第四話 『刀傘』
頬から一筋、涙が伝っていた。
両目は真っ赤に充血し、顎に溜まった雫は落ちるに任せ、画面の中のおれは寝間着姿でひたすら泣いていた。口は半開き、鼻はすすりっぱなし、部屋のフローリングの上にはDVDケースとティッシュが無造作に転がっているという酷い有様だった。
「……サム、ああサム、なんて可哀想なやつなんだ」
涙声で呟くおれ。そんな自分を見るおれのほうが、よっぽど可哀想だと思った。明らかにネネの悪意を感じるけれど、恥ずかしすぎて今は目も合わせられない。仕方なく画面を注視した。
窓の外は真っ暗で、時計はすでに深夜の二時を回っている。
二階の自室、薄暗い中ソファに座ったおれは一人DVDを見て泣いていた。顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっていた。毎週金曜日の夜はこうして泣けるDVDを観賞して過ごすのがお気に入りだった。これが自分なりのストレス発散方法だとはいえ、スクリーン越しにこんな女々しい自分を見るのは正直堪えるものがある。今すぐ席を立って逃げてしまいたい衝動にかられた。
そう考えた直後、フローリングに置いてあった携帯のバイブが鳴った。
「もう、誰だよこんな時間に」
ぶつくさと言って携帯の画面を見る。途端におれは顔をしかめた。カーテンのかかった窓の方を恨めしそうに見て、ティッシュを使って涙を拭って鼻をかんだ。それから立ちあがって窓に向かいカーテンを無造作に開ける。
すると反対側の家の窓から、手を振る少女の姿があった。
鍵を解除してガラリと窓を開けると同時に、むすっとした顔のおれに彼女は言った。
「やあ幸夜。やっぱりまだ起きてたんだね」
「今何時だと思ってるんだよ、風花」
白いTシャツにスエットパンツという、簡素な格好をした小西風花がそこにいた。家が隣で部屋も窓を挟んで近かったため、こうして顔を合わせることがしばしばある。もっともこんな夜遅くに声をかけてくるのは珍しく、記憶にもない。ネネが言うようにこれはおれの記憶から抜け落ちている場面ということだろうか。
「あはは、ごめんごめん。今日はなかなか寝つけなくってさ、それで幸夜の部屋を見てみたら明かりがついてるから、もしかしたら起きてるのかなって。何してたの?」
「別に何でもいいでしょ、おれの勝手だし」
「あ、もしかして、人に言えないようなDVDでも見てたとか」
「はずれ。……いや、まんざらはずれでもないかな」
否定はできないようだった。まさか泣けるDVDを見てただなんて、特に風花には口が裂けても言えないだろう。当の彼女はなぜか、『幸夜も大人になったんだなぁ』と感心したようにぼやいている。何か深刻な誤解が生じている気がするけれど、今の自分にはどうにもできない問題だった。
「それで、用件は?」
無愛想におれが尋ねる。
風花は気にせずニコリと笑った。
「ちょっと外を歩こうと思ってたんだけどさ、幸夜も一緒にどうかなって」
「こんな時間に出歩いたら余計眠れなくなるでしょ」
「まぁ、たまにはいいじゃない。今日は夜風が気持ちいいよ」
はぁ、とおれはため息をついた。
DVDは途中ではあるもののすっかり熱は冷めてしまったし、風花は一人でも行こうとしている。さすがにこんな真夜中に女の子を一人歩かせるわけにもいかないか――そんな風に思ってるのだろう、おれはもう一度、今度は深いため息を吐く。
「わかった、わかったよ。ではどこに参りましょうか、お姫様」
風花は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃ、コンビニで。すぐ着替えるから下で待ってて」
◆
「わっ、これ!」
コンビニに入って早々、風花が興奮気味に声を上げる。手動の入り口をくぐってすぐ脇に設置された傘立てを見るやいなや、目の色を変えて飛びつていた。
「こらやめなって、風花。恥ずかしいでしょ」
まったく子供じゃあるまいし、とおれは呆れ顔。
彼女はスエットパンツからジーンズにはきかえて、白いTシャツの上から紺色のカーディガンを羽織っていた。格好は少し大人びているくせに行動は子供そのものである。レジに佇む40代くらいの頬のこけた男の店員さんが怪訝そうにチラチラと視線を投げてきた。
