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歴めろ。  作者: 武田 信頼
第二章:学校動乱編
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第四十六話:『菅原家』の人々~検証⑨~

申し訳ございません。

ご無沙汰しております。


三月は年度末ということで何かとお忙しいと思います。そんな中でコロナウイルスによる

様々な障害が後を絶ちません。四月以降は終息に向かってほしいものですね。。。。






            ※※ 46 ※※





 「今でこそ菅原道真は『学問の神様』で名が通ってるけど、かつては『文芸・芸能の神様』でもあり、『農業・産業の神様』でもあり、と様々な分野での神様だった」


 カウンター横に添え置いている電気炊飯器から、お米が炊ける時の甘い湯気が出ている。灼は全ての刺身を切り終え、大きな飯台を用意していた。その中に水を浸す。


 「それは本来、道真一人の能力ではなく、菅原家が持つ叡知えいちの全てということよね。でも、待って……道真は配流される前に『武士』として生きるためのエッセンスを平氏に伝授したけど、道真の子供たちがバラバラになった後、誰が菅原家をまとめたの?」


 灼は言って考えて、ふと訊いてきた。


 「大学頭だった嫡子の菅原高視も土佐介として、配流されたというのは話したと思う。しかし、5年後にゆるされて復任、従五位上に叙せられるが、菅原家を立て直す間もなく、38歳で病死してしまう。この後、高視の子・菅原文時の頃になって、菅原家累代の職だった式部大輔に任じられ、村上天皇から三代にわたり仕えて従三位に叙位、いわゆる『菅三品』と称されるようになった」

 「へえ、盛り返してきたってことね」


 灼の、その同情する喜びを、俺は遺憾な思いで打ち消した。


 「いや、それほど順調ではなかったみたいだ。文時は一代限りで、その後が続かない。兄弟である雅規まさのりも配流先の尾張から帰京してるが、国司を歴任したのみで、その子・資忠も『類聚符宣抄るいじゅうふせんしょう』という法令集によると、康保5年(968)に課試、つまり文章生になるための入試問題を作る宣旨を受けただけで、身分は低い。だが、その嫡子が菅原家の流れを大きく変えた」


 灼は、関心の色を隠さず身を乗り出すが、すぐに興味を失ったかのように冷静になる。


 「誰……って言っても、あまり聞いたことない人なんでしょ」

 「いや、多分一回は聞いたことのある名前だ。菅原孝標たかすえって知ってるだろ?」


 俺の満足げな顔に、灼は不快な思いを声に乗せて言う。


 「知ってるわよッ! 『更級日記』の作者の父親ぐらいッ」


 言って、不思議に思った。しゃくな気持ちは残ったが、探究心は抑えようもない。


 「孝標って、確か文章博士になれなかった菅原家でも少数派の人でしょ? 一般的には不器用で地味な感じの、うだつが上がらないお父さんってイメージだけど、どうやって流れを変えたの?」


 俺は嘆息し、苦笑で答えた。


 「孝標という人物を語るとき、必ず引き合いに出されるエピソードが『扶桑略記』治安三(1023)年十月十九日条に記載されている藤原道長の供で高野山参詣へ行った話だろう。そこの龍門寺仙房の扉に記したという菅原道真の真筆に仮名文を併記し、人々に嘲笑されたということだが……まあ『売名行為』とか諸説ある中で、何故そのようなことをしたのか明らかではない。とは言え、自らの能力で菅原家を再興したという史実も見当たらないがな。

 俺の私見だが、孝標にとっても菅原家にとっても、幸運だったのは、藤原行成に出会ったことだと思う」


 俺の神妙な口調に、確答を得た灼。


 「『寛弘の四納言しなごん』の一人で権大納言。能書家として『三蹟』の一人でもある行家は、藤原道長の側近だから、孝標にワンチャン来たってことよね」

 「ああ。でも、ただラッキーだったわけではない。藤原実資の『小右記』に書かれてる永観三年(985)四月四日条に、

 『四日戊寅、雨降る……右中弁資忠朝臣、山科より志を差し黒牛一頭を送る。斎王を迎ふるの勅使なり伝へ聞く。昨日斎王河陽の館に着すと云々』


 と、ある。右中弁資忠とは孝標の父親だ。贈り物をしてアピールするのだが、取るに足らない出来事のように記録されてる。この時点では『菅原家』は相手にされてないということだ。そこで重要なのは、孝標と行成の生い立ちが近似してるという点だ」


 炊飯が終了した音ともに、灼が動き出した。大きな飯台に浸された水を捨てようとするのだが、重くて持ち上がらないようだ。俺はキッチンの中に入って手助けをした。今度は炊飯器のふたを開け、釜を取り出すのだが、代わりに飯台の中へお米をひっくり返す。


