは鳥羽院政期に乱立した荘園の紛争を解決し、整理するための『荘園整理令』と言ってもいい。
信西は改革実現のために記録所を設置し、実務官僚は自らの一門を起用するが、やがては後白河天皇からも疎まれ始めるほど勢力が拡大すると、信西が独断で、崇徳上皇と軋轢の原因でもあった美福門院との関係を作っていく」
「あれ? 美福門院って『藤原得子』でしょ。鳥羽上皇の寵愛を受けて、正妃の待賢門院・璋子と事あるごとに対立するのよね」
灼がその検証に興味を示した。俺もその主張に相槌を打つ。
「ああ。女御の宣旨もなされず『大夫腹』と待賢門院サイドから馬鹿にされてたが、鳥羽上皇に強く働きかけて、待賢門院の息子である崇徳天皇を無理矢理譲位させ、自分の息子である躰仁親王を近衛天皇として即位させた」
「現代でもたくさんいるわ。こんな強引でパワフルなオバちゃんッ」
などと、灼は自分の迷惑のように顔を顰める。その姿に俺はクスリと笑う。
「確かに……まあ、強引だな。しかも自分は女御に昇り、待賢門院を凌ぐ権勢を持つようになる。更に鳥羽法皇崩御後は荘園の大半を相続して最大の荘園領主となったので信西自身も無視できなかったのかもしれないな。そして、美福門院は鳥羽上皇の荘園を管理し、日宋貿易で巨利を得た平家――北面の武士最大の兵力を持つ平清盛にも近づく」
「強引でパワフルな上に強かなのね」
ぶっきら棒に声を漏らす灼に、俺は微妙な笑いのフォローを見せて、話を元に戻す。
「後白河天皇は側近の信西が信用できなくなると、藤原信頼を起用した。もともと信頼の一門は坂東や陸奥の国司を歴任しており、深いつながりを持つ源義朝と連携するようになる。ここに後白河陣営ー藤原信頼✕信西陣営✕美福門院ー平清盛という三つ巴の勢力が出来上がった」
灼が渋い顔になった。
「三つ巴って言っても、信西は限りなく美福門院サイドなんでしょ?」
にやりと、俺は意地悪な笑みを浮かべて言う。
「まあ、強かだからな。美福門院は近づいてくる信西を逆に利用した。藤原経宗や藤原惟方を使って信西と藤原信頼との間に猜疑心を生ませ、後白河の政治活動を抑圧していく。
もともと信西と藤原信頼は不仲だったので、容易に後白河陣営は崩れてしまう。そして対立を決定的なものにしたのは、保元三年<1158>信西と美福門院の協議により、美福門院の養子・守仁親王に後白河天皇の譲位が決まったことだ」
灼の顔がいきなり緊張で強張る。
「……再び『強引グ・オバさん』登場なのね。相当に後白河天皇は怒ったはずだわ」
考える間も僅か、俺は頷きで同意を表す。
「明らかに信西の裏切りだからな。二条天皇が即位すると、後白河院はすぐに院庁を開設する。信頼は院の兵馬を管理統括するようになり、源義朝との連携を強化して源氏の兵力を糾合した。この時からだ、頼朝が父親を訝しみつつも、源氏一門として行動するのは」
「……ここからが『頼朝は薄々気付いてたのではないか』というあんたの私見ね」
灼は少々遠回りをして歩いたような疲労を見せつつも、声は呑気に言った。俺は頬を掻く。
「……譲位後の後白河院は、待賢門院の娘である統子内親王を准母として立后し、頼朝を皇后宮権少進に叙する。美福門院に対する細やかな対抗だったのだろう。
一方、頼朝も独自の行動を見せる。中山忠親の日記『山槐記』には、平治元年<1159>統子内親王が院号宣下を受けると、頼朝は上西門院蔵人として、二条天皇の后となる藤原多子の兄・徳大寺実定や平清盛などの美福門院陣営の殿上人を接待してる」
「ちょっと待って。頼朝は両陣営を股に掛けてたってこと?」
灼の強い言葉に押されて、俺は唸るように答える。
「通説は異なるだろうな……。あくまで俺の私見だ。その後、二条天皇の蔵人にも補任されるが、義朝はおろか頼朝以外の兄弟は誰も『蔵人』として宮中に伺候していないという点が重要だ。つまり平治の乱直前には平清盛を始めとする美福門院・二条陣営とのパイプラインが出来上がってたということだな。この『二条天皇の蔵人』という太いパイプを繋げたのは『菅原家の才媛』小侍従だ」
灼は数秒、何事か考えてから、
「やーっぱり、『菅原家』なのね。でも菅原道真以来、ずっと『平氏』寄りだったけど大江氏との確執から『源氏』にも粉をかけようってこと?」
と、観念して俺に訊く。俺は大きく頭を振って答えた。
「いいや。『菅原家』は変わらず『平氏』寄りだ。小侍従は『源氏』や『朝廷内の派閥』に拘らない頼朝の政治的バランス感覚に目を付けた。
いずれ平家が邪魔になった時、平氏と共に立ち上がってもらうために。
まあ、それはまた今度に説明するとして……小侍従の母は花園左大臣家小大進、式部大輔・菅原在良の娘だ。在良は清盛の祖父・平正盛に策を授け、勇猛な源義親の乱を討伐したという話は前にしたと思う。
