2.始まり始まり
「お先に失礼します」
俺がそう言うと職場からは残った社員の人からお疲れ様でした、と返ってきた。
もう何百回、何千回と繰り返してきた光景。
特に何か思うことはない。
ただ帰り際にはいつも残った仕事のことが気になって、今日やることで忘れたことはないかとか、明日やること何だっけって考えてしまう。
他の人に仕事をお願いしていたりすると、何となく引け目で帰りづらかったりもして色々とダメな方向に社会人として慣れてしまっているなとも感じる。
フロアを出て自分のロッカーへ向かいコートを出す。お値段19,800円のお買い得品。
服にはこだわりも興味もほとんどないけど。
「社会人だから見た目も気にしないとなんだよなぁ」
とぼやいてコートの袖に手を通す。
入社してすぐのころは全く気にしなかったが、お偉いさんや外のお客さんと会うことが多くなるとある程度は見映えを気にしなくてはいけない。
なぜなら見映えを気にするのが上司だから。上司に怒られないよう、恥ずかしい思いをさせないよう自分で自分に気を遣う。
あぁ、社会人って面倒だ。
ここ2,3年で特にそういう意識がはっきりしてきたと思う。
エレベータに乗り込む。知らない他の社員がすでに乗っていたので軽く会釈をする。
既に1階のボタンは押されていたのでそのまま壁際まで移動して小さく溜息を一つ。
(今期は仕事がないなぁ・・・)
そんなことを心のなかで思いながら、頭の中を空っぽにする。
仕事は仕事。仕事から解き放たれたからにはこの後のことを考える。
(とは言っても今日は月曜日。明日のために早く帰って適当に家でぐーたらしますかね)
悩みどころは夕食だ。
社会人になって一人暮らしを始めて。
今まで一人暮らしをしたことがなかった俺は料理に目覚めるなんてことは全くなく、コンビニや牛丼やラーメンを適当にローテーションしてる。
ただ、外食ばかりなので最近はコレステロールが気になる。
去年と比較して体重が2kg増えていた。これはまずい。今までにない増加量だ。食べる量と運動に気を使わないと。
守衛に社員カードを見せて、会社の裏口から通りへ出る。
時刻は19時。外はすっかり暗くなり、秋という季節を思い出させる暇なく冬の到来を予感させていた。
人の波に乗りつつ、時には逆らいつつ。駅に向かって歩いていく。
駅のホームに辿り着きこれまた何千回と慣れた電車へ乗り込む。
電車に揺られること20分。都心からはそこそこ離れたところに我が家がある。
とは言ってもマンションだが。
そして帰る前に何か買っていかないといけない。
(うーむ・・・)
心の中で首を捻る。
今日は月曜日。明日への英気を養うためにも少し豪華に行くべきでは。
特に趣味もなく、無駄遣いもしないのでそこそこ自由に使えるお金はあるのだが。
体重増加の問題を反芻しつつ、それでも食欲には抗えないと駅前にあるハンバーガー屋へ向かう。
その途中、ハンバーガー屋の前のベンチに座る少女が気になった。
なぜ気になるのかと言えば、そりゃ大層な美少女だったからだ。
年齢は16歳前後だろうか。いや、もしかしたら18歳ぐらいかもしれない。
いやいやそんなことはどうでもいい。
長い艶やかな黒髪がトレードマークの少女だった。
そして極め付けはもう一つ。その大層な美少女はハンバーガー屋の中をこれでもかというぐらい睨んでいた。
今にも飛び込みそうな、カウンターに飛び出していきそうな形相(姿勢?)で彼女はベンチに座っていた。
うむ、よくわからんが。
腹でも減ってるんだろう。
と、そう結論付けた。根拠はないが、彼女の表情がにらめつけるというより、欲しがっているように見えたからだ。
腹が減った家出美少女が適当に降りた駅で、たまたま目の前にあったハンバーガー屋の匂いにつられてやってきたのだろう、と。
そう考えた。
(だがすまんな、美少女っ。君の目の前で俺は高額ハンバーガーを頼むぞっ!なぜならそれがお気に入りだからっ、それが一番おいしいからっ!)
