第四十九話:もう一つの『事実』
皆様、大変ご無沙汰しております。
非常事態宣言も出され、外出禁止や休業が相次ぐ中、それでも出勤せねばならない会社員の方々。
ご健康にはくれぐれもご自愛くださいませ。
※※ 49 ※※
清澄な空に、疎らな黒雲という奇妙な天候の翌朝。
日差しさえも寒々と頼りなく、雨の名残りで路肩が泥濘んでいる。俺は意気消沈と、灼は意気揚々と、校門まで続く長く緩やかな街路を上っていた。
「元気ないわね。朝ご飯、あまり食べなかったし……。風邪かしら?」
言うや、灼は俺の腕を引き、吐息を感じるほどに額を寄せた。そして探るように指先で俺と自分の前髪を上げ、目と目が顔と顔が合わさるように、手のひらで柔らかく包み込む。一瞬、激しく跳ねた心に焦りつつ、過ぎる髪のくすぐったさと『侍従』の芳しい香りの中で、つい陶然となった。
「うん、熱はなさそうね」
安堵の声を漏らし、灼は軽やかな動作で離れた。可愛くも凛々しく微笑む優しさが、別の意味で熱を帯びさせ、俺は心中で嘆息する。
……昨晩は迂闊だった。
風呂から上がったあたりから灼の態度が妙によそよそしかった。その時は軽い違和感程度だったが、今思えば、あれは明らかに変だった。俺が異常に気付いたのは、電灯を消して暗い部屋の中。
「……平良ァ」
毛布を頭までかぶって、その心地よさを堪能していた俺は、入り口の戸から差し込む電灯の光を背に、顔半分で覗き込む灼を見つけた。
「どうした?」
俺は目を細め、半身を起こした。灼は躊躇いがちに声を零す。
「そっちに行っても……いい?」
以前、ベッドに潜り込んできた前例が脳裏を掠めたが、毎度の眠れないヤツだろうと気に留めずに手招きをする。灼は嬉しさと幸せを胸いっぱいに感じて、布団に包まった。はにかむ笑みで、唇だけで囁く声が。
「今、あたしたち二人だけだね……」
予想外の一言で、激しく強い動悸が胸を打つ。俺は打たれた衝撃で、半身を弾き起こした。動揺を隠さず隣に視線を落とすと、灼は深い息継ぎの中、寝息が静かになっていく。結局、両親の帰宅を待ち侘びつつ、昂ぶる感情を抑えつつ、朝まで一睡も出来なかったのだ。
心身ともに極限まで疲労した俺は、ノロノロと歩みを進め、大きな欠伸をした。冷たい空気が肺を満たして脳に新鮮な酸素を送る。しかし、思考回路は依然、復活しない。
県立東葛山高校の玄関ホール。二年生用の下駄箱へ向かおうと灼に手を振った時、
「おはようさんッ! 平良君」
背後から誰かの腕が伸びてきて、制服越しでも分かる柔らかな胸を押し付けてきた。長い黒髪がサラサラと肩から流れて、俺の頬を擽る。仄かに匂い立つ『藤袴』の艶かしさが漂った。
「ゆ、結衣さんッ!?」
正解を引き当て離れようとする俺を、超絶美少女の先輩は、その起伏の豊かな身体に押し込めようとする。しかし別の力強い勢いが俺を引き剥がした。途端に獲物を横取りされた猛禽のように結衣さんの眼光が鋭くなる。
「まだ、いらはりましたん? 灼ちゃん。一年生はあっちでっせ」
豪勢なプロポーションで堂々と立つ結衣さんは、灼を飛び越した奥を指差した。ついでに見せつけるように大きく胸を反らし、わざとらしく微笑む。灼の眉がピクンッと跳ね上がった。
「脂肪の塊を見せびらかす毒虫を駆除してから行くのでご心配なく……先輩」
小柄で幼い容貌を感じさせないくらい、圧倒的な存在を周囲に撒散らし、屹立する灼。松ヶ崎城の『遠足』以来、向き合う度に噛みつき合いが激しくなる二人を、俺は何となく遠い眼差しで見つめていた。
