第八話 『リプレイ、そしてデジャヴ』
飲料水の冷蔵ショーケースが、低く唸るような音を上げていた。
深夜のコンビニはクーラーがききすぎているせいか腕にはぷつぷつと薄く鳥肌が立っている。あるいはそれは、寒さからじゃないのかもしれない。とても信じられないことを目の前にいる風花が実行しようとしていたからだ。
店の奥、飲料コーナーに面した通路で、おれと風花は反対側にあるレジから見えないように陳列棚の影に隠れていた。それは店員と一緒にいる強盗――灰色パーカーを頭から被った不審者の男に見つからないようにするためだった。
「ボクをよく見ててよ、幸夜。大丈夫、きっと上手くいくから」
上手くいく、と彼女は繰り返す。まるで自分に言い聞かせるように。
悪夢のような夜だとおれは思った。彼女の気まぐれで立ち寄ったコンビニで、まさか強盗が押し入ってくるだなんて。それも店員が抵抗の意志を持っているから、助けに入らなきゃと風花は言ってきかない。状況は最悪だった。
「待ってよ風花。何を考えて――」
手を伸ばし、けれど小声での抗議は続かなかった。
風花がとり合わずに踵を返したから、じゃない。
「ッ」
頭に鋭い痛みが走った。同時に、妙な既視感に襲われる。
この状況も、このセリフも、どこで見覚えも聞き覚えもあったような、そんな気がしたのだ。いわゆる『デジャヴ』というやつだろうか。狐に包まれたような不思議な感覚だった。
おれは頭を振った。今はそんな場合じゃない。風花はもう奥の雑誌コーナーを曲がってレジに向かってしまっている。彼女が強盗と接触してしまえば、最悪の事態だってありえるんだ。かと言って自分にできることは限られているだろう。非力な自分が男に立ち向かったところで、まず勝ち目がないのは目に見えている。
そこで、おれは側にあった冷蔵ショーケースに目をやった。
近距離がダメだったら、遠距離ならどうだろう。あの小さい缶コーヒーだったら遠くまで投げられそうだ。幸いにもおれはコントロールには自信がある。と言ってもそれは野球部に所属しているからというわけでもなく、雪が降った日に風花と雪玉で投げ合いをするくらいのものだけれど。
迷っている暇はなかった。グズグズしていたら風花の身が危ない。そう決心して踏み出した、その時だった。
「ッ」
こめかみにまた鋭い痛みが走る。と同時にまた既視感も。
ふらついておれはたたらを踏んだ。こめかみに手を当てるとすぐに痛みは引いたものの、言いようのない感覚が尾を引いたように残っている。気味が悪かった。
でも、不思議な予感があった。それも嫌な予感だ。漠然としていてよくわからないけれど、今やろうとしていることが上手くいかないような気がしたのだ。気がしただけで、気のせいかもしれない。
いや、それ以前に踏みとどまった理由は、もう一つあった。
このまま風花だけを前線に立たせていいのか? おれは男で、彼女は女の子だ。自分だけ安全地帯で遠くから援護して、彼女だけを危険にさらして、それで本当にいいのだろうか。罪悪感にも似た感情がおれの中で大きく渦巻く。
それは、本当に『対等』の関係と言えるのか?
「……くそっ」
逡巡した後、おれはショーケースから目を離し、回れ右をする。
そして風花が向かった方向、雑誌コーナーの奥へと駆け出した。
「幸夜!」
入り口に一番近い棚、健康ドリンクコーナーを背にしていた風花が小声で叫んできた。
目を丸くして驚いたかと思えば、今度は心底嬉しそうに彼女は微笑む。
「来てくれると信じてたよ。それでこそ幸夜だもの」
「この、馬鹿! 何を先走ってくれてるんだよ。振り回されるこっちの身にもなれって前も言ったでしょ」
あはは、ごめんごめんと彼女は苦笑する。
いつも通りのやりとりだった。いつも通り過ぎて力が抜けて、そのおかげか緊張が少しまぎれる。それに、なぜだか妙な懐かしさを感じた。もうずっと会えずじまいで、久しぶりに会ったみたいな――
「幸夜? 何をぼーっとしてるんだい。早く作戦を立てておくれよ」
おれはハッと我に返る。
「ごめん……って、は? 作戦? ないの? おれが来なかったどうするつもりだったの」
詰め寄ると、風花は目をぱちくりさせて答えるのに数秒を要した。
「もちろん、そこは臨機応変に対応をだね」
「つまり考えなしに突っこもうとしたわけでしょ。もっかい言うけど、やっぱり馬鹿だよね風花って」
彼女はむっとしながらも棚の端から顔を出し、レジカウンターの様子を窺う。話声から察するに、どうやら強盗と店員たちは一つ目のレジを後に、すでに奥のレジからお金を取り出しているようだった。
