第七話 『嘘を本当にするために』
小西風花は、ずっと前は普通の女の子だった。
大人しくて、おしとやかで、女の子らしいお洒落なスカートをはいていて。
本人は無意識だったろうけれど、どこか気品があって、クラスの男子からはこっそりと高嶺の花として扱われていた。こう、守ってあげたくなるお姫様みたいな。そのおかげで一部の女子生徒からは目の敵にされていたものの、それに気づけないほど彼女は無垢で純心で、というよりそもそも空気が読めくて、火に油を注ぐような発言もしばしばあった。そんな時はおれがそれとなくフォローするのがいつものパターンで――
彼女はそんな、どこにでもいるような女の子だった。
だから風花が男子さながらに振る舞うようになったのは、もちろんきっかけがある。でなけばあんなに劇的な変化はなかっただろう。
それというのも、小学三年生の時に彼女は不審者に危うく誘拐されそうになったからだ。
男は下校の時間を狙って犯行に及んだと聞いている。言葉巧みに話しかけ、玩具やお菓子といった物で釣り、車に乗せられそうになったところをたまたま自転車で通りがかった人に声をかけられて難を逃れたのだとか。
風花はその時の状況をよくわかっていなかったからか、見舞いに行っても案外普通だったのを覚えている。彼女を変えたのはその数日後の出来事が原因だった。
不審者の男が捕まった、という警察からの電話。それはニュースにも流れた。
男は他に数人の子供を誘拐していたのだという。
うち一人は、すでに殺されていた――とも。
男が声をかけたのは全員が小学生の女の子だった。押収されたものだろう、テレビには男が所持していた大量の女の子の写真が映っていた。当時はまだ子供だったおれでさえそのおぞましさが肌で感じられ、同時に、こんな人間が自分のすぐ近くにいることを知って恐ろしく思った。
もしも風花が連れ去られてしまったら、とニュースを見た大人たちが真っ青な顔で叫んでいたのを記憶している。きっと殺されていた、酷い目に遭わされていた、さらわれずに済んでよかった、と口々に。あまり状況が理解できなかった風花も、周囲のその異質な雰囲気を感じとったのだと思う、ようやく自分の置かれた状況を把握し、それが引き金でショックを受けたようだった。
もしかしたら、殺されていたのは自分だったのかもしれない。
彼女はその事実にうまく受けとめられずにしばらくは引きこもってしまった。
家からも部屋からも一歩も出ず、おれにさえ顔も見せてくれなかった。おれは何度も自分の部屋の窓から彼女の部屋を窺ったけれど、閉ざされたカーテンが開くことはなかった。
それから一週間、二週間と過ぎ、二ヶ月が経とうとした頃に彼女はようやく学校に戻ってこれた。劇的な、大きな変化を伴って。
『やぁ諸君、おはよう!』
教室のドアを勢いよく開け、開口一番に風花がそう言った。
ランドセルは赤から黒に変わっていて、お洒落なスカートの代わりにジーパンをはいていて。背筋はしゃんと、高々と手を挙げて爽やかに。歩き方も前みたいに上品なそれではなく、まるで紳士のようにカツカツと、毅然とした歩き方だった。
それを目撃したクラスメイトたちの唖然とした様子といったら、今でも忘れられない。ここは図書室だろうかと錯覚するくらいに教室が静寂に包まれて、その中を風花は悠然と自分の席に向かっていくのだ。「やぁ」とか「おはよう!」とか、一人爽やかにクラスメイトたちに声をかけながら。
「なるほどです。それであんな変な喋り方をしているんですね、彼女は」
暗がりの映画館の中、隣の席に座るネネがそう茶化してきた。
「風花にとってはそれで自分を保つしかなかったんだよ」
自分が女の子だったから狙われた。女の子の自分は、またいつか狙われるかもしれない。部屋の中でずっと悶々と考え悩んだ挙げ句、出した答えがアレだったんだろう。男っぽい服を着て、口調も態度もランドセルの色すらも彼女は変えてみせた。
目の前のスクリーンに目をやると、いまだにエンドロールは流れていた。横たわった風花をバックに楽しげな音楽が流れ続けている。
話終えたおれは両手で指を組み、視線を逸らすために俯いた。沈黙が落ちる。足元を照らすライトは相変わらず冷ややかで、スクリーンから発せられる光はどこか嘘臭く思えた。隣でネネがポップコーンを頬張る音が聞こえてくる。
おれは俯いたまま、さっきスクリーンに映っていた風花の言葉を思い出す。
――きっとこれは、ボクにとってチャンスでもあるんだ。
彼女はそう言っていた。その意味が、おれにもようやくわかった。
