ハルを愛する人 (1)
五月、ゴールデンウィークが明ける頃には、もうすっかり高校生活にも慣れてきた、つもりだ。
未だに教室移動の時にはどっちに行って良いのか判らないこともあるし、連休明けに自分の教室に無事辿り着けてほっとしたりもした。
それでも、とりあえずここが、この学校が自分のいる場所だと認識することは出来ている。少なくとも三年間は在籍することになるのだから、ある程度の愛着くらいは持っておくべきだろう。
同じ中学から来た友人たちとは、ある程度クラスが分かれてしまったので、最初のうちは少し寂しいと感じることもあった。ただ、肝心な相手だけは同じクラスだったし、その結果を得られたというだけで、ひとまず一年生の間は幸せのうちに過ごすことが出来そうだ。
曙川ヒナ、十五歳の高校生活は、まだ始まったばかり。
大き目の制服、スカートだけは短めにして。肩までかかる髪は、中学の頃は校則で縛る必要があったのを、ふんわりとしたウェーブに任せてほどいて。なんだか女の子、女子高生という感じがして、それだけでヒナは心が数センチ浮かんでいる気がしていた。
流石に一年生の分際で化粧までしてしまうと、生活指導や先輩に目を付けられそうなので手を出してはいない。まあ、そんなことをしなくても、白くて清潔感のある肌、ぱっちりとした大きな目、緩やかな鼻筋のカーブ、小さくても存在感のある唇と、女子としては十分に及第点。毎朝登校前にきちんと鏡を見て確認する。うん、可愛い。
ヒナとしては別にモテる女の子になろう、などというつもりは毛頭なかったが、自分を綺麗に見せたい、とは常々思っていた。
ヒナには好きな人がいる。
その人が自分のことを好きになってくれれば、他の人は本気でどうでもいい。
どうでもいいが、その人の横にいて恥ずかしくない女の子でありたいし。他の女の子に目移りされるとかまっぴらごめんだ。
その人がヒナ以外の誰かを好きになるとか、考えたくないし、そんなことはあり得ない、とは思う。思うけども。
世の中は何が起こるか判らない。
ヒナ自身、そのことは身をもってよく知っている。だから、油断は禁物だ。気を抜かず、確実に。
で、その肝心のヒナの好きな人は、今ヒナの前を黙々と歩いている。
まだ入学して一ヶ月ちょっと、学校の構造はまだよく理解しきれてない。なので、ヒナは今自分が何処に向かっているのか、何処に連れていかれようとしているのか全く把握していなかった。
放課後、「ちょっと話がある」なんて言われて、二人して教室を出て。
昇降口で外履きに履き替えて、特殊教室棟との渡り廊下を潜って、駐輪場の脇を抜けるところまでは判ったが、後はもう何処をどう歩いたのやらだ。
その間、お互いに全く言葉を交わしていない。
まあでも、一緒にいるのが彼ならば、何がどうなっても別にいいか、とヒナは楽観的に構えていた。
朝倉ハル、ヒナと同じ十五歳。健全な男子高校生。クラスメイト。ヒナとは小さい頃からの幼馴染同士。
そして、ヒナの好きな人。
好きな人、という言い方が、ヒナはあまり気に入っていなかった。
「好き」という言葉はどうにも幅が広すぎる。英語だとライクでもラブでも「好き」だ。フェイバリットなんて言い方もあるが、それは「お気に入り」って感じか。でもやっぱり「好き」ってことでもある。
ハルのことを一言で「好き」と言って片付けてしまうのが、ヒナには気に入らない。かといって、くどくどと言葉を並べたところで、どうにもすっきりするわけではない。
一緒にいたいか、と言われれば一緒にいたい。
独占したいか、と言われれば独占したい。
ハルのために何でも出来るか、と言われれば割と本気で何でも出来る。
ハルのために死ねと言われれば、勢い余って本当に死んでしまいそうで自分で怖くなる。
なかなか理解を得られそうもないので、親しい友人相手であってもそこまでは言わないことにしている。だって色々と誤解を招きそうだし。
前を歩くハルの背中を見る。
ヒナと同じで、真新しくてちょっと大きめの制服。中学の時は身長が伸び悩んでいて、今もヒナと同じくらいだから、一五五センチといったところか。