「クックックッ。ラノベの主人公、谷君。アオハル真っ最中で悪いのだけど、そろそろ何とかしてもらえないかしら」
不意に俺の下から低く酷薄な声が上ってくる。赤銅色の髪を揺らし、全く興味のない瞳で見上げる会長は、和やか且つ無慈悲な笑みを零した。冷や汗と嫌な汗を同時にかきながら、苦悩する俺の傍らを通り過ぎていく男子生徒たちの羨望と憎悪に満ちた視線が痛い。
……いったい、どうすれば。
この期に及んでも、収拾する術を掴み切れない俺は、見苦しいほどに力なく。
「あ、あの……二人とも。皆さんに迷惑だし、そろそろ……」
まさに進退窮まる、という言葉を具現したかのように、俺はオドオドと周囲を見回す。丁度良く視界に友人が入り、思わず叫んだ。
「と、富樫ッ!」
「羨ま死ネ」
男の正念場に助けが入るはずもなく、冷ややかに去っていく。会長も呆れ顔で、観念しろとばかりに首を振る。その時、天の声というべき予鈴のチャイムが鳴った。
「命拾いしはったなァ、灼ちゃん」
「それは、あんたのことじゃないの?」
額を擦り合わせるように二人は睨み合い、同時に「ふんッ」と鼻を鳴らして、互いに反対方向へ歩んでいった。いつの間にか会長の姿も見えない。
俺一人、事態に取り残されて、その場で大きく嘆息するのだった。
昼休みになって、騒然となった教室から学食組が去っていく。三階建ての校舎二階から見える空は翳りで薄暗く、駐車場のアスファルトには、そこかしこに水溜りが出来ていた。泥の海となったグランドの白線はその中に沈んでいる。
「よう、朝っぱらからリア充全開だったな。むしろ前よりレベルアップしてないか?」
何となく外を眺めていた俺に、男子生徒が声を掛けてきた。
「富樫か……。朝はよくも見捨ててくれたな」
言うほど恨みが感じられない俺の一言に、富樫は「はんッ」と鼻を鳴らす。
「『ラブコメ一直線』を走ってるおまえのために、何で俺がモブキャラしなきゃならんのかよ。それより俺に言うことない?」
にやけた自分の顔に、親指を立てる富樫。俺はようやく得心した。
「ああ……。お前の刑期、恩赦されたんだったな。お勤めご苦労様です」
「そう言うの止めてくれる? 俺、犯罪者みたいじゃん」
俺は廊下を行き来する生徒を注視しつつ、教室の周囲を見た。幾人達が明るく声を弾ませ、机を寄せ合い始める。彼ら、あるいは彼女らの手には弁当袋やレジ袋を下げているので学食組ではないが、弁当を持ち出す人もいる。いつもの光景、そして毎度繰り返す習慣にしては少々遅さを感じ、スマホで確認した俺は、
「まあ、『痴情のもつれ』から公衆の面前で、先輩を殴ったら立派な犯罪だよな」
と、カバンから弁当箱を取り出して立ち上がった。富樫が慌てて悲痛な声で「お、お、おいッ! 待ってくれッ」と疾呼する。
「谷。お前には聞いてほしかったんだ。飯塚先輩は……あいつは俺たちを生徒会に売ったんだ。『裏切者』なんだよ」
のそのそと去ろうとした俺は振り向いた。俺は目の前、緊張した声で張り詰めた、しかし不安な色を隠せない富樫の表情を眺め、その奥を詮索する。が、それもすぐに飽きて、スマホで素早くメールを送信した。
「……まあ、いちおう友人だし。話だけは聞いてやるよ」
再び歩き出す俺の後を追う富樫。手にコンビニ袋を持つ。
「どこ行くんだよ?」
「ここじゃ、マズいだろ。別の場所だよ」
俺は、その別の場所とやらに向かった。
今回『歴』も『めろ。』も少なく、周章狼狽の極みで申し訳ないです。。。。