第四十七話:オタク少女は多くの『歴史事実』を記していた~検証⑩~
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春一番も吹き始め、桜の蕾も仄かに染まっています。。。。
花見が楽しみですね。。。。
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灼は小さな容器に水と酢を同量入れ、手酢を作る。同じく小椀に練った粉わさびを入れて伏せた。
「さて、準備は出来たわ。何食べたい?」
得意満面の笑みで俺に訊く。カウンターの椅子を意味もなく引き、食通さながら注文する。
「んじゃ、好物のサーモンで……」
「ちょっと、待ったァ!」
俺の言葉が終わらないうちに、灼はその上に重ねて押してきた。突然『お預け』を喰らった飼い犬のように、わけが分からないまま従順に答えを待つ。目の前の小柄な少女は、口をへの字に曲げ、凛とした大きな栗色の瞳に信念に近い圧力を宿らせる。その姿はもう寿司屋の『頑固オヤジ』だ。
「まずは白身とか、淡白な味を頼むもんなのッ」
「だってお前……何食べたいって訊いただろ?」
俺の怯む声に、大袈裟なくらい深く嘆息し、
「いい? お寿司は序盤は薄味で淡白。最初からサーモンみたいに脂が乗ったネタ食べたら、後の味がボケるでしょッ」
別に好きなモノ、好きなように食っても……とは言えない俺は、諦めに似た声を零す。
「い、イカで……」
「しみったれてるわね。ここは真鯛くらい頼みなさいよッ。あんたが社会人になった時が不安で仕方ないわ」
本気で困惑顔を見せる灼。『食通気分』の真似さえも許されない俺は、心痛の思いで言われるがままに復唱した。
「ま、真鯛をひとつ」
「あいよッ」
威勢の良い声を響かせ、灼が手酢に指を浸し、手のひらを軽やかに叩いた。切り身を持ち、わさびを塗り、右手でシャリを優しく掴む。すかさず左手に乗せて返し、指の腹と親指で形を整えて、皿の上に置いた。俺は崩さないように指で挟んでむらさきにネタをつける。内心恐恐としながら口に運んだ。
「!! ん……ん旨いッ」
一瞬、言葉を忘れた俺だが、瞬発的に叫んでいた。白身のあっさりとした味わいがとても心地よい。気が大きくなった俺は調子良く注文を続ける。
「えんがわを貰おうかな」
「お? お客さん通だね。いいのありますよッ」
灼まで調子に乗ってきた。俺の皿にはえんがわが添えられ、俺はそれを嬉々として取り上げた。口の中で、僅かな甘みが広がり溶けていく。
「後は『大将』のおすすめでお願いするよ」
灼がにやりと笑い、
「あんたも、一丁前なこと言うじゃない。わかったわ、まかせて」
と、どんどん大皿に盛り始めた。最初にあった痛いほどの緊張が、口の中の幸せによって安堵へ変わる。俺は顔を綻ばせ、お茶を啜りながら「そういえば」と思い出す。
「藤原行成の日記『権記』によれば、不遇の時代が続いてた行成が、蔵人頭に抜擢されてからエリート街道を累進していく。そして右衛門尉の孝標も蔵人に引き上げられた。その縁でしばしば道長のもとへ参内したり、長保二年四月八日の御灌仏会は行事進行を勤めたりと、業務に積極的だ。まあ、蔵人としての職分もあるが、一条天皇と行成に頻繁に呼ばれて『パシリ』にされてる」
灼は大判海苔を取り出し、包丁で切り始め、手際よくあらかじめ握っておいたシャリに巻き始める。そして、俺の好物であるイクラをたっぷりと載せていく。
「へえ……天皇にも信任が厚かったんだね。上総・常陸・上野は親王任国だわ。しかも、孝標は二か国も受領の地位に就いてる」
意外そうな顔をしながらも、声は礼讃に近い。と同時に別の疑問も浮かんだ。
「でも、他にも有能で国司を任せられる官僚はいたんじゃない? それだけ天皇の信任が厚いなら、わざわざ受領とはならないでしょう? やっぱり菅原家的に『回収係』が必要だったから?」
俺はイクラの軍艦巻を、心中で歓喜の声を上げながら口に入れた。
「おまえの言う通り、親王任国の受領功過定によって、功禄を頂いてる官僚は大勢いる。しかし長徳から寛仁・長元年間を含めた11世紀は、京も含めて全国で飢饉や放火・夜盗の襲撃が特に横行してて、関東はますます治安が悪化し、各地の国人は国司の命に服さず、納税の義務も疎かになってた」
今度こそ俺は、待ち望んだサーモンの握り寿司を頬張り、至福のひと時を堪能する。
「孝標は右衛門尉であり、弓馬の腕は確かだ。官僚としての能力もあるから、年労第一の蔵人として巡爵されても問題ないし、巡爵に与った蔵人は殿上を退き、従五位下に叙爵、大概国司に任じられる。そして受領として下った『菅原家』を『平家』は疎略に扱えない」
「そっかァ! これ以上の人選は確かにないわね」