「……風花はたぶん、ちゃんとした形で乗り越えたかったんだと思う。男子みたいに振る舞うような無理はしないで、自分に嘘をつかずに、正面から乗り越えるためにあの強盗の男に立ち向かっていったんだ」
「勇ましい人ですね。カッコいいです」
「うん。本当にそう思うよ。あいつはおれに憧れていたけれど、そんなのは間違ってるんだ。おれはあいつのヒーローでもなんでもない。だっておれは」
「彼女に一つ、嘘をついているから――ですよね?」
間髪入れずにネネが答える。おれは彼女の顔をまじまじと見つめた。
「どうしてそれを」
「ネネはこれでも死神ですから。まぁ、それでなくても気づけたでしょうけど」
「?」
言ってる意味がわからず首を傾げていると、ネネはクスリと微笑んだ。
「あの神社に出てきたお面の少年、玉坂さんじゃなかったんですよね?」
単刀直入だった。断定的な口調で彼女は告げる。
「……うん、その通りだ。あれはおれじゃなかった」
罰当たりにもおれは、拝殿の中でじっと隠れていた。神社で待ち合わせていた風花を驚かせようとしていたからだ。そこへ瀬賀に追われていた彼女がやってきた。助けに出ようにも、班長棒を凶器のように振り回す瀬賀を恐れて出てこれなかったのがことの真相だった。
それを風花はおれが助けたのだと勘違いをして、おれもそれを否定はしなかった。瀬賀にあのお面の少年をおれだと思いこませておけば、風花にも手を出しにくくなるだろうというもっともな理由を傘に着て、格好がつかなくなるという情けない実情をひた隠しにしたまま。
今でもその時を思い出してはわめき散らしたい衝動にかられる。そして、あれからちっとも変わらない自分に腹が立つ。腹が立つけど、立つだけで結局は変われない。風花みたいに黒いランドセルを背負って登校もできなければ、態度を一変させることだってできやしない。まして、強盗に一人立ち向かうことだって。
組んだ両指に力が入った。爪が手の甲に深々と食いこみ、圧迫した指が赤く白くなっていく。次第に痙攣を起こし、震えた両手を額に押しつける。おれは唇を強く噛みしめた。
そこへ突然、声が降ってきた。
「嘘もつき続ければ、本当になることだってあると思いますよ」
振り向くと、声の持ち主であるネネは正面を向いたままだった。目を合わすことなくポップコーンをぽりぽりと頬張りながら続ける。
「まぁこれは受け売りですけどね。でも、現に小西風花さんも自分に嘘をついてたじゃないですか。誘拐犯に狙われないため、っていうのはもちろんあったでしょうが、またいつか来るかもしれない脅威に立ち向かうために、自分を偽っていたんじゃないんでしょうかね」
憶測ですけど、と彼女は呟く。
「……嘘を、本当にするために」
もしかしたら風花も、おれと同じように自分の弱さに悩んでいたんだろうか。偽らなきゃ保っていられない自分に、うんざりしていたんだろうか。だから、それが嫌であの時強盗に立ち向かっていったんだろうか。
いつもおれの後ろにいたあの女の子が、振り向けばいなくなっていた。
いつの間にかおれの横を通り過ぎて、見えなくなるくらいに遠くまで行っている。一方でおれは、今も神社の拝殿の中から、コンビニの棚の影からじっと隠れて見ていることしかできていない。どうしたって彼女に追いつけないのだと思い知らされる。
風花が言っていた、『対等の繋がり』にはほど遠いだろう。
おれはもう一度スクリーンに映る彼女を見た。その無惨な姿を目に焼きつけるために。それからネネに向き直った。
「頼みがある」
「はい、何でしょうか玉坂さん」
嬉しそうに笑みを浮かべるネネ。ものの見事に彼女の術中にはまった形になってしまったけれど、今さら引き返すことなんてできない。おれは言った。
「契約して欲しい。風花を助けたいんだ」
こくん、とネネは頷いた。口元に微かな笑みを作りながら。
「承りました。玉坂さんの望む形に願いを叶えて差し上げましょう」
直後、スクリーンからまた強烈な光が発し始めた。
館内の暗闇が払われ、白一色に塗り替えられる。ネネの姿もかき消され、おれはスクリーンの中に引き込まれるような感覚に襲われる。
――玉坂さんは、スーパーマンになれたら何をしたいですか?
ふいに、そんなネネの言葉が脳裏をよぎった。
おれは空を飛びたいわけでも、目から光線を出したいわけでも、怪力になりたいわけでも、もちろんスカートの中を透視したいわけでもなかった。おれが願うのは、たった一つだけ。
時間を巻き戻して、ヒロインを救って、本当のヒーローになることだ。