第三十七話:『貞信公』と『定家』と ~検証⑥~
大変ご無沙汰いたしておりました。
更新も遅々として進まない拙作を、根気強く見守って下さいました方々には
お詫びの申し上げようもありません。
もはや、前書きにて挨拶いたしますのも赤面の限りです。
私事ですが、以前申し上げた通り、年末に至りまして、ようやく仕事が落ち着きました。
ですが、今度は住居中のアパートが急遽取り壊されるという事で、引っ越しの最中です。とほほ。。。。
しかし、出来るだけ更新して参りますので、改めまして宜しくお願い申し上げます。
※※ 37 ※※
螺旋階段を昇り切った奥にある、展示場のゲートをくぐろうとした時、よく見知った二人組に出くわした。
「あ、あれ?」
迂闊にも声を漏らした灼に、男子の腕に手を回す女子が振り返る。
「……曇華一現。お久しぶりね、二人とも」
鉄面皮の少女が言う。大袈裟すぎず、年相応に施された薄化粧の頬に、僅かばかり火照りを見せた。
「なんだ、おまえたちも来てたのか?」
遅れて、苦笑と共に振り返る部長。確かに、何だかずいぶん久しぶりな気がした。
「部長と四字熟語か。奇妙なところで会うもんだ」
「全くだ。お前たちもデートか?」
部長は再び苦笑を漏らし、言う。不意に俺の中で違和感が芽生えた。
「も? って……部長と四字熟語は付き合ってるのか?」
四字熟語が何か言おうとして俯き、部長の腕に回した自分の手に視線を向け、それがいけないことだったかのように、急いで離れようとする。
しかし、部長が四字熟語の肩を抱き、半ば強引に引き寄せた。
「まあ、言ってなかったしな。付き合って1年半くらいかな? ちなみに色々と儀式は済ませたぜ」
不敵に笑う部長に対し、灼は頬を赤らめ、四字熟語は肘鉄を部長に喰らわせた。
「誨淫導欲。この人の話は聞かなくてもいい」
鉄面皮から僅かに零れるむず痒い、恥ずかしさを見せながら部長の腕を引きはがし、「……それはそうと」と、俺たちの前まで歩いてくる。
「居安思危。山科会長に対し、常に気を付けておきなさい」
その名前を聞いて、先ほどまでの楽しさが霧散する灼。俄かに緊迫した色を見せる俺。
四字熟語は俺たちの顔を交互に見て更に言う。
「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする……会長が高階、飯塚、富樫に渡した『三首』のうち、残りの歌がこれよ」
どういうつもりか、なにを考えているのか、全く読めない鉄面皮のまま、踵を返し部長の傍へ戻っていく。「じゃあな」と部長が手を挙げ、二人は何処かへ去って行った。
「……俺たちも行くか」
俺は酷い疲労感に襲われ、大きく嘆息する。そして灼を見た。顔には、はっきりと不快感が表れていたが、大きな栗色の瞳で俺を見上げると何事もなかったように満面の笑みを見せた。
「うんっ! 行こう」
会場のゲートでチケットを渡し、少し薄暗い中へと入る。正面に大きな藤原定家の肖像画のパネルを眺めつつ、最初の色紙『秋の田の……』はそのまま横切って行った。
俺達が最初に見なければならない色紙……それは、
『このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに』
「やっぱり、菅原道真なのね」
「ああ……まあ、最後のおさらいだ。この歌は醍醐天皇の勅命により編纂された古今和歌集・羇旅歌に収められてる。延喜5年<905年>4月8日に奏上されたが、実際の完成は延喜12年頃だったのではという説もある。ちなみに、この歌の意味だが……」
灼が「はいっ」と、元気よく手を挙げた。
「このたび<今回>の旅は慌ただしい出発でしたから、幣はご用意できませんでした。山の神様、今ここにある見事な美しい紅葉の錦を捧げる幣として手向けます。御心のままお受けください」
灼は弾ける声で言い、笑う。俺はその笑みに一種の愛嬌を感じた。やっぱり、こいつとの会話は楽しい。
「そうだな、昌泰3年<898年>10月23日、宇多上皇は宮滝へ御幸し、道真もそのお供をしてる。その際に詠った歌だが、古今集には『朱雀院の、奈良におはしましたりける時に、たむけ山にてよみける』と、ある。道真の絶頂時代だな。が、この歌の意味が定家によってひっくり返る」
「えっ……と、どういう意味?」
灼は、その理論を考えて少し躊躇する。やはり、それ以外の言葉が見つからず顔を顰める。俺は柔らかく優しく、灼の手を握りしめ歩き出した。
「その答えは、次の歌を見てからだ」
俺は歩みを進め、色紙の前に立った。
『小倉山峰のもみぢ葉こころあらば今ひとたびの御幸待たなむ』
「これは貞信公の歌だ」
「貞信公って、いえば……藤原忠平よね?」
俺は、にやりと笑い言う。
「この歌の意味は?」
灼は嫌悪と緊張、相半ばする声で答える。
