第五十九話：憂苦の戦ぎ
皆様。
いつも拙作を読んで頂き、誠にありがとうございます。
現在スポコン真っ最中で恐縮ですが、お楽しみ頂ければ嬉しいです。
※※ ５９ ※※
十一月も終わり十二月に差し掛かると、昼なおも寒風が肌を刺す。
テニスコートを揉む風の中、ボレロを脱いでシャツを腕まくり、短パン姿の灼と会長がサービスラインまで歩いていく。俺は灼の後姿を見ながら、数分前の出来事を思い出していた。
灼が尾崎に電話を掛けた後、待つ時間の僅か。さり気なく寄ってきた灼が囁いた。
「平良、どうしてあんた、ダブルスなんて言ったの？ 本当はあたし一人の方が動きやすい」
「お前だって、会長の気持ちを受け止めたから承諾したんだろ？」
俺は声に呆れを混ぜて、軽く言う。
「……ん。ねえ、平良ァ」
灼が俺を見上げた。青ざめた顔には、いつもの強く凛々しさはなく、怯えが見えた。小学校の頃から灼が俺にだけ見せる色。そんな顔をさせたくない、させないと願い励ましてきた俺は小さな頭を撫でる。
灼の戸惑いを察して、軽い冗談のつもりで言った。
「『旧唐書にも『新唐書』にも『張巡伝』という話がある。
唐末の時代、安禄山が反乱を起こして７５６年、武将の令狐潮に命じて圧倒的な兵力で雍丘を包囲する。なにしろ張巡の軍は寡兵なので、あっという間に孤立無援に陥った。
そこで張巡は配下に藁人形を千体作らせ、それに衣服を着せて縄で縛り、夜半に城壁から数回に渡って下ろした。敵襲と勘違いした令狐潮はさんざん矢を射った。その結果、張巡は数十万本の矢をせしめたんだな。
そして張巡は続けて夜半過ぎに再び城壁から下ろす。しかし今度は本物の兵士が混ざってる。当然怒っていた令狐潮はその手は食わぬと、戦闘の準備をしなかった。こうして張巡は数百名の兵士を下ろし、令狐潮の陣を襲って兵糧を焼き、奇襲に大成功したそうだ」
「ふふふ。やっぱりあんたらしいよね」
灼は頭の上にある、大きな手の暖かさを感じながら微笑む。
……どこかズレてたり逆に鋭かったりする平良の話。あたしが思い悩んでいる時はいつも。
「会長は、そのカカシ兵士ってことね」
からかい半分で言う灼を、俺は大袈裟な態度で窘めた。
「おいおい、会長はお前の戦友だぞ。ただし戦力は未知数だ。だったら相手の前面に押し出して『カカシ』と思わせるも良し『熟練兵』として勝手に恐れてくれるも良し。お前がここぞという時、会長に急襲してもらえばいい。無いのにあるように見せる、あるのに無いように見せかける……相手の判断を惑わすのがポイントだな」
不安は吹き飛び、自信と気勢に満ちた顔で大きく頷く灼。
思い返す俺はネットに並ぶ四人を見る。そして、灼を安堵の内で見守った。
「コイントスはこの試合の審判のわたし、二年の倉本が務めます。いちおう試合形式ですが、あくまで『特訓』ということなので、1ゲームでノーアドバンテージ、4ポイント先取した方が勝ちです。双月さん、『フィッチ』？」
生徒会チームとテニス部チームがネットを挟んで並び、その脇に立つ審判と名乗った倉本が灼に尋ねた。灼は頷き、僅かに声を引き締める。
「スムース」
灼に反応し、新庄も宣言する。
「ラフ」
互いの顔と言葉を確認した倉本は指でコインを弾く。放物線を描き、小気味よい音ともにコインが跳ねた。やがて動きを止めたコインに五人の視線が集まる。
「ラフ。新庄さん、『サーブ』オア『コート』」
「サーブ」
新庄は迷わず信念を込めて決意を響かせた。響いた先で、灼は太陽の位置を観察し、
「コートはこちらで良いわ」
と、軽く流す。新庄は離れる灼の背中に視線を送り、溢れんばかりの活力を微かな笑みに変える。
「越智、サーブ権を先取した以上、このセットは押しまくるわよ」
「了解です」
新庄はボールを受け取り、交差間際に囁いた。越智は緊張気味な表情で頷く。生徒会チームもセットポジションに入り、新庄が最後にベースラインに立つ。
「1ゲームマッチ。新庄サービス トゥ プレイ」