バスケットボール部に所属していたけれど、こちらも色々と伸び悩んで、結局レギュラースタメンには入れず、高校では部活は無所属という状態だ。
それでも、地道に身体を鍛えていた結果として、細身ながらしっかりと筋肉は付いている。そういう隠れて逞しい感じとか、ヒナにとってはなかなかポイントが高い。
中学時代、ハルと話を合わせるためだけにヒナも女子バスケ部に入ったが、結果はハルに増して散々だった。
その記憶は今は封印しておこう。
封印を決めたそばから、右手の指四本突き指して中間テスト前にシャーペンが握れなくなって呻いた思い出にヒナが顔をしかめたところで、ハルがようやく足を止めた。
辿り着いた場所は、どうやら格技棟の裏手辺りか。壁の向こうは用具倉庫なので、部活中の柔道部やら剣道部の声もあまり聞こえてこない。
反対側は学校の外。昔在日米軍の基地だったとかで放置されている広大な空き地。今は草やら木やらが伸び放題で全く手入れされておらず、ちょっとしたジャングルみたいになっている。
恐らく、ここは学校の中で一番人気のない場所。
おお、とヒナは目を輝かせた。
これはアレだ。ハルがどうやってこの場所を知ったのかは知らないが、何らかの伝手でこの情報を得て、わざわざヒナを連れてきたということは。
これは間違いなく愛の告白だろう。
ちょっと顔でも赤らめた方でもいいだろうか、とヒナは軽くうつむいてみた。上目づかいで見る感じの角度がどんなだったか、以前鏡の前で練習した時のことを思い出す。もうちょっとこう左足を引いて、ハルに対して身体を斜めに。ええいこの辺一帯日陰なので顔が影になりすぎるじゃないか。
「ごめん、ヒナ、こんなところに連れてきて」
ハルがヒナの方を振り返った。
日焼けしにくいのが悩みで、ちょっと色白気味で、面長で痩せた顔。
それがカッコいいと思っているのか何なのか、ぼさぼさで寝癖がついてるみたいな黒くて中途半端に短い髪。
本人は鋭いって自称してたけど、細いだけで迫力のかけらもない緩やかな垂れ目。
うん、大丈夫。カッコいいか悪いかで言えば、ちゃんとカッコいいの部類に入る。ヒナはやっぱりハルが好き。
「ううん。どうかしたの、ハル?」
声が上ずりそうになってヒナは少し焦った。これだけ期待させといて肩透かしだったら物凄いガッカリだ。
まあでも、そんなヘタレであったとしても、それはそれでハルらしい。そんなハルでも、ヒナはやっぱりハルが好き。だめだ、このシチュエーションはあまりに甘だるくて、思考がちっとも正常に働かない。勝手に顔がにやけそうになる。踏ん張れ、ええっと、素数とか数えろ。素数ってなんだっけ?
「その・・・」
ハルが言い難そうにヒナから視線を外す。
ああ、これは当選確実だ。教室で声をかけられた時から、期待していなかったとは言わない。でも心の準備は間に合っていない。心臓が激しく暴れまわるのを感じる。祭りだ。
正直今更感のあるハナシではあったが、実際にこういう状況になるとときめくものだなぁ、とヒナは他人事みたいに考えた。いや、まだ何も言ってもらってない。これからだ。これから。
頑張れハル。ここはハルに頑張って言ってもらいたい。ヒナ的にはそれでまたポイントアップ、キャリーオーバーの予感がする。
「ヒナは、俺のことどう思ってる?」
そっちからかーい。
ヒナは心の中で全力で突っ込んで、表面上はにっこりと微笑んだ。
「ハルは私のこと、どう思ってるのかな?」
質問に質問で返すのは反則だと重々承知している。でもごめん、ここはやっぱりハルのターンであってほしい。
「俺は・・・」
ハルは黙った。
意地悪じゃなくて、このシチュエーションならハルの方から言ってもらわないと。
今後のお互いの立ち位置にも影響しちゃうよ?と余計な心配までしてしまう。ヒナとしてはやっぱりハルに力強く引っ張って欲しい。女の子だし。
「ヒナ」
「はい」
フライング気味に返事してしまって、ヒナは自分が相当動揺していることに気が付いた。
落ち着け自分。いや無駄に落ち着いてる気もする。実は落ち着いてないのか。いや、落ち着いてハルの言葉を聞こう。
「この前、視聴覚室でビデオ見た時さ、男の先輩と一緒にいただろ」
はい?
