第六十八話:『菅原家』のライバル~検証㉑~
ご無沙汰しております。
とうとう二月になってしまいました。。。。
世の中これからどうなって行くのでしょう?
読者の皆様、どうぞお身体とご健康にはご注意下さいませ。
※※ 68 ※※
昏い夕映えの色も消えた頃、県立東葛山高校の校舎に生徒の姿は、ほとんど見えなくなっていた。
寒風が吹くグラウンドでは部活動も早めに切り上げられ、僅かに体育館の中で跳ねるボールの音が遠く響く。
次期生徒会の構成メンバーとは『歴史研究部』で別れ、俺と灼は校門を出た後、やたら長く緩い坂を下っていた。その道すがら、ごく普通、何でもないように灼が言う。
「平良。あんた、ついに『鎮守府将軍』になるのね。いや、この場合は『征夷大将軍』か」
「まだ決まったわけではないが……『鎮守府将軍』だの『征夷大将軍』だのと言われると面映ゆいな」
俺は、柄にもない地位に違和感を覚えて頭を掻いた。そんな俺を少し前屈みに覗き込んでくる。
「全校生徒の頂点に立つのよ、胸を張りなさい」
強さが漲る大きな栗色の瞳で見上げた灼は、俺を鼓舞して明るく笑って見せた。その気遣いも労りも胸にしまい込んで笑い返す。
「ああ、出来るだけ心掛けるよ。会長と四字熟語が学校サイドへ、部長は教育委員会と地元議員、商工会議所に根回して予算と建設許可を受理してもらう手筈だ。しっかり信任投票で勝ち取らないとな」
ふん、と灼は当然のように鼻で笑う。
「あのお金はあたしたち『歴史研究部』が稼いだものだもの。誰にも文句は言わせないわ。それはそうと、あんたが言ってたマニュフェストの条件……あれって鎌倉幕府の『地頭』と『守護職』の設置でしょ」
「ああ……」
少しだけ間を置いた俺は、思い巡らしながら一歩先へ進んだ。
「鎌倉幕府における『地頭』と『守護職』は、執権制度の前後で意味合いが変わってくる。その説明をする前に……源氏の参謀的存在から話さなければならない」
「ええと、たしか大江広元。下級貴族だったけど、頼朝の側近になって創建に貢献した人……だったわよね」
言う間に灼が俺の前に出て、くるりと振り返った。俺は肩を竦めて後に続く。
「そう。その『大江氏』だ。また、源義家が大江匡房に兵法の教えを乞う逸話が『古今著聞集』や『後三年合戦絵詞』にある」
「永保三年<1083>から始まる後三年の役でしょ。雁の群れが田んぼに下りようとした時、雁が乱れて飛び散るのを見て、伏兵の存在を予見したって話も有名だわ」
得意げに笑う灼の後ろから、俺は大きく頷いた。
「……十二年の合戦の後、宇治殿へ参りて、戦ひの間の物語申しけるを、匡房卿よくよく聞きて『器量は賢き武者なれども、なほ軍の道をば知らぬ』とひとり言に言はれけるを、義家の郎等聞きて、けやけき事をのたまふ人かなと思いたりけり。……やがて弟子になりて、それより常に参うでて、学問せられけり。この後、永保の合戦の時、金沢柵を攻めけるに、一行の雁飛びさりて、刈田の面に降りんとしけるが、にはかに驚きて、列を乱りて飛び帰りけるを、将軍あやしみて 轡銜をおさえて、先年江帥の教へ給へる事あり……。と、いうのが『古今著聞集』なのだが……。
『十二年の合戦の後』は<前九年・後三年の役>のことで、さっきお前が言った逸話の部分である『この後、永保の合戦の時、金沢柵を攻めけるに……』の内容の中で『その後』と記述されてるところから、義家は宇治殿、つまり藤原頼通に永保三年<1083>から後三年の役が終わる寛治元年<1087>の間に一旦京へ上り、戦況報告をしたことになる。これはその時の話だが……ここからが俺の私見だ」
真率な俺の声に、灼が歩を落とす。肩を並べて俺は続けた。