新庄は二・三回、柔らかに手のひらでボールをバウンドさせる。視線を正面に向けた。
……へぇ、生徒会チームは『雁行陣』なのね。双月は若干前寄り。だったら思いっきり打ち込んで、ノータッチエースだわッ！
トスを上げながら、右足に体重をかけて、緊張を漲る炎のような気概に変えて蓄える。そしてボールが頂点に達した時、１７０センチの身長を伸ばした最高打点から、強烈な意思を乗せてラケットを一気に振り抜いた。
陣風のように襲い掛かるボールを、灼は素早くテイクバックして姿勢低く踏み込んだ。
「お、重ッ！」
ラケットごと持っていかれそうなパワーを耐えて、相手のコートにリターンを決める。その弾道の先で前衛の越智が綺麗にバックボレーで返してきた。しかし、ロブを上げるほど余裕はなかったようだ。灼は会長が射線の外側に移動しているのを視界の隅で確認しつつ、突出した越智の背後、新庄の手前にバックハンドストロークで間合いを詰めた。
……よしッ！ このまま出てきて『平行陣』になれッ！
灼は心の中で叫ぶ。新庄が前に出て、掬い上げたところでスマッシュを打つ……１ポイント先取は今後の戦局に大きな影響を与えるはず。
そう確信して前のめりに体重を落として次の行動を準備していた灼は、突如の事態に驚愕し、慌ててサービスライン後方まで退く。
灼の予想に反し、新庄が全く前進せずに、越智のクイックターンで会長に向かってショットを狙ってきたのだ。
「……ッ！！」
会長は辛うじてボレーでリターンするが、ボールは越智の真正面。
……裏をかかれた！？
灼は後退したことを悔やみ、ダメもとで前に出て、越智のスマッシュを返す。しかし軌道の先には新庄がすでにストロークを打つ体勢に入っていた。
「双月、引っかかったわねッ！」
瞬間、
灼の鋭敏な感覚が、うかつにも焦りから『平行陣』に誘い込まれたことで背後がガラ空きになってしまった危機を伝える。
「間に合うかッ！？」
灼は飛び込むようにベースラインまで走った。幸いにも新庄のアプローチショットが気負い過ぎて、トップスピンの回転が甘く比較的コースが浅かった。灼は何とか高く深いロブを打ち返し、ようやく陣形を立て直す。
「はあ、はあ……」
荒い息を整えながら、一時的に逃れたことへの安堵を捨て、戒めとして心に刻む。
……テニス部の実力、流石と言うべきね。
灼のロブを受けた新庄の二射目は、一射目よりスピードはないが正確なストロークを打ってきた。新庄達も一旦ストロークを展開し直すようだ。
……まだ、まだだわ。
ここで焦っては全てが台無し。灼は相手のセンターサービスラインを目掛けて、トップスピンロブを打つ。ボールはネットを越えて急激に落ち、大きく跳ねる。前衛の越智が受け損ね、新庄がスライスのかかったロブで返してきた。
「会長ッ！ 打って！！」
引かず、諦めず。
膝を曲げて少し反り返る形を作って。
振り上げたラケットに当たったボールは、アレイコートで弾け、まっしぐらに抜けていった。
審判の声がコートで響く。
「ラブフィフティーン」
新庄が痛恨、という色に染まる。灼は会長に駆け寄り、ありったけの賛辞を贈る。
「会長、やったじゃんッ！」
「はッ、あー……はあッ。あ、ありがとう。双月さんには敵わないけれどね」
肩を揺らし、息継ぎとも喘ぎともしれない声を漏らして、会長は満面の笑みを作った。
短いけれど長い試合は、まだ始まったばかりだ。
●灼のうんちく
平良が言ってた『雍丘の戦い』は安禄山の乱において重要な戦いのひとつです。反乱軍は張巡率いる唐軍に何度も敗北し、なかなか、雍丘・睢陽を獲得することができなかったようです。
『旧唐書』に新編纂された『新唐書』にも『張巡伝』として記載されていますが、有能な官僚でもあり、兵書にも通じた名将でもあったようです。特に記載はないのですが、諸葛亮が赤壁前哨戦で周瑜と賭けをして曹操軍から10万本の矢を奪ったエピソードを応用したのかもしれないわね。
