第三話 『世界のシステム』
「風花、お前――」
スクリーンの中のおれは、自転車を漕ぐのも忘れて唖然としていた。
バットマンの相棒に――ロビンになりたいという彼女のその言葉はよく覚えている。そして心辺りがあった。ありすぎた。たぶん、さっき見た神社の事件が一因しているのだろう。風花は小学生の時、瀬賀森一に迫られたところを助けられた。
以来、彼女は前にも増しておれの後ろについて歩くようになったし、彼女の行動に巻きこまれるようになったのも、たしかあの後からだ。
ペダルが止まったためスピードが緩み、彼女の自転車に追い越されてしまう。我に返ったおれは再びペダルを漕いで横に並んだ。
風花はごまかすように鼻を指先でこする。
「はは、なんてね。ボクなんて、弱っちいからいつも幸夜に迷惑かけてばかりなのに」
「そんなこと」
「あるよ。幸夜はボクと違って頭も運動神経もいいからいつも助かってるんだ。……まったく、キミも怠けなければ成績優秀、文武両道だっていうのにね」
もったいない、と彼女はやれやれとばかりに首を振った。それから視線を地面に落とし、アスファルトに伸びる自転車に乗った自分の影をぼんやりと見つめる。
「……あーあ、どうしてボクは幸夜とこうも違うんだろう。ボクの頭がもっと良ければ、ボクの身体がもっと丈夫だったら、そしたらボクは……」
「どうしたんだ風花。なんで急にそんな事でネガティブになってるの」
訝しげに問うと、彼女はむっとしたように細い眉をつり上げた。
「そんな事? はっ。幸夜にはわからないさ、ボクの気持ちなんてね。キミは何でも持ってるじゃないか。ボクにないものをたくさん持ってるキミにはわかりっこないよ」
直後、鋭い金属音が響いた。自転車を漕いでいたおれが急ブレーキをかけたからだ。
遅れて少し前で風花も止まる。さぁ、と桜の木の枝が風に揺れ、数枚のピンク色の花びらが舞い落ちた。その黒髪の流れる背中に、おれは語気を強めて言い放つ。
「何が言いたいんだ」
すると彼女はゆっくりと振り返り、しばらくじっとおれを見る。微風が彼女の黒髪を揺らした。睨み合いが続く中、やがてバツの悪そうに彼女は破顔した。
「ごめん。ボク、どうかしてたね。キミと対等な存在になれたらいいなって、そう思ってただけなんだ。……うん、そうだね。ボクは対等な繋がりが欲しかっただけなんだと思う」
「対等な、繋がり?」
彼女は力なく首を振った。
「いや、いいんだ。なんでもない。そろそろ行こうよ幸夜、このままじゃ本当に遅刻してしまうからね」
「…………」
しかしおれは、風花の言葉に応えようとも、自転車のペダルに足をかけようともしなかった。俯いたまま無言を貫いていた。不審に思った彼女が首を傾げる。
「幸夜?」
じっとハンドルの辺りを見つめ、おれは硬く低い声を出した。ブレーキを強く握りしめる。
「おれと風花が対等だなんて、あるはずがないだろ」
吐き捨て、ペダルを思い切り踏みつけた。漕ぎ出して彼女の隣を無言で通り過ぎて走り出す。立ち漕ぎで、全力で、後ろにいる風花を置き去りにする形で。
「幸夜!」
叫ぶ彼女の声も聞こえないふりをして、おれは必死に漕ぎ続けた。
◆
薄暗い映画館の中、おれは深くため息をつく。どっと疲れる感じがした。
過去の自分の映像というのはきっと、それを見ている現在の時間から遠ければ遠いほど、恥ずかしさや嫌悪感は薄れていくものだと思う。昔に遡れば遡るほど、今の自分とはかけ離れ、それはほとんど他人のように思えてくるからかもしれない。
逆に言えば現在の自分に近ければ近いほど今の自分と重なり、こうして酷い気分に陥る。
この映像はつい最近のやりとりだった。もっとも、今のおれはここがどこかも日付も曜日もわからないけれど。それでもスクリーンの映像は記憶に新しかった。おれと風花はめったに喧嘩はしないから、余計に印象が強かったというのもあるだろう。
むっとして彼女の顔も、後ろから叫ぶ彼女の声も、今も鮮明に覚えている。あの時はおれもどうかしていた。あの後はなし崩し的に関係は修復できたけれど、お互いにわだかまりは消えないままだった。
おれは風花の幼なじみにも拘わらず、案外彼女のことを何も知らないのかもしれない。そう思った。
知ってはいるけれど、それは上辺だけで。理解していたつもりだけど、それは表面だけで。小学生からずっと一緒にいた身近な存在だったはずなのに、彼女が酷く遠い存在に思えた瞬間だった。