「源義家が藤原頼通のもとで戦況報告をしてる時、そこには大江匡房もいた。そして『武勇は立派だが、兵法は知らない』とぼやいた彼の言葉を、義家の家来が耳聡く聞きつけてしまう。その報告を受けた義家は匡房にその理由を正し、そのまま弟子になる……という意味だが、俺は『偶発的』な出会いではなかったと思う」
「……平良、あんたにはその根拠があるのね」
俺と灼は、坂を下り切って歩く前、県内で一番の大動脈が走る交差点が赤に変わった。立ち止まって、そんな灼の戸惑いを、俺は笑って吹き飛ばす。
「根拠というほどのものじゃないさ。あくまでも俺の私見で『歴史検証』の延長だ。大江広元の曽祖父である匡房。更に遡って大江維時は文章博士であり兵学者だ。日本最古の兵書といわれる『闘戦経』の作者ではないかとも言われ、源経基の子である満仲の家庭教師でもあったらしい。『訓閲集』という兵法書を記し、以来清和源氏伝来の兵法書となって『甲州流軍学』の原点となってる」
その真剣味溢れる声に、灼は唸って返した。
「その……つまり『菅原家』が平氏の誕生に手を貸し、『大江家』が源氏を武士として底上げをした、と。あんたはそう言うのね。武士のルーツにこそ、武家政権の――」
グゥゥゥゥゥ……。
感嘆というか呆れ返るというか、灼は一旦言葉を切ってから大きく嘆息する。腰に手を添えてから、俺の腹の虫が鳴った元凶である、芳しい湯気が立ち上るラーメン屋に視線を向けた。そして稚気に富んだ冷ややかな笑みを浮かべる。
「いいわ。今晩はラーメンを作ったげる。続きはごはんの後にして、スーパーに寄るわよ」
信号が青になり、灼は激しく情けない俺の手を引いて歩いた。
帰宅後すぐに入浴を終え、俺は安らぎを求めてソファーに身を沈める。灼も一旦自宅に戻って私服に着替えていた。ボトルネックのセーターにハーフジャージが小柄な体躯によく似合う。
「灼ちゃん。今晩ラーメンを作るって聞いてたけど……麺買い忘れたの?」
学生カバンから取り出す食材を眺めていた母親が軽く尋ねた。灼は食材を抱えて暖簾の奥、台所へ消え、キッチンテーブルから顔を覗かす。
「麺は打つのよ。平良、ちょっと手伝って」
小間使いは毎度のことなので、紅茶の入ったマグカップを置き、俺は素直な気持ちで暖簾を潜った。
「何をすればいいんだ?」
蛇口を捻って手を洗う間に、灼がキッチンテーブルに何種類かの粉を並べる。乾いたタオルで手を拭くと、篩と薄力粉を渡された。
「あんたは振るいながら五百グラムほどボールに入れて」
「……結構、多くないか」
そう、律義に言う俺に、灼は細い人差し指を向けて、
「お義父さんとあんた、男二人前に、あたしとお義母さんの分。下手したら足りないかもだわ」
「まあ……かなりお腹が空いてるけどな」
俺は腹の虫を気にして、誤魔化すように口を尖らせる。
灼は大きな鍋を二つ用意して、一つには多めに水を張り、もう一つには豚肉の塊とニンニク、ショウガを入れて醤油でドボドボと満たした。
「薄力粉は良いようね。まあ強力粉を混ぜる人や、中力粉を使う人もいるけど、あたしは本場中国のやり方が好きだわ」
「お前って海外生活、長かったんだよな」
「フランス、ドイツに次いで長かったのは中国よ。中華はその時に覚えたわ」
キッチンテーブルの真ん中に塩と重曹を置き、灼はそれぞれの分量を慎重に量る。
「中国語で『盐是骨头碱是筋』――つまり塩は骨格で重曹は筋肉って意味で、特に重要視されてるの。ラーメンの麺は『こし』が命だわ。まあ、中国人の好みで麺打ちに塩を入れないようにして、こしを控えめにする時もあるけど、ね」
平明な解説の後、灼は薄力粉のボールに塩と重曹を混ぜ、明朗快活に俺を指名する。
