ハルを愛する人 (4)
水の音がする。なんだろう、ちゃぷん、ちゃぷん、っていう、優しい音。
身体が揺れているのも感じる。ああ、これは水の上に浮いているんだな。
そう考えたところで、ヒナはナシュトに呼び出されたのだと察した。
目を開けて状況を確認する。辺りは乳白色の濃い霧に包まれていて、全く見通すことが出来ない。ヒナは木で出来た小さなボートに乗って、ほとんど波の無い静かな水面の上を漂っている。ゆったりとした振動がボートから伝わり、ちゃぷん、という水音がそれに続く。他に音らしい音は何もない。聞こえない。
船尾の方に腰かけて、ヒナはふう、と息を吐いた。このシチュエーションは久しぶりだ。ナシュトがヒナを呼び出す時のイメージ、夢。霧の湖に浮かぶ木端みたいなボート。あの神様が何を考えているのか、ヒナにはさっぱり判らない。
ナシュトがヒナに何か伝えたいことがある時、その場で話せば良いものを、何故か託宣という形式にこだわってくる。要はもったいぶってくるのだ。サッサと言えば五秒で済むことを、こうやってわざわざ特別な夢で知らせてくる。
まあ雰囲気は嫌いじゃない。幻想的な感じはする。小さなボートに揺られながら、霧の中を進んでいくなんてなかなかロマンチックだ。だが、ヒナの好みかと言われれば、全然違う。なんというか、余りにもあからさま過ぎて逆に喜べない。ちょっと盛りすぎなんじゃないですかね。
霧の中から、すぅっとナシュトが姿を現した。ヒナの方を向いて、舳先、ピークヘッドの上に立つ。うへぇ、それ現実にやったらボートが引っ繰り返るんじゃないの?こういう過剰演出が、ヒナには気に入らない。なんだこの神様、雰囲気たっぷりにして、人のこと口説こうってのか?こちとら彼氏持ちだぞコラ。
「ハルとの交際は順調のようで何よりだな」
うっさい。余計なお世話だ。
こうやってナシュトに呼び出されること自体に全く良い思い出が無い。しばらくぶりだからすっかり忘れていたが、ナシュトが持ってくる知らせは決まって悪いものばかりだった。この疫病神め。
そもそも、銀の鍵自体が基本的にトラブルメイカーだ。良かれと思ってやったことでも、玉突き的にとんでもない方向に物事が転がり出すことになる。本来のあるべき姿から外れた方向からのアプローチは、予期せぬ結果しかもたらさない。本当にロクなことにならない。
それを身をもって知ったからこそ、ヒナは少し前まで真剣にこの鍵を切り離して捨てる方法を模索していた。何より、ハルに気味悪がられでもしたら大変だ。自分でも気持ち悪いのに、そんなことになったらもう生きてはいけない。
どんなものであっても、答えは自分の中にしかない。他人の中にあるものは他人の答えだ。人の心を読む上で、ヒナは最近になってようやくその考えに至った。そんな割り切りが無ければ、この銀の鍵の持つ力は毒にしかならないだろう。こんな力、あって良いことなんてほとんど無い。
「そこまでの考えがあれば、カダスへの門はすぐそこだというのに」
またこの神様は勝手に人の心を覗き見て。これだから神様は困る。人間のことなんてお構いなしだ。
ナシュトの目的は、銀の鍵を持つ者を神の住まう夢の地球、カダスに導くことなのだという。鍵の契約者がカダスを訪れるに足る資格を持つのかどうかを見極めるため、銀の鍵に憑き、その所有者と共に在って幾多の試練を与える。
まあ、ヒナは思いっきりそれを断ってしまったわけなんだけど。
間に合ってます。この言葉にはナシュトも度肝を抜かれたことだろう。どんな願い、夢をも叶えることが出来る神の園への導き。ヒナはそれを不要と切り捨てた。だって、そんなもの欲しくもなんともない。
ヒナが欲しいのは、ハルだけ。
それは神様だか何だかの力を使って手に入れるものではない。ハルがそのままのヒナを好きになってくれなければ何の意味もない。神様に頼んでハルに振り向いてもらう?はあ?何言ってんの?
