第百話:揺れる『伊豆』~検証㊸~
拙作をお読み頂き、大変ありがとうございます。
今までを振り返り、様々なことがありましたが、おかげさまで100話まで到達することが出来ました。これもひとえに、皆様が読んで頂ければなればこそです。改めてお礼申し上げます。
これからも『歴めろ。』をお楽しみ頂ければ大変嬉しく思います。
※※ 100 ※※
俺たちを乗せたバスは、車が極端に少なった国道一号線――『小田原箱根道路』をのんびりと走っていた。灼越しに覗く窓からはキラキラと水面を輝かせて流れる早川が見える。
関東圏と違って、静岡県の天候は空が青く日も柔らかで、とても長閑な日和だ。
「以前にも話したと思うが、頼朝が14歳で伊豆に流されて治承四年<1180>に挙兵するまでの約20年間の記録は少ない」
「確か『吾妻鏡』によると、伊豆の国人の館を転々としてた――らしいわね」
俺の言葉を受けて、灼は至極当然のように交わした。こうして俺たち二人は『歴史検証』の会話を始める。
「それだけ、国人同士の政治的バランスが不安定だったのだろう。国人たちは頼朝を手元に置くことで権威を得たと勘違いしてたんだろうな。
『曽我物語』はフィクションではあるが、京都大番役の役目を終えて帰って来た伊東祐親の態度を見ればよく分かる。
つまり、京都へ上る前までは家格の権威付けとして頼朝を伊東家の館に置いてたのだが、京都で平時忠と繋がりを持ち、親平家派となった祐親は、もはや頼朝を必要としなくなった。むしろ邪魔になる。
だが、京都を知らない次男の伊東祐清や祐親の妻は相変わらず頼朝を貴人として扱い、八重姫との間に出来た千鶴を大事に育ててた」
祐親が取る行動の先を知る灼は、声に強さを加えて言う。
「『……源氏の流人を婿に取って、もし平家に知られたらどんな咎めを受けるのか。同じく婿を取ったというのなら、卑しい身分の商人や修験者だと言われた方がまだましだ……』
そう言って、千鶴を簀巻きにして稚児ヶ淵に沈めるのよね。
でも、ちょっと待って。伊東祐親が何番目の国人かは知らないけど、他の国人の館に頼朝がいた時、同じようなことは起きなかったの?」
言って、そんな可能性があることを、灼は不思議に思う。
「なかった、とは断定できない。しかし、なかったのではないかと推測する。というのは、『婿に迎える』ということは家の存亡に関わる大きな事件だからだ。
俺の私見だが、頼朝を『婿に迎える』のに主である祐親が知らないはずはない。『曽我物語』にある『源氏の流人を婿に取って……』みたいな発言はあり得ないはずだ。仮にあったとしたら国元からの情報をよっぽど疎かにしてたとしか思えない。
ここから伊豆の荘園に戻るわけだが、伊東氏の祖である工藤氏が重盛に『楠美荘』を寄進し、その荘園を二代の后・藤原多子に寄進したと言う話を前にしたと思う。そして工藤祐経は滝口武士となり、八条院蔵人になった。
この時点では清盛と八条院・暲子内親王の政治バランスは均衡しており、伊東祐親が喜んで頼朝を婿に迎えても不思議ではない。
だが、北条氏を含め他の国人は違う。下手にどちらかの陣営に入ったら家の存亡に関わる。恐らく娘は近付けず、別邸で丁重に扱ってたと思うぞ」
灼は大きく頷き、
「『曽我物語』にある、安元元年<1175>新平家派となって京から帰って来た祐親は、娘の八重姫と頼朝の間に出来た嫡子・千鶴丸を殺害し、頼朝も狙ったので祐親の次男・祐清が北条時政邸に逃がしたというわけね」
喜びでない笑顔を見せた。しかし俺は曖昧の笑みを浮かべて、
「安元元年<1175>といえば重盛は右近衛大将に叙任する。それは兵権を手中に入れると言う意味で大きな影響力を示す。同時期に祐親が時忠・宗盛派に寝返って頼朝を殺そうとするという下策は用いないと考える。
もし裏切るならば、翌年に起きた鹿ケ谷の陰謀によって、重盛・頼盛の影響力が平家内で低下してゆく時期だろうな」
灼の抱く寂しさを、なるべく理路整然とした歴史観へと導いた。俺は短く嘆息する。