「さあ、平良。あんたの出番よ。力一杯混ぜ込んでちょうだいッ」
「おうよッ」
言って、俺は渾身の力を振り絞る。隣から灼が冷水を流し、やがて大きな団子が出来上がった。それを揉んで広げて丸くして、を繰り返す間、俺と灼は沈黙の中にいた。
「ねえ、平良……」
「なんだ」
台所という狭い空間で、若い男女が密接しているのだ。恋やら愛やらを意識する高校生なら、もっと激しい衝動に駆られるのが当然――というところだろうが。
「『菅原家』と平氏の構図を考えて、やはりライバルと言うべき源氏にも『大江家』が存在した……って話で止まってたよね」
――俺たちは違った。歴史の話を振られて、内心安堵の息を吐く。
「俺が話すのはあくまで私見だ。それを踏まえた上で、世間で言うような、最初から『源氏』と『平氏』はライバル関係ではなかったと思う。むしろ『菅原家』と『大江家』がライバル関係を作ったと言うべきだな」
俺はボールの中の作業に視線を留めたまま、続ける。
「『大江家』は『菅原家』と同じく氏姓は『土師宿禰』の出だ。大枝諸上が桓武天皇より『大枝朝臣』を頂いて以来だが、しかし、菅原家より出遅れた。
その孫の大江音人は、道真の祖父である菅原清公に師事し『菅家廊下』の門弟となる。承和四年<837>に文章得業生となるが、承和九年<842>の承和の変に巻き込まれて尾張に配流される」
「大江家もやっぱり流されるのね。学者の家ってお決まりなのかしら」
灼が大きく嘆息した。俺は肩を竦めて、
「時の権力者の『知恵袋』として出世しようとする以上、仕方ないことだな。後に大江音人は赦されて、参議として左大弁・勘解由長官・左兵衛督・検非違使別当など兼ね、『大枝』を『大江』と改姓する。
その子の大江千古は生涯を学者として過ごすが、三男の大江維時の代になって大きな転換期を迎える」
「これが、あんたが言ってた源満仲の家庭教師ってわけね」
灼の言葉に、俺は大きく頷いた。
「源経基は将門の乱以降も、西国へ兵を率いて乱を鎮めようとするが、戦に敗れるたび、『源氏の氏長者』である嵯峨源氏の助けを借りてる。きっと『将門記』にある通り、指揮官としての能力はなかったのだろう。そこで息子の満仲に、兵学者の大江維時を家庭教師にした」
灼が人差し指を唇に押し当てた。こいつが思考する時の癖だ。
「菅原家ではなくて、大江家を選んだのは『平氏』に対抗したのね?」
俺は揉む手を緩めた。
「菅原道真が失脚し、太宰府に流された後、その地位に就いたのが大江維時だ。天慶四年<944年>に『菅原家の氏長者』が継承する式部大輔に任ぜられると、清和源氏は俄かに力を付ける。つまり、元々武装集団を持ってた『菅原家』は平氏を育てたが、武装集団を持たない『大江家』は源氏に近づいて武力を得ようとしたと見るべきだと思う」
「満仲が摂津国・多田荘を本拠地にして、子供である源頼光や頼信が朝廷に影響力を持つ時期よね。その後に頼義、義家と続き――」
灼は、話の余韻から緊張して、俺の手の上に自分の手を置いた。
●灼のうんちく
皆様お久ぶりです。お元気でしたでしょうか?
今回出てきた大江維時。相当に菅原家に対し対抗心を燃やしていたみたいね。
『日本記略』によると、村上天皇の時代、大江維時が監修で菅原文時らに漢詩を作らせた時、二人が喧々囂々したという逸話が残ってます。結局他の人の漢詩が選ばれたそうですが、菅原文時は恨みに思ったらしいです。
『権紀』によると道真以来、公卿になった式部大輔・輔正は、文章に秀でている大江維時の孫である匡衡に度々、草案を依頼しています。
また、大江匡衡は文章生試験の時、面接官が菅原文時でしたが、見事合格してます。
菅原家と大江家は時として良きライバルだったのかも知れませんね。