 「ありがとう。ついでに『シャリ切』もお願いしようかな」


 悪戯いたずらを企む子供のように、片目を閉じて小さな舌を出す。迂闊うかつにも灼が可愛いと思ってしまった俺は、狼狽えながらガシガシと頭を掻いた。


 「……別に構わないけど、何をすればいいんだ?」


 俺は両手首まで丁寧に洗い、布巾で手を拭く。灼はしゃもじづたいに上から満遍まんべんなく合わせ酢をふりかけると、酢が一部分にだけ溜まらないよう、しゃもじで均等に混ぜる。


 「じゃ、平良にお願いね。しゃもじは横向きに使うの。例えば、刃物みたいなもので削ぎ切りする感じで、左右に振って」


 灼が飯台を回しながら、実演する。そして爽やかな笑顔で「はい」としゃもじを渡された。俺は無言で頷き、それを握る。取り敢えず、見よう見まねで『シャリ切』を試みる俺の隣に立ち、灼が団扇うちわで柔らかく風を送ってきた。


 「行成と孝標の生い立ちが、どう関係あるの?」


 僅かの調理……といっても、ただ掻き混ぜるだけだが、慣れぬ作業に悪戦苦闘しながら、灼の問いに答える。


 「藤原行成と菅原孝標は同年齢で、文章生時代の同級生だ。しかも二人とも若くして父親を失い、後ろ盾がない。行成は幸い、外祖父で式部大輔を務めた紀伝道の学者、源保光の養子になったが、孝標は晩年まで苦労した。私見ではあるが、行成と孝標は親密な学友だったと思う」


 灼は、パタパタと団扇うちわを叩き、「うーん」と大きな瞳を宙に向けた。


 「苦楽を共にしてきたマブダチね。しかし、『菅原家』の人たちって、ホント友達に恵まれてるわ」

 「確かに、な。しかもこの時期、孝標以外の菅原家の人々も、家伝の書物等を回収する受領チームと、時の権力者に渡りを付ける中央官僚チームに分担し、菅原氏長者を示す『式部大輔』を獲得する為、家業の『文章博士』どころではなかったのかもしれない。まあ、この時期『文章博士』になっても地方官僚だったり、()()()()中央官僚だったりするのはそういう理由だな」

 「そうか。だから孝標は、若いころは中央官僚、晩年は受領だったわけね。ちなみに家伝の書物を回収するってどういう意味?」


 俺はしゃもじを置いて、にこやかに言う。


 「道真には二十人を超える子供がいたと言われてる。その子供たちが一斉に配流された。『菅原家』としてまず守らなければならないのは、『菅家廊下』と言われたぐらい、優秀な知識の継承だ。つまり子供たちは、その膨大で貴重な書物や資料を分担し、配流先へ持って行った」

 「なんで、そこまでするの? 弟子とか何処かに預けるとか?」


 不意の質問に、俺は確たる表情で答える。


 「藤原時平が画策したのは『菅原家』の消滅だ。道真個人の左遷では終わらない。そして『菅原家』が最も武器とするものは……」

 「だから、子供たちは道真が死んだ後、一斉に神社を建てたのかッ」


 突然、ひらめいた灼が大きな声を上げた。俺は強く頷き、


 「各地の子供たちは、自分たちが秘匿してきた()()()をご神体として保存する。そうすることで権力者の手から守ろうとする。ただ神社を建立するにも民の支持を得なければならない。だから『菅原家の知恵』を神として『菅原道真』の御霊を祀った」


 声にならない、息を呑むような表情の灼を見る。学問の神様として、巷で崇められる菅原道真に隠された残酷な現実と『菅原家』の執念。これこそが()()()()()の正体なのだと。

 灼は、悲壮な面持ちで保温櫃ほおんびつをキッチン台に置く。人肌までに冷めた寿司飯を、その中に入れ始めつつ、訊いてくる。


 「……分散したものは回収しなければならないわ。孝標はその『回収係』の一人だったわけね。でも、どうして晩年になって『受領』になったの?」


 俺はキッチンを出て、再びカウンターに座る。


 「当時、関東は桓武平氏の反乱によって荒れまくってた。そして歴史上無能と言われ続けてきた孝標は、実はかなり優秀な官僚だったということだ」


 灼が用意してくれた緑茶を啜り、俺は言葉を切った。

●平良のうんちく


 全国にある菅原道真を祀る天満宮の中から、由緒深い25社を選んで順拝する風習である『菅公聖蹟二十五拝』。 明治に入り松浦武四郎が25社を選び、「聖蹟二十五拝順拝双六」を作ったことから始まるそうです。

 番外のものを含めて32図からなり 、順に進むと菅原道真の一生を追従できるというものらしいですが、少々興味がありますね。機会があれば興じてみたいです。。。。

 さて、菅原家の皆様が全国から回収しました『家宝』はどこへ保管していたのでしょうか? 25社のうち、5社が京都市内にあります。(長岡天満宮も含めれば府内で6社です)いずれも邸宅跡や生誕の地だったと伝えられるゆかりの地です。

 もしかしたら、これらの場所に安置していたのかもしれませんね。。。。

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― 新着の感想 ―
[一言]  ……何と言うべきか。菅原一族、と言うか貴族貴種と呼ばれる人々の執念深さの凄みと怖さが感じられましたですね。
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