それを気にしてかおれは慌てて「風花!」ともう一度小声で一喝、けれど彼女はまるで意に介さない様子で、どころかさっきからご執心だった興味の対象に指まで差してみせた。いいからこれをごらんよ、とでも言いたげな嬉しそうな笑みを浮かべて。
おれは突き刺さる店員の視線を気にする素振りを見せつつも、興味はあったらしい。首は動かさず視線だけをそちらに向けた。するとそこにはあったのは。
「……刀?」
いや、厳密に言えば傘だった。
柄の部分だけが刀のようなデザインになっている真っ黒な傘だ。
『刀傘』と呼ばれるもので、雑貨店で売られているのを目にしたことがある。似たようなタイプで、柄の部分がレイピアのようになっているものを風花が一時期使っていたはずだ。驚くようなものでもない。
「これがどうしたっていうの」
「あれ、ピンとこないかい? 前にも話したと思うけど、『バットウーマン』の傘だよ」
もちろん本物じゃないだろうけどね、と風花。それでおれは納得した。
この町にはバットマンならぬ、『バットウーマン』なるものが存在する、いう噂がある。バットマンと同じで主に夜に活動し、一本の黒い傘を手にチンピラや悪事を働く悪人をこらしめて回るのだとか。それも若い女性という話だ。七不思議に飾るにしてはやや現実味に欠けるものだった。
「ああ、ヒーローごっこのアレね」
やや毒の入った言葉を吐くおれに、風花はきょとんとした表情をする。
「そっか、幸夜はこの話が嫌いだったっけ」
「別にそういうわけじゃないけど」
なんとなく気まずい雰囲気が流れる。さっきまで興奮冷めやらぬ状態だった風花も今は落ち着いていて、くるりと踵を返して書籍コーナーの方へと歩いていってしまう。慌てた様子でおれも追いかける。
彼女は目についた女性雑誌の前で立ち止まり、白いワンピースを着た女性の表紙を指先で撫でた。風花のその横顔は少し微笑んでいて、まるで小さな子供がショーウィンドウ越しにあるウェディングドレスを眺めるようなそれだった。
「ボクはね、幸夜。ヒーローは本当にいると思うんだ」
目は雑誌に向けたまま、唐突に彼女はそう言った。
「ヒーローはみんなの憧れで、ヒーローはみんなに勇気を与えるんだよ。勇気はそのうち伝播して、ヒーローがいなくなってもさらにまた新しいヒーローを誕生させるんだ」
ほら、と風花は入り口にある傘立てを――刀傘のほうを指差す。
「アレだってきっとそうだよ。バットウーマンに憧れて真似をしたんだ」
「そんなの憶測でしょ。面白がって買ってるだけだよ」
そう言うと彼女はクスクスと笑った。
「ふふ、それも幸夜の憶測じゃないか。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だったらボクは面白い方を想像していたほうがずっと有意義だと思うね」
「……」
おれはむっとした表情で風花を睨む。けれど結局言い返せず、ふいと顔を逸らして通路の奥の方へと歩いて行った。トイレのある曲がってジュースコーナーに向かっていくと、今度は立場が逆になり風花が追いかける番だった。
「ごめん、幸夜。別に意地悪したわけじゃないんだって」
「わかってるよ」
「ごめんったら」
「もういいよ」
おれは彼女の顔を一切見ずにお茶のコーナーを熱心に品定めしていた。きっと自分のことだ、選んでいるフリをしているだけだと思うけれど。
「幸夜、怒ってるのかい?」
「怒ってない」
「いいや、違うね」
「違くない」
「じゃあボクの目を見てそう言ってよ!」
思わずといった調子で風花が大声を出した。店内中に響く声におれは驚いた様子でハッと彼女の方を振り向く。その時だった。
風花の後ろ、角にあるトイレの扉の上に防犯用に設置された円形のミラーが映った。それと同時にピコピコピコン、とチャイムが鳴る。人が入ってきたのだ。
ミラーは汚れて少し不鮮明ではあったけれど、来店してきた人物の格好は大体認識できる。どうやら男のようで、何やら挙動不審な様子だった。
見た瞬間、おれの背中に悪寒が走った。
ちなみに幸夜の見ていたDVDは『アイアムサム』です。
たぶん古い映画ですが、障害を持つ親と健気な娘に心打たれる作品だと思うので、オススメです。自分はボロボロ泣きました。