「小倉山の紅葉、私の気持ちに応えてくれるならば、その優美な景色をそのままに。どうか散らずにそのままで。きっと今度は主上の行幸があるはず。その日まで待っておくれ……って、こんな感じ?」
俺は笑いかけ、わざとらしく肩を竦めてみせた。
「『拾遺集』巻十七・雑秋に収められてる歌で詞書を知らないと、本当の意味がわからない歌だが……さすが灼だな。詞書にはこうある。
『亭子院、大井川に御幸ありて、行幸もあるぬべき所なりと仰せ給ふに、ことのよし奏せむと申して……』
つまり、宇多院が小倉山の紅葉の優美さに感動され、これは是非醍醐天皇にも見てもらいたいと仰せられたので、お供の忠平が「そのように奏上しましょう」と詠んだ歌だ」
「で? この歌も定家によってひっくり返る?」
灼は平然と答え、話題を戻す。
「そうだ。最後にこの歌を見てほしい」
再び、俺は灼の手を取り、新たな色紙を探す。灼は「うん」と俯けるように頷いた。傍にいるだけ。そう、歴史のことを二人で探索する……それだけで良かった。
手を引かれる灼は、考えたこともない欲したこともない、自分でも分からない感情が湧き上がり、ただ俯いた。
「平良、手……」
「ん? どうした?」
「……痛い」
迂闊な行動に気づいた俺は、慌てて灼の手を放す。半ば以上に自覚の無かった俺は自戒も含め謝罪した。
「ご、ごめん。検証のことばかり考えて、お前に配慮が足りなかった。気を付けるよ」
俺は少し灼から距離を取ったところで、突然、灼が俺の腕に手を絡ませてきた。お互いの胸を合わせるほど近く、灼は大きな栗色の瞳に、接するという戸惑いや躊躇いを隠さず、俺を見上げている。
「……手は痛くないの。ここは暗いから、逸れたくないから……。こうしてもいいでしょ?」
……心が痛い。
灼の仕草が、今俺が見ている灼の微笑みが、これまでのものと違っているように思えた。そして初めて芽生えた感情……愛おしいと思った。
俺たちは、とある色紙の前に立つ。
『ちはやぶる神代をきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは』
灼は不遜を込めて言う。
「少女漫画家の在原業平先生ね。もっと良い歌いっぱいあるのに、何故これ?」
俺は苦笑を交え、答える。
「百人一首は定家の選定だが、正直その基準は分かってない。まあ、その話は後でするが……この歌は『古今集』秋に収められてる。詞書に、
『二条の后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に龍田川に紅葉流れたる形を描きけるを』とある。
つまり、実際に景色を見たわけでなく、これは屏風歌だ。屏風歌とは、屏風に描かれた絵に合わせて、その脇に和歌を付けたものだな。で、この歌の意味は?」
と、気軽に促す俺に、灼は一瞬厳しい視線を送ったが、重たい肩を落とし、
「……秀色神采と伝わる神の時代にも聞いたことがありません。こんなにも美しく竜田川の水面に紅葉が真っ赤に映って、まるでくくり染めにしたように見えるなんて……って、どうよ?」
もはや諦めたかのように、ありったけの自賛を込めて言う、灼。俺は我がことのように喜び、笑った。
「やっぱり流石だな。で、この二人は道真の知人であり、親友なわけだが……ここからは俺が尊敬する言語遊戯研究家の織田正吉先生の説を借りる。
菅原道真も在原業平も流人として彷徨っている。加えて忠平の歌は流された人への同情と再会の願いが窺える。つまり、定家にとって『紅葉』は流人の象徴だ。そして『小倉百人一首』には大きなメッセージが込められてる」
「誰に?」
返る答えに、灼は戸惑うように期待するように短く訊く。
「それは隠岐に流された後鳥羽院に対して、さ」
●平良のうんちく
在原業平の歌の詞書。
二条の后とは、藤原長良の二女・高子のことで、清和天皇の皇后様です。
この歌を詠んだときは、東宮の御息所と呼ばれていて業平とは懇意の仲だったようです。
本編にもあったように、定家は『紅葉』を流人として選んでいるが、この歌は道真の縁とは別の意味もあると言われています。
『伊勢物語』には、脚色が含まれていて、業平が夜陰に乗じ二条の后を誘拐し、逃げていくが、途中に雷にあい、后を蔵に隠したところ鬼に喰われてしまったという話があります。
しかし、実際は後註には、
これは、二条后の、いとこの女御の御許に仕うまつるやうにてゐ給えけるを、容のいとめでたくあはしければ、盗みて負いて出でたりけるを、御兄人堀川大臣<藤原基経>、太郎国経の大納言、まだ下﨟にて内へまゐり給ふに、いみじう泣く人ありけるを聞きつけて、留めてとり返し給うてけり……と、あります。
業平が想いを抑え切れずに誘拐したけれど、兄とその長男によって無事保護されたって話ですね。
まあ、こんな事件があったんで、業平は『東くだり』に追い込まれたのでしょう。
同じ流人でも、マブダチの道真とは全く違う気がします。。。