そう心の中で上から目線で謝りながら入店。お持ち帰りでお願いしてハンバーガーを手に店を出る。
店を出た瞬間ズボンのポケットが長く震えた。
(って電話かよ。誰だ・・・・、坂本かよ)
後輩である。しかも結構仕事がダメな感じの後輩だ。ただまあ悪気はなく、本人もかなりのんびりしたやつなので私的には憎めないやつである。私的では。
仕事的にはギルティ。よく叱ってるし、たまにぼこぼこにしてる。
歩きながら電話もできないので、ハンバーガー屋の向かいにある街頭樹近くまで移動してから電話に出る。
「はい、もしもし。小上です。・・・・・あぁ、その件ね。わかってるよ俺が指示したんだから。いや、だからそれは前にも説明したろ。外にお願いしてるから今その資料はまだこっちにないんだって。今やろうとしても二度手間になるかもしれないからやらなくていいって言ったろうが」
大きくため息を吐きつつ、街路に振り返る。途中、先ほどからいた少女が視界をかすめる。
まだいたのかい。
「あぁ、だからやらなくていいって。わかってるわかってる、その進捗でどうこう言わないって。・・・・はいよ、じゃあお疲れ。あんまり遅くなって奥さんに叱られないようにな。じゃあまた明日」
画面を操作して電話を切る。
といっても、あれか。この件は俺が悪いな。
指示を出したまま具体的な状況を説明してなかった。そのせいで本人は何とかしないとってことで作業進めようとしてたんだろう。
(明日一言謝っておくか)
電話を握ったまま、そんなことを考えていたら。
くー、と。
凄い軽く、でもとても目立つ音が隣から鳴った。
心の中で頭を抱えた。
(えー、君ほんとにお腹空いてたのっ。それちょっと安直過ぎません?正直すぎません?もう少し体面というのを気にしてもいいんじゃないですかねぇっ?)
心の中でかなりの勢いで突っ込みつつ聞こえなかった振りをしたいと。
真っ先にそう考え、ひとまず5秒停止。
そろそろ大丈夫かと思って視線だけ音の出処であろう方向を向く。
(・・・だはーっ!)
明らかに彼女は挙動不審だった。
お腹を押さえて顔は俺から見えないよう反対方向にうつむいていた。
(よしっ、ここは大人戦法一つ、見なかった振りで去ろう)
そう決めた、今決めた。決めたということは決定事項だ。
迅速かつ速やかに行う必要がある。
さって彼女に背を向け、歩き出す。
歩き出そうとして。
その一歩で立ち止まってしまった。
袖振り合うも他生の縁とは言うが、この場合はどうなのだろうか。
この場合は振り合っているのかどうか。
とそこまで考えてしこりが残りそうと判断した。
考える前に、動こう。
一歩踏み出した足を回れ道。
彼女へ向き直り、それでも彼女はまだこちらから顔をそらしたままだったが。
「あー、そこの家出っぽい方。実はお腹いっぱいでこのハンバーガー余ってるんだ。毒とか心配しないなら食べてくれると嬉しい」
そういって彼女が座っているベンチの上にハンバーガーを袋ごと置いた。
「まあ怪しそうだって思ったらそれはそのまま置いたままでいいから」
さらに続けてそう言う。
まずい、明らかに不審者だ。事案になりかねない。
この場は足早に去ろう。そう決めた。
なら行動は早い。さらに回れ右。すぐに歩き出す。
「さらば俺の1,500円。名もなき少女の糧になったことを誇りに思おう」
虚勢である。
飯代1,500円は安くない。会社の食堂なら頑張れば3回行ける。
ちくしょう、ナゲットにホットドッグも入ってたんだぞ・・・。
食べなかったら恨むからな。
そうぼやぎながらその場を後にする。
そんな日常ではまずありえないシチュエーションの中、ちょっとした回り道の帰り道。
帰ったあとはいつもの日常に戻るそんな日。
仕事と同じようにちょっとしたイレギュラー、ちょっとした損も大きな予定上は些事。
帰り道の途中にある牛丼屋で安い並盛と味噌汁を頼んで軌道修正したそんな日。
10年たって仕事に慣れたと思った俺は、世の中簡単には軌道修正できないこともあるのだと。
そんなことを痛感させられた日のことだった。