思わず口からこぼれ出そうになった言葉を慌てて回収する。
待て待て。ハルにそんな勘違いをさせる行動など取った覚えはない。取るはずがない。なんだそれ。
記憶力にそれほど自信があるわけではないが、今は緊急事態だ。ヒナはフル回転で頭の中を引っ掻き回す。視聴覚室の授業?なんだっけ、社会のビデオかなんか観たような。連休前じゃなかったか?眠くて耐えきれなくて、ついうとうとして、てっぺんハゲのおっさん教師に怒られた嫌な記憶しか出てこない。
「授業が終わった後、なんか荷物持ってもらって、話してた」
ああー。
ようやくヒナの脳内検索がヒットした。もうちょっといいサーチエンジンが必要だ。
名前すらよく覚えていないおっさん教師に居眠りを注意されて、授業の後アンケート用紙とその他諸々の荷物運びを命じられた。女の子に荷物持たせるとか何て奴だ、と居眠りに関しては全力で棚に上げて憤慨したのを覚えている。
それはさておいて、廊下に出た後、なんだか胡散臭いと言うか、似非の臭いがぷんぷんしてきそうな男の先輩が、荷物を持ってあげようかと申し出てくれたのだ。
確か、背が高かった、とは記憶している。顔は、まあカッコよかった?のか?正直ハル以外の男子の顔など記憶する価値が無いと思っている。目が二つあって鼻が一つあって口が一つあって、ああはいはい、って感じだ。
ついでに言うと、ヒナに対してちょっとよこしまな欲求があることが判ってしまった。まあそんなのは別にその男子に限ったことじゃないし、ヒナにとってはかなりどうでもいいことだった。それが判るようになってしまった当初、中学の頃は凍りつくほど恐怖したけど、いい加減慣れた。慣れとは恐ろしいものだ。
「いたね、そんな人」
結局、そんな言葉がぼろっと流出した。
思い出せただけ褒めてほしい程度のエピソードだ。何しろヒナにとっては良い要素が一つもない、実に無価値なハナシだ。
「ヒナは、高校に入ってから、なんていうか、その、すごい可愛くなった」
お、なんだそれ。嬉しいことを言ってくれる。
中学の頃はそこまで可愛くは無かったのかそうかそうか、という野暮なツッコミはとりあえず保留にしておいて。
可愛いと言われるのは気分が良い。ハルに言われるなら格別だ。いいぞ、もっとやれ。
「だから、ヒナが誰かにそういう目で見られるというか、ヒナが誰かに取られるというか、そういうの、嫌なんだよ」
よっしゃきた。
とりあえず心の中でガッツポーズ。
ハルが嫉妬してくれている。その事実はたまらなく嬉しい。ありがとう、えーと顔が良かったかもしれない先輩。あなたの欲求に応えてあげることは出来ませんが、せめて脳内では好きにしてくれていいです。あ、やっぱりちょっと嫌だからやめてください。
大丈夫だよ、ハル。そんなこと絶対無いから。ヒナはハル以外の人を好きになるとか、絶対に無い。
そう言って抱きつきたくなるのをぐっと我慢する。いくらなんでもそれは安すぎる。もうちょっと高く売りつけたいというか。
もう少しいい気分でいたいじゃない?
「ああ、なんかまだるっこしいな」
ハルがそう言ってぐしゃぐしゃと自分の髪を引っ掻き回す。
頑張って、もう少し。デキレースなんだから大丈夫でしょ。
うーん、そんなに告白を躊躇させるほど思わせぶりな態度ばっかりしてたかなぁ。ヒナはちょっと反省した。そんなつもりは無かったんだけど、これがちゃんと出来たらもう少し素直になれるように努力してみよう。努力だけ、じゃダメか。じゃあ出来るだけ素直になる。今のハルと同じくらいには頑張る。
「ヒナ!」
ハルが大きな声を出した。
いくら人気が無いとはいえ、流石にそんなボリュームで喋られてしまうと誰かに気付かれてしまうかもしれない。
でもまあ、気合が必要なんだよね。そこは理解出来る。だから。
「はい!」
応援するみたいに、ヒナも大きめの声で返事をした。エールの交換だ。
ハルが真っ直ぐにヒナを見つめてくる。こんな真剣なハルの顔を見るのは久しぶり、いや、初めてかもしれない。レアだな、とか考えてちゃいけない。いやでも実際スーパーレア級でしょう。
期待して良いんだよね?知らずに目がうるんでくる。こんなにハルと見つめ合うのは、やっぱり初めてだ。どきどきする。こんなことでまだこんな風に感じられるなんて、ちょっと意外な発見だ。
待ってたよ、ハル。ヒナはずっと待ってた。
さあ、どうぞ。