ともあれ、小侍従は近衛天皇の皇后であり、次いで二条天皇の后となった『二代の后』と呼ばれる藤原多子の女房だった。しかも多子の兄・徳大寺実定との間に子も儲けている。影響力は絶大だろう」
灼は『歴史検証』に対し、自然の感嘆として微笑みを浮かべる。
「……数か月後には藤原信頼と源義朝が、美福門院に利用されてるとも知らず、院御所・三条殿を襲撃する。そして信西は討たれ、一門は流罪となるわ。でも信頼の政権も長くなかった。信西の存在が消えた後、美福門院陣営は利用価値がなくなった信頼の下から二条天皇を平清盛の六波羅屋敷へ密かに脱出させる。結局、清盛が官軍、信頼と義朝の源氏一門は賊軍となり討伐され、後白河院陣営は内部分裂で自滅したというわけね。……って、これまでの美福門院側の策って、まさか小侍従!?」
彼女なりの答えに、俺は苦笑に似た吐息を零して、
「可能性はある……。『平治物語』では頼朝が合戦前に士気を 鼓舞すると、長男義平が『三男ではあるが、頼朝こそが源氏の棟梁になるのに相応しい』と言ったとあるが、頼朝の武勲に対しては一切の記述がない。
『軍記物語』はフィクションが多分に含まれるが、俺は実際のところ頼朝はクーデターの参加には不本意だったと考えてる。逃亡時は義朝一行と二度も逸れてるし、近江付近をうろうろしてるだけだ。
『平治物語』にある池禅尼の嘆願が通説だが、俺は小侍従が藤原多子や徳大寺実定を通じて二条天皇に働きかけ、平清盛と話が付いたのだと思う。『愚管抄』には助命嘆願の記述はあるが池禅尼の名前はない。表向きには律令に照らして流罪となったと考える」
俺は澄んだ瑠璃色の空を見上げた。
「永暦元年<1160>美福門院・得子は散々朝廷を掻きまわした挙句、崩御する。この後は平家一門の専横が始まり、再び後白河法皇と対決することになるが……」
強く冷たい冬の風を受け、俺の言葉はどこまでも遠くに飛んで、虚しく消えた。
●灼のうんちく
『菅原家の才媛』である小侍従は通称『待宵の小侍従』と呼ばれてるわ。
『平家物語』巻五・月見より。
『……待宵の小侍従といふ女房もこの御所にて候ひける。この女房を待宵と申しけることは、ある時御所にて、
「待つ宵、帰る朝、いずれかあはれまされる」
と、お尋ねありければ、
待つ宵のふけゆく鐘の声聞けば帰るあしたの鳥は物かは
と、詠みたりけるによってこそ、待宵とは召されけれ……』
治承四年<1180>清盛によって『福原遷都』が決まり、公卿が移住し始めるわ。安徳天皇の行幸も控えたある日、左大将・徳大寺実定が福原より、近衛河原の荒れ果てた屋敷に住む姉の大宮・多子を訪ねるわ。
都は荒れ果て、何もかもが変わった様子を哀しみ、姉弟水入らずで昔話をしていると、突然、多子は実定との関係を知っているのか、隣に控える小侍従に言います。
「恋人を待つ宵と恋人を送る朝と……どちらが切ないのでしょうね」
小侍従は、
待ちわびてやっと(実定と)過ごした宵の頃だって、明ける朝の鐘の音を聞けば鳥は帰ってしまいます。鳥もきっと帰りたくないでしょうけど、置いて行かれる私の方がもっと寂しいのです。
このことで小侍従は『待宵の小侍従』と呼ばれるようになりました……。
かなりの意訳で申し訳ありません。ちなみにこの歌、新古今集・恋三では
待つ宵のふけゆく鐘の声聞けば飽かぬ別れの鳥は物かは
となっています。鴨長明によると『……小侍従ははなやかに、目驚く所よみ据うることの優れたりしなり。中にも歌の返しをする事、誰にも優れたりとぞ』
発想は人が驚くほど個性的で機知に富んでいる秀歌が多い、特に返歌が秀逸である……と言ってるわ。どちらが好みかは、皆様次第ですね。。。
建礼門院右京大夫とはマブダチで有名です。父親は世尊寺流・藤原伊行で六代前は藤原行成です。相変わらず『菅原家』と仲良しなんですね。
『建礼門院右京大夫集』には
内の御方の女房、宮の御方の女房、車あまたにて、近習の上達部、殿上人具して、花見あはれしに、悩むことありて交じらざりしを、花の枝に、紅の薄様に書きて、小侍従とぞ。
さそはれぬ心の程はつらけれどひとり見るべき花の色かは
風の気ありしによりてなれば、返しに、かく聞こえし、
風をいとふ花のあたりはいかがとてよそながらこそ思ひやりつれ
高倉天皇の女房(小侍従含む)と中宮・建礼門院平徳子の女房(右京大夫含む)が懇親会と称して花見に出かけたのだけど、右京大夫がいなかったので花を添えて小侍従が送った歌。
せっかく貴方に逢えると思ったのに風邪で欠席だなんて。一人で見るのはつまらないから花を贈るわね。
風邪気味だったのでお返しに、
風を嫌がる花らしいので、風邪をひいた私が寄るのもどうかと思いました。(あなたに貰った花を見て)遠くから花の美しさを思い浮かべてますよ。
美福門院派閥の参謀として深慮遠謀な策を講じる一方、可愛らしいところもあったのです。