「うわ、ベタな青春ですねっ」
開口一番、隣のネネがそんなコメントする。あまりの素直な感想に呆れはすれど怒る気にはとてもなれなかった。
「いや、ベタなって」
「あ、これはすみません。あんまりにもベタだったもので思わず。えへへ」
謝るも悪びれる様子はなかった。死神だからそれも仕方ないか、と思ったが、いつの間にか彼女を死神だと認めている自分に気づき、余計に力が抜けてしまった。
ネネは白く細い指先でポップコーンをつまみ上げる。
「でも、面白い方ですよね、小西さんって」
「ああいうのは変な奴っていうと思うけど」
「恋人なんですか?」
軽くむせてしまった。恐ろしく直球だ。
「そういう関係じゃないよ。ただの幼なじみの腐れ縁。あいつは恋人じゃなくてただの変人」
あはは、とネネは吹きだす。おれもつられて頬が緩んだ。
気づけば少し昂ぶっていた感情がおさまり、冷静さを取り戻すことができた。引っ込みかけた疑問も沸々とわき上がってくる。とりあえず、さっきの映像のことはひとまず置いておいて、だ。
「なぁネネ。一つ聞いてもいい?」
「はい、ご質問ならいくつでも。まあ大体予想はついてますけどね」
え、とおれは間の抜けた声を上げてしまう。
ネネはひょいとポップコーンを口に放りこみ、指先についた脂を丁寧に舐めとった。
そして面食らうおれに、彼女は妖しい笑みを浮かべてみせる。首筋がゾッとするような、人形めいた笑みだった。
「どうして死神が人間に走馬燈を見せるか、それを聞きたいんですよね?」
「……ッ」
瞬間、空気が変わった。
軽口を交える穏やかな雰囲気が一変、息をするのも憚られるほどに。触れてはならないものに触れてしまったような、もう後戻りできないところに足を踏み入れてしまったような、そんな感覚。ところがそんな緊迫した雰囲気を壊したのは、当の死神である彼女だった。
「あはは、そんなに硬くならないで下さいよ。別に隠すつもりもありませんし、いずれは話さなきゃいけないことですしね」
「どうして」
「それは玉坂さん、あなたと契約をしたいからです」
契約? とおれは馬鹿みたいにオウム返しに聞いてしまう。
「ええ、契約です。願いを一つ叶える代わりに、あなたの魂をネネに渡してもらいます」
「渡すって……それ渡したらどうなるの?」
「地獄行きです」
さらりとネネはそんなことを口にする。
「現代の人たちは誤解しがちですけどね、そもそもあの世のシステムは皆さんが考えてるものとちょっと違うんですよ」
「違うって、善い行いをした人間は天国に、悪い行いをした人間は地獄にってやつ?」
「ええ、そのシステムが根本的に違います。善行を積んだ人も悪行を重ねた人もとりあえずは変わらず天国に行けるようになってますからね」
軽い衝撃だった。いや、聞く人が聞けばそれどころの話じゃないだろう。天国や地獄という言葉自体現実味があまり感じられないけれど、それでも人を何人も殺した人間がぬけぬけと天国へ行けるシステムというのはどうなんだろう。
「不公平じゃないかな、それ」
「いえ、天国行きか地獄行きかは本人が決めるというだけですよ。死神と契約をすれば地獄に、契約しなければそのまま天国に直行です。ま、現世にどれだけ未練があるかというのがポイントになるでしょうか」
「未練……いやそれでも普通、地獄に行くとわかるなら契約なんてしないと思うんだけど」
「だからですよ。そのための走馬燈なんです。人間が見る走馬燈は過去のシーンがランダムに流れていると思われがちでしょうけど、実はそこにちゃんとしたパターンが存在するんです」
ネネは人差し指をぴんと伸ばし、悪戯っぽくおれに突きつけてくる。
「そこで問題です玉坂さん。人は、どんな時に『やり直したい』と願うでしょうか?」
答える間も与えず、彼女は前方のスクリーンを手で示した。二の句を継げずにそっちに目を向けると、いつの間にかさっきと違う場面が映し出されている。
これが最後です、とネネは静かに告げた。
「玉坂さんがどうしてここに来たのかも、記憶を失ってしまったその理由も、これを見ればすべてがわかると思いますよ」
途端にスクリーンの光に輝きが増した。おれはそのまま吸いこまれるような感覚に襲われ、同時に、さっきのネネの質問が頭から離れなくなった。
――人は、どんな時に『やり直したい』と願うでしょうか?
そんなの決まっている、とおれは思った。人が後悔をした時だ。