「好きだ、俺と付き合ってくれ」
百点だ。
ふわっと、心の中が軽くなって、一瞬頭が空っぽになる。すごいな。自分がバラバラになって、また元に戻ったみたいな、不思議な感じ。ハルは言葉でヒナを殺して、そのまま生き返らせた。ずっと欠けていたピースが埋まって、大きな画が出来た気がする。ずっと見たかった画が描いてある。ハルの画。ハルと一緒にヒナが笑っている画。
ありがとう、ハル。すっごく嬉しい。すっごく幸せ。本当に、今日という日をクリップしてヒナのトップページに固定しておきたいくらい嬉しい。人生の幸福イベントのうち、間違いなくトップテンにエントリーする。ありがとう。
返事なんて決まっている。問題は、どう応えるか、だ。ヒナはそれだけを迷っていた。
ああでも、素直になるってさっき決めたんだっけ。恥ずかしいなぁ。
「ありがとう、ハル。好きって言ってくれるの、とっても嬉しい」
思ったままのことを口に出す。
駆け引きとか、正直あまり好きでも得意でもない。特に相手がハルとなると、どうしても感情が出てしまう。
だから、ヒナの気持ちなんてとっくに伝わっているものだと思っていた。
本当に難しい。困ったものだ。
「でも、幼馴染でお手軽な女の子、とか思ってないよね?簡単にオッケーしてくれそうだー、とか」
ごめんね、ハル。もうちょっとだけ高く売らせてね。
ハルがヒナと釣り合うだけの気持ちを持っているのかどうか、そこだけはどうしても気になっていた。そんなことは無いと信じてはいる。けど、やっぱり確認だけはしておきたい。
ハルはむっとした顔をした。お、いいね。
「なんだよそれ。お前俺がどういう気持ちでこんなこと言ってると思ってるんだよ」
怒らせてしまった。
そうだよね、怒るよね。ごめん。ただ、ヒナはハルに話していないことがある。
ヒナの「好き」は、多分ハルが考えているよりもずっと重い。
言葉にしたらドン引きされるか、まあ、そうでなくても変な誤解を生むには違いない。
それならそれで構わないとも思うが、どうせならちゃんとお互いにきちんと理解しあって、好きあっていたいと願ってしまう。
だって、折角ハルが告白してくれたんだよ?いい加減な答えなんて出したくないよ。
「ごめんごめん」
曖昧な笑顔で誤魔化す。
ハルはぷいっと横を向いてしまった。でも、すぐに許してくれるはず。だって好きなんでしょう?
それに、ちゃんと返事しますよ。大丈夫。
「ハルの気持ちがどの程度なのか判らなくてさ。ちょっと確認したかったんだよ」
悪戯っぽく微笑むのを忘れない。こういうのは演出も大切だ。
ハルがチラッとこっちを見る。よし、ばっちり見たね。結構練習したんだから、見ててくれないとホントに困るよ。
「どの程度って」
安くなければいいんですよ。
「だって、私だけ本気だったりしたら、フェアじゃない、でしょ?」
うん、大丈夫だ。
ハルのことは信じられる。昔から、ずっと。
ハルが顔を赤くする。ヒナの顔も赤い。これは意識してやっている演出ではない。ヒナもそこまで演技派ではない。
長かったなぁ、とヒナはぼんやり考えた。一応、隠していたつもりなんて全然無くて、むしろこういうけじめというか、儀式が必要になるとも実はあまり想定していなかった。
なあなあで、成り行きで。別にそれでも一向に構わなかった。なんだっけ、新幹線だろうが飛行機だろうが、新大阪に着けば一緒なんだっけ?どんな流れであっても、最終的にヒナの望む結末に行き着くのであれば、それはそれで満足だ。
そうは思っても、ハルがこうして告白してくれたことは、素直に嬉しかった。こういうのって大事だよね、と真面目に思った。やっぱり、お互いの意思を、想いをちゃんと言葉にして直接伝えるのって、とても大切だ。
何しろ、こんなに胸が弾むんだから。
「私もハルのこと好きだよ。お付き合い、よろしくお願いします」
ホント、今更なんだけどね。
大体もう十年以上も一緒にいるのに、お付き合いって言っても何をすればいいんだろう。
しかもその十年のうち半分以上、ヒナはハルのことが好きだったのに。
ずっとハルだけを見て、ハルの隣にいようとしてたのに。
でも声に出して「好き」って言ってみたら、思いのほかその言葉はしっくりときた。
食わず嫌いならぬ、言わず嫌いか。じゃあもうちょっと重い方も言ってみてしまおうかとも思ったが、流石にそれはやめておくことにした。
何しろ、安くはないので。