「とにかく頼朝は北条邸に逃げた後、祐親に対し恨みを募らせてつつ、愛息・千鶴のために誦経三昧の日々を送ることになる。そんな状況を知った小侍従は頼朝の許へ亀の前を派遣することで慰めようとする」
「慰める……だなんてッ。平良、あんなこととか……し、しし、信じられないッ!」
突如、頬を染めて縮込まった灼が、舌鋒鋭く反発した。その意味に気付いて俺は、しどろもどろに弁明する。
「い、いや……そういうことではなくてッ。さっきも言ったが頼朝は『公家』だ。京の内情、内裏のうわさ話、帝の近況など、そういったよもやま話をして気を紛らわせるという意味だ。
伊豆には京都の情報は伝わりにくい。もちろん小侍従の指示で三善康信が定期的に情報を運んでくるが、女官である亀の前の、ウィットに富んだ話題の方が頼朝の心を穏やかにさせると小侍従は考えたのだろうな。
もちろん、頼朝にとって懐かしさを感じずにはいられない京都の女性だ。つい、ふらふら……っと、色香に惑わされても仕方ないかもな」
やや躊躇して続ける俺に、
「やっぱり、そういうことじゃないッ!」
再び膨らんだ頬を赤く染めて抗議した。俺の視線は自然と宙を彷徨い、ゴホンッとわざとらしい咳を一つ吐いて何とか言い抜けようとする。
「ま、まあ……。亀の前のおかげで当然、頼朝は救われたんだ。と同時に北条時政にとっても首が繋がった」
「首が繋がった? どういうことなの」
よく分からない、といったふうに灼が首を傾げた。その無邪気な可愛らしさに俺はつい見惚れる。
「平家の派閥抗争は、安元二年<1176>鹿ケ谷の陰謀以降、宗盛・時忠派が重盛・頼盛派を抑え込んで『平家一門の栄華』を築く。それに伴い八条院派の政治的影響力も翳りを見せる。治承四年<1180>五月に以仁王・源頼政が兵を挙げ敗北すると、ますます平家は隆盛を極めた。伊豆の知行国主は源頼政から平時忠の手に移る。
そうした中、日和見だった伊豆の国人は徐々に平家に近寄ってゆく。北条時政も例外ではなかっただろう、『源平盛衰記』にもあるように――
『……彼<頼朝>が娘に偸かに嫁してけり。北条四郎<時政>、京より下りける道にて、この事を聞きて大いに驚き、同道し下りける前検非違使兼隆をぞ聟に取るべき由契約したりけり……』
――新しく伊豆の知行国主となった時忠の目代、山木兼隆を婿に迎えることで平家に取り入ろうとする。しかし、この話は半分フィクションだ」
不審げな顔をしながら灼は、
「……その話の続きは、時政が、政子を無理矢理に山木兼隆と引き合わせようとするけど、夜に紛れて屋敷を抜け出し、頼朝の許へ逃げてしまうって内容だったわね」
思い出しつつ言葉を続けた。俺は大きく頷く。
「ああ。まず大きな間違いは時政の『京都大番役』についてだ。この『京都大番役』は御所や洛内の警護などをする賦役で、全国の国人がその大番役の任務を割り当てられていた。経費は自腹で任期3年の負担が重い苦役だ。伊東祐親もこの任務に就いていた時期があったが、時政が一番間の悪い時期に、その任が回ってきたわけだな。
つまり任期を終え、山木兼隆と共に伊豆へ帰って来たのが治承四年<1180>。そこから遡れば安元三年<1177>――京都では安元の大火があった年で、僧兵と平家が争い、以仁王が暗躍している時期に『大番役』として滞在してたということになる。
しかも安元二年<1176>、伊東祐親が頼朝を襲ったのだとすれば、すでに国元の館に頼朝を匿ってるほぼ同時期に、時政は京都へ向かったことになる。一歩何がが食い違えば時政の首は、いつ飛んでもおかしくない状況で京都に滞在してたことになり、生きた心地はしなかっただろう。
道中で、頼朝が政子を嫁したと聞いたぐらいでは驚きはしないはずだ。むしろ亀の前という身分のある女性が傍にいることで、無位無官の国人の娘などは取るに足らないだろう。しかも『曽我物語』によると、政子を頼朝の許へ送ったのは安達盛長だとある」
奇妙な緊張が灼の中に生まれる。