灼はワサビ抜きの握り寿司を小皿に並べつつ、明るい顔を上げた。自分用に盛り付けているようだが、明らかに俺と個数が違い過ぎる。でも、しかし……食べ過ぎると分かってても手が止まらないのだ。
俺は大トロを口に運び、とろける脂を味わった。
「通例、国司が入国あるいは出国する際は、郡司共々地方官僚は出迎え、見送りをしなければならない決まりがある。しかし、当時の坂東では完全に形骸化し、有力国人は勝手に『郡司』や『掾』を名乗り、国司を完全に無視してた。中には殺害された国司も多数いる。そんな中で孝標が国司として有能だった証拠がある。かなり有名な書物だ」
灼はキッチンからカウンターへ移り、俺の隣に座った。握り寿司を口に入れ、自画自賛しながら僅かに頬を緩める。満面の笑みで見かけ通りの幼い顔を見せた。
「……更級日記。あんたの口調から容易に想像できるわ。『まつさと』の件、
『……つとめて舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車ひきたてて、おくりに来つる人々、これよりみな帰りぬ。のぼるは止まりなどして往き別かるるほど、ゆくも止まるも皆泣きなどす。おさな心地にもあわれと見ゆ』
さっきのあんたの話だと、見送りの人とお互い別れを惜しむなんて、相当よね」
俺は緑茶を啜った。
「流石だな。ちなみに孝標が上総に在任中、上総・下総・常陸一帯を支配下に入れてた有力国人がいた」
「誰よ?」
「平忠常だ」
俺の言葉に、灼が驚きの顔を隠せない。
「長元の乱ともいう、平将門の乱以来の大規模な反乱だった『平忠常の乱』の張本人よねッ。あの傍若無人な振る舞いで有名な、安房の国司である平維忠を焼き殺し、上総の国府を占拠して、上総介縣犬養為政の妻子が京へ逃げたっていう……そんな人と泣きながら別れを惜しんだ!? あ、あり得ないッ」
俺は再びイクラの軍艦巻に手を伸ばす。
「孝標と忠常は年齢も近い。意外と馬があったのかな? 孝標女が冒頭にさらっと書いてるが、等身大の薬師瑠璃光如来……あれ作るのに相当な銭がかかってるぞ。きっと贈ったのは忠常だろう」
灼の口癖である「あり得ない」を久々に聞いた俺は、根拠のない優越感に浸って言った。
「『せうとなる人』は菅原氏長者になる菅原定義と言われてるが、乳母に会いたいと、我儘な妹を乗せ、単騎で駆けるほどの強者だ。やはり武装集団としての『菅原家』は健在だったのだろう。実際、更級日記の中で、治安最悪なはずの上京旅程が全く物見遊山だ」
灼は嘆息し、緑茶を啜る。
「物語の世界に憧れる少女が平和に過ごせたのも、様々な背景があればこそよね。だから、そうかッ! 侍従大納言、藤原行成の娘、『猫』の話。孝標女が、儚く散った親しい姫を偲ぶ姿が切ないのは……」
突如、見上げる大きな瞳に、確たる答えを示して言った。俺は、なにかを思い描いている灼の横顔を見入った。
……女子は夢をみる。だから『儚い』歌に憧れる。
会長の言葉が脳裏に浮かんで消えた。目の前の精粋な少女を、その心を大切に守りたいと思った。
●灼のうんちく
菅原孝標については、行成の日記『権記』にしばしば出てきます。
正暦四年正月九日条、行成は従四位下に叙位された喜びと一緒に、因幡掾孝標が東宮殿上を許されたことを記しています。
蔵人頭になった行成は積極的に勤める孝標をよく記しています。頑張りすぎたかどうか。。。。
長保二年五月八日条、右衛門督・藤原公任が行成のところへ来て、
「孝標が勅命を伝えに来まして『風紀を取り締まる新しい法令を出したのに、まだまだ弛んでいる。それは検非違使庁がしっかり施行してないからだ』とのことでした。さらに贅沢禁止令を出しているのに中宮の女房が絹の立派な袴を履いていたらしいという噂がお上の耳に届いてます、と言うのです」
行成は驚き、慌てふためいて左大臣(藤原道長)に会い、そのことを話します。道長も動転して色々とおっしゃるが、行成も同様で全く内容が頭に入りません。とにかく内裏に上がって帝にお伺いを立てると、
「わたしはそんなことは言ってない。その話は本当なのか?」
と、ますますややこしくなって、行成は再び道長のところへ言い訳に行ったそうです。。。。
特に行成は孝標に対して批判を記してませんが、明らかに孝標のミスですね。上司である行成の苦労がわかります。。。。
後、二人のマブダチのエピソードとして、
長保二年七月二十七日条、行成は帝のお召しで参内したところ、内裏で孝標に会います。何故か孝標は衣冠の下襲を脱いでます。行成が聞くと帝から「立派過ぎる」と怒られたとのことでした。しかも、行成に耳打ちします。「今、お上は機嫌が悪いので気をつけろ」と。
行成は慌てて、いったん屋敷に戻り、普段着の古い下襲に着替えたと記されてます。。。。
かなりの意訳が入ってますが、微笑ましい二人のエピソードですね。。。。