「失礼なことを言うねキミは。まるでボクが脳まで筋肉で出来ている単細胞みたいな物言いじゃないか。単純に、ボクより幸夜のほうが作戦を立てるのが上手いから頼るのであって、幸夜がいなかったらこれからボクが作戦をだね――」
そこで唐突に風花の言葉が途切れた。
「ッまずい!」
叫ぶやいなや迅速だった。彼女は目の前の傘立てに刺さっていた日本刀のような傘――『刀傘』を引き抜き、そのまま走り出してしまう。
「風花!」
制止なんて聞く耳持たず、彼女はあっという間に奥のレジへと向かった。
見れば強盗が店員の手の甲目がけてナイフを振り下ろすところだった。そこへ間一髪、風花が男の横っ面を傘でひっぱたく。強盗がよろめいた。
「早く逃げるんだ! ここはボクが!」
一喝すると、店員は弾かれたようにカウンターから脱出し、おれの真横を気づくことなく通り過ぎて入り口のドアを開けて転がり走っていった。
男の前に立ちはだかる風花の背を見て、おれは気が気じゃなかった。
「まったく、あれで単細胞じゃなくて何だっていうんだよっ」
だけど呆れる一方で、胸の奥に痛みを感じた。
その背中があまりにも大きくて、遠くに感じられたから。毅然とした態度でおれの前に立っている風花と、彼女の後ろでみっともなく隠れている自分。その立ち位置は、昔から変わらないように思えた。
いつもおれの後ろについていたはずの彼女は、実はいつもおれの前にいたことに今さらながら気づいてしまう。いや、きっと自分は気づいていたはずだ。気づいていながら、その事実に目を逸らし続けていたのだ。
やがて顔を左手で押さえ、痛みに悶えていた男がふらりと態勢を立て直す。
「て、めぇ。女のクセにフザけたことを」
殺気立って睨みつける男は灰色のフードがとれ、その厳めしい形相が露わになっていた。金色の短髪に浅黒い肌、厚い唇にギラギラとした眼光。面と向かえば誰もが萎縮してしまいそうな恐ろしい風貌だった。
けれど風花は涼しげな顔で手に持つ傘を掲げてみせた。
「キミは知ってるかい? バットウーマンがこの刀傘につけた名前を」
「あ?」
「この傘に、彼女は『子守唄』って名前をつけてたんだってさ。悪人どもを眠らせるための傘、ぴったりだろう?」
ひゅん、と風花は刀傘を振るってみせる。
その言葉も仕草も、すべてが芝居がかっていた。自分が力じゃ男に敵わないとわかっているから、こうして自分に有利な雰囲気を作り出していく。彼女の計算のうちだった。
けれどそれも、男に理性が働いていれば、という前提の話。激情して頭に血が登っている人間になんてそもそも――
そこまで分析をして、おれは違和感を覚えた。
まるでテープを巻き戻して再生されたみたいに、以前とまるっきり同じ体験をしているような気がしたからだ。セリフも自分の思考でさえも、はっきりするぐらい覚えがあるような感覚だった。
ズキン、と今度は強い痛みが頭に走る。それにまた妙な既視感も。
「……ダメだ」
気づけば直感的に感じたことを、そのまま呟いていた。
また頭痛が走る。その時なぜか、風花が男に馬乗りされる映像が断片的に脳裏に浮かんだ。殴られる続ける彼女が、ぴくりとも動かず横たわる無惨な彼女の姿が、次々と頭の中を駆け巡る。不吉すぎるイメージだった。
このままいけば必ずそうなると、誰かが警告でもしているように。
「一体どうなってるんだ」
それでも混乱している暇はなかった。奥のレジカウンターの前では男と風花がナイフと傘でやりあっている。彼女が手に持つ刀傘はもうすでにナイロンが破れ、スチールで出来た心棒も右に左に歪に折れ曲がってしまっている。このまま手をこまねいているわけにもいかなかった。
何とかしなければ、とおれは焦った。それにこのまま風花の背中をただ見ているだけなのはごめんだった。きっと今動かなければ、一生後悔する。そうだ、さっき彼女も言っていたじゃないか。
――人にはね、幸夜。立ち向かわなきゃいけない瞬間っていうのがあると思うんだ。どんなに恐ろしくても、どんなに苦しくてもね。
今がその瞬間だと思った。おれは目を閉じて深く息を吸い、鼻から吐き出す。
そして目を見開き、頭をフル回転させて辺りを見回した。
レジ前に並ぶ煙草コーナー、ATM、コピー機、ドアガラスの向こうを見ても真っ暗で人の来る気配はない。入り口の横の傘立てにアイスのショーケース、雑誌コーナー、反対側は女性用生活用品と背中にあるドリンクコーナーだ。
必要なものは大抵揃っているコンビニではあるものの、いざとなると何を使えばいいのかわからなかった。それでも時間はない。
何か、何かあるはずだ。風花を助けるための一手が。
必死に視線を巡らせていると、ふと、そこである物に目が留まった。
おれは『それ』を手にして、息を呑んだ。逆転の一手を見つけた気がした。
「これなら、もしかしたら……」