「安達盛長って、『十三人の合議制』の一人だわね。確かもう一人の足立遠元とは叔父と甥の関係だったわ。しかも足立といえば武蔵武芝の子孫。やっぱり、ここでも『菅原家』が絡むのね」
「そうだ」
あっさり答えて、
「これは俺の私見だが、さすがに小侍従は亀の前を身一つで坂東へ寄越したりはしないと思う。祐親から身を守るため、菅原道真以来、坂東における菅原家の武装集団だった安達盛長・足立遠元が頼朝と亀の前の警護を固くし、表向きは亀の前のためにお付き女房を探した。それが『北条政子』と伊達朝宗の娘と言われる『大進局』だ。
この表向きによって、京都滞在中の時政は平家の刃から身を守ることが出来た」
俺は明るく笑った。その疑念を質すように、灼は口を開く。
「なるほどね。安達盛長や足立遠元が身辺警護をする理由は分かったわ。でも何故、安達盛長が選んだのは政子だったの?」
聞いて、俺は思わず苦笑しつつ、首を左右に振る。
「すまん。そこの部分は完全に俺の想像だが、安達盛長の妻、丹後内侍は『無双の歌人』と呼ばれた二条天皇の女房だった。二条天皇の后・多子の女房でもある小侍従とは親友ということもあり、恐らく頻繁に手紙のやり取りをしてたと考える。
もちろん殷富門院大輔や、源頼政の娘で九条兼実の正室でもある二条院讃岐とも深い親交があった。……まあ、「亀の前をよろしく」みたいな手紙もあったのだろうと推測する。
何度か交わした手紙の中に政子と頼朝の仲についても書かれてたのかもしれない。つまり――まったく論理的ではないが、頼朝を匿ってくれた北条家に対する恩義ってやつかなって思う」
しかし、灼は怪訝な顔で訊き返す。
「でも、時政は京都から同行して来た山木兼隆を婿に迎えることを決めたわ。政子はどうなるのよ?」
俺は得心した声で答える。
「時政には政子以外にも多くの娘がいる。別に政子だけにこだわる必要はない。『源平盛衰記』は何度も言うがエンターテインメント小説だ。フィクションも多く含まれるのは当然だろう。
だから、時局を乗り切るための策として時政は山木兼隆を婿として迎える。しかし、それは政子ではない。これが俺がさっき言った半分フィクションという理由だな」
灼が、ほっとした顔で笑顔を見せた。俺も笑い、が不意に神妙な顔で続ける。
「しかしこの婿取りは実現しなかった。頼朝は身の安全を確保すると、相模国鎌倉大倉郷に屋敷を構えて挙兵し山木兼隆を討つ。まあ……この辺は一旦休憩を入れてからにするか」
俺の言葉で灼が窓の外を見ると、バスはサービスエリアに入ろうとしているところだった。
●山科花桜梨のうんちく
皆様、お久しぶりです。私はようやく生徒会から離れ、残り少ない高校生活を悠々自適に過ごしてます。。。。端的に要約するなら『隠居』ってやつかしら。。。
さて、亀の前について、もしかしたら以前にも『うんちくコーナー』で誰かが言ってたのかもしれませんが。。。。記録はあまり残っておらず色々と謎の多い女性です。
『吾妻鑑』によると、寿永元年<1182>あたりから、頼朝は出産して子育てに忙しい政子を放置してた上に、京都から呼び出した亀の前を寵愛して放蕩三昧だったようです。
それを見かねた政子の母・『牧の方』が政子に打ち明けると、激怒して『後妻打ち』――つまり、先妻が後妻を手打ちにする――を実行したと言われてます。。。その後、亀の前がどうなったのか文献が欠落してるので分かりません。
しかし、亀の前は八条院女房、あるいは頼朝の母だった由良御前が仕えてた上西門院・統子内親王の女房だったのでは。。。という説もあります。いずれにしろ京都の身分がある女性であり、伊豆の国人に過ぎない北条氏の娘では釣り合いが取れず『後妻打ち』はあり得なかったのでは、という説もあります。
仮に亀の前が八条院女房だったとしたら、牧の方の実家は平頼盛の家人だったので、ゆかりのある八条院女房を陥れることは決してしないでしょう。
このエピソードは北条政子の嫉妬深さを表していることで有名ですが、頼朝の死後、『尼将軍』と呼ばれるくらい苛烈な女性だったところから生まれた逸話なのかもしれませんね。