そんな甘っちょろい気持ちで好きなんじゃないんだよ。こっちは本気で好きなんだよ、本気で好きになってもらいたいんだよ。
こればっかりは結果オーライではない。新幹線と飛行機ならいいが、どこでもドアは反則だろう。確かにヒナはハルのことが好きだ。ハルが居なければ生きていけない。ハルといつまでも一緒にいたい。
でも、ハルの意思を無視するなんて絶対にダメ、絶対に嫌だ。
ヒナはナシュトに食って掛かる勢いで熱弁をふるったが、その時既に銀の鍵は契約者の儀式を完了してしまっていた。カダスを求めない者を、銀の鍵はカダスの探究者として認めてしまった。歪な契約が結ばれ、その力は見事に暴走した。
結果がこれだ。神様との奇妙な共生生活。銀の鍵の所有権はヒナに固定されてしまい、ナシュトはヒナと中途半端に同一化した。正確には、ナシュトがヒナに飲み込まれた、ということなのだが、ヒナにとってはそんなことはどうでもいい。お荷物が増えたという事実に変わりはない。
恐らくだが、ヒナが自分の力で自分の願いを叶えてしまえば、この良く判らない呪縛からは解放されるという。ナシュトにとっても初めての事態なので、はっきりとは言えないらしい。神様なのに実に頼りない。こういう時に限って、なんでバシッと願いが叶えられないのか。ちっとも役に立たない。
お父さんも海外出張のお土産でどうしてこんな胡散臭いおまじないアイテムなんか買ってきちゃうかなぁ。ああでも本物だったわけだし、胡散臭いってことは無いのか。訂正、ガチっぽいおまじないアイテムなんか買ってきて欲しくなかった。ミスカトニック?ジントニック?知らないよそんなの。
「もう懲り懲りなんだけどね」
ヒナはまた一つ息を吐いた。ヒナの人生はそんなに暇じゃない。ハルのことで割と手一杯だ。銀の鍵に振り回される生活はもう中学校と一緒に卒業したつもり。見えないモノを見たり、人の心を読んだり、本当に良いことなんか何もない。いい加減にしてほしい。
「今は鍵に頼らない生活を送れているではないか。それならそれで良いのだろう?」
この神様は、まるで他人事みたいにしゃあしゃあと抜かしてくれる。元を正せばナシュトが勇み足で契約を急ぐからこんなことになったんじゃない。保険の約定はよく読めって、お母さんも言ってた。あんた闇金といい勝負だよ。
「それより警告だ。ヒナ、お前とハルに何か良くない意思が介入しようとしているのを感じる」
やっぱりか。ああー、もうなんなんだ。ヒナは頭を抱えた。
多分二人が付き合ってるって話が学校で噂になったんだ。いいじゃないか、幼馴染カップルだよ?別にくっついて自然でしょ?何か文句あるの?あるなら真正面から言って来なさいよ。正々堂々と勝負しましょうよ。
ナシュトが警告して来るってことは、恐らくはそういうことなんだろう。世の中他人の幸福を妬ましく思う輩が多すぎる。他人のことなんかどうでもいいでしょう?頼むから自分のことだけ見ててくれないかな。
波風を立てず、誰にも角を立てずに生きるなんてことは出来ない。それはそう。でも、必要以上に他人にちょっかいを出すのはやめていただきたい。
「お前は好かぬかもしれんが、必要であれば躊躇わず銀の鍵を使え。お前だけではない、ハルのためでもある」
忌々しい。
この鍵のせいでとにかく嫌な目にあってきた。魔法少女的な何かに憧れが無かった訳ではないが、現実というのは常に非情だ。
水は高い所から低い方へと流れる。そんな当たり前のルールを破ってまで、どんな結果を望むというか。そこから得た結果がどんな価値を持つのか。そして、ルールが破られたことによって、どんな揺り戻しがあると思っているのか。
夢も希望も無いなぁ。ヒナはがっくりとうなだれた。
ヒナの予想通り、学校で二人はすっかり公認カップルにされていた。
噂の出所の目星はとっくについている。男子ィ。ホントにあいつらロクなことしない。そんなんだからモテないんだ。ばーか。
教室や廊下で、何というか、異様に気を使われる。「あ、ごめんお邪魔だった?」「えっと、誤解させちゃうかな?」「朝倉ならあっちで見たよ?」あああもう、うるさーい!
これらを一つ一つ笑顔でいなしていくのも大変な作業だ。キレたら負け。新しい変な噂を生み出すだけになってしまう。片っ端からニコニコと「ありがとう、大丈夫だよ」って返事していく。もうボイスレコーダに録っておいて代用したいくらい。うぜぇ。中学生とメンタル的に大差が無いのかお前ら。
そんな中、サユリとかグループのメンバーだけはお察ししてくれる。
「ヒナも大変だな」
休み時間、サユリは苦笑いしながらそう言ってくれた。まあ、これも一種の有名税ですかね。どうせみんなすぐに飽きると思うんだけど。
「ああ、そうだ」
チサトの髪を優しくブラッシングしていたサキが、ヒナのことを手招きした。いやぁ、もうちょっと見てたいんですけどね。なんだろう、この百合空間。あれ?サキはでも王子様だから、百合じゃないのか。なんだっけ?ベルバラ?
サキはヒナの前髪を軽くまとめて、こめかみの辺りに綺麗なヘアピンを付けてくれた。髪に隠れていた耳が少しだけ見えるようになる。わあ。いいね、これ。
「この方が可愛いよ」
サキ、あんた何処に行こうとしてるんだい?
自分があまりそういうのが似合わないと、サキは良くチサトやヒナにこういうことをしてくれる。家が美容院なのは伊達じゃない。でも、サキは自分で言うほどおしゃれが似合わないとは思わない。女の子としてもとっても魅力的だ。可愛い。
恋をすると綺麗になるって言うけど、実際の所どうなんだろう。ヒナはハルに恋をして、もう何年目だか判らないくらいだ。それでも告白されて、彼氏彼女になって、まだ綺麗になるのだろうか。
多分、こうやっておしゃれするようになるから、綺麗になるって言うんだろうな。
ハルの彼女になったんだし、ハルにとって恥ずかしくない、可愛い女の子でいたい。今までもそう思ってたけど、その気持ちはまた新たになった。ありがとう、サキ。あんたホンマに王子様や。
そのままハルの様子を伺ってみる。しっかりこっちを見ていた。どう、可愛い?ヒナは自慢出来る彼女ですか?
男子グループがちょっとざわつく。ふふん、お前らはお呼びじゃないんだよ。ヒナはハルの彼女ですから。その他諸々はせいぜい邪魔にならない程度に賑やかしていなさい。
ちょっといい気分に浸っていたところで、ヒナの耳にその言葉が飛び込んできた。
「で、もうヤッたの?」
むかっ。
全く持って男子。なんなんだ男子。いい加減にしろよ男子。男子ってだけで男子。
お前らはそれしかないのか。ヤるか、ヤられるか。うぜぇ、マジでうぜぇ。いいからお家で右手とじゃれついてやがれ。
彼氏彼女って言ってんだろうが。お前らが言ってんのは男と女じゃなくて、オスとメスだろ。ホントにコイツ等ピンク脳だな。エロ以外に興味が無いのか、この万年発情期の動物どもが。
大体ハルにそんな根性があるなら、高校生になってから告白してお付き合いなんてちんたらしてねーっつーんだバァーカ!
「ヒナも大変だな」
サユリが、今度は笑いをこらえながら言った。うう、みんなにも聞こえてる。畜生、アイツらデリカシーの欠片も無い。サキも半笑いみたいな顔しているし、チサトに至っては何を想像しているのか真っ赤になってうつむいている。いやー、やめてー。
「うるせぇな、そういう風に見てんじゃねぇよ」
え?
今の、ハルの声?
ちょっと待って。慌てて振り返ると、ハルが誰かの襟首を掴んでいる所だった。
「なんだよ、彼女なんだろ?気取ってんじゃねぇよ」
いや、気取るってなんだよ。冷静に突っ込んじゃったよ。いやいや、そうじゃなくって。
流石に喧嘩はマズイでしょう。ハルは確かに昔は喧嘩っ早かったけど、中学生になってからはだいぶ抑えるようになっていた。ハルがこんなに怒るのを見るのは本当に久しぶりだ。
え?もしかしてヒナのこと庇ってくれてる?ちょっとどうしよう。ええっと、止めよう。まずは止めないと。
左手。いや、それはダメだ。ここで安易に鍵の力に頼ったら、また中学時代の繰り返しだ。ハルはヒナのことを守ろうとしてくれている。なら、ヒナも自分の力でハルを守らなきゃ。
ヒナが立ち上がろうとすると、サキがヒナの手を掴んで引き止めた。驚いてサキの顔を見ると、サキは黙って首を横に振った。
確かに、ここでヒナが出ていっても余計に話がこじれるだけかもしれない。でもハルはヒナのために。こんなことはヒナだって望んでいない。
「大丈夫、誰が正しいのかは、みんな判ってる」
サユリの声。うん、そうだよね。そんなの判ってるんだよ。判ってるんだけど、ヒナのためにハルが傷付くのは嫌なんだよ。ヒナを庇ってハルに何かあったら、ヒナは。ヒナは。
ヒナは、ソイツを絶対に許さない!
「つまんねーなぁ」
どうやら喧嘩には至らなかったらしい。緊張した空気は残っていたが、ガタガタと椅子に座る音がする。
ヒナは知らない間に、左手をぎゅっと握っていた。呼吸が荒い。どうやら最後まで我慢出来たみたいだ。一歩間違えればまた後悔を増やしていた所だった。本当に危ない。
感情に任せて、得体の知れない力に頼ってはいけない。力を使うなら、ハルが本当に傷付けられそうになった時だけ。クラスメイトとの喧嘩なんて些細なことだ。目に見えていることは、目に見える手段で解決するべき。
サキが、ぽんっとヒナの肩を叩いた。
「朝倉、カッコ良かったね」
そうでしょう?何しろヒナの自慢の彼氏ですから。
やっと笑顔に戻れた